今川家次期当主、今川氏真に補佐がついた。
その補佐は、義元が拾ってきた娘であるらしい。
……この娘、三度の出陣から見事生還し
その時その時見事に首を獲って帰っているらしいが。
さて、その才やいかに。
「っていう噂話を小耳にはさんだんだけどさ。官兵衛殿はどう思う?」
「興味が無い。今川は既に天下の争いからは身を引いている。
その上、今川氏真に関して言えば、父ほどの才は無く、火種にはなりえない」
「うっわー。つまんない反応」
織田にて、そのような軽口をたたき合うのは竹中半兵衛と、黒田官兵衛である。
織田信長は美濃を攻め立て、手中におさめた。
それに伴って、斎藤家は滅亡となり、浪人となった半兵衛は
見事、秀吉に互いが望んだとおりに、召し抱えられたのである。
そうして、織田へとついた半兵衛が、主にちょっかいをかけるのは
同じく軍師の職に就く黒田官兵衛だ。
顔色悪く、他人を寄せ付けない官兵衛が、半兵衛はどうしても気になる。
放っておけない。
物言いで損をする類のこの男を、半兵衛は、なぜかいたく気に入ってしまったのだった。
ちょろちょろと足元をうろつく猫のように、近寄っては離れ
適度な距離を保ちつつ、半兵衛は官兵衛にちょっかいをかけ続けている。
今のこれも、その一環だ。
だから半兵衛は冷たく切り捨てられても気にもせず
官兵衛の腕をもうっと叩いて、すました顔で言ってやる。
「そうは思っててもさー。思わぬ障害になるってこともありえるじゃん。
なんせ、今川義元だよ?あの人の内政手腕は革新的だ。官兵衛殿はそう思わないの?」
「内政だけが良くても仕方があるまい。
半兵衛。卿は、義元に雪斎がもう無いのを忘れてはおらぬか」
「そりゃそうなんだけど。でも多分、補佐役の子はその雪斎役にって望まれてるよね、確実に」
「それほど今川義元が愚かだとは、私は思わんが。
雪斎そのものをこなすのは、唯人では不可能だ」
「まぁ、ねー。ていうか、俺の言葉をことごとく否定しないでよ、お願いだからさ」
太原雪斎ほどの才は、不世出のものである。
いくらその補佐役の娘に才があったとしても、彼に届くのはまず不可能だろう。
外交・戦に対して才のある雪斎と、内政手腕にすぐれた義元。
二人揃ってたら、いくら信長だってヤバかっただろうね。
戦で敵を破り、その資金は内政で稼ぐ連鎖が出来上がってりゃ
上洛するのは今川義元だった、かもしれない。
…ていうか、桶狭間で信長死んでりゃよかったのに。
そう思いながら、桶狭間で義元を打ち破った信長の勝利は
雪斎が没していたことに大きな勝因があると、半兵衛は考える。
そうでなければ、いくら織田信長であっても、今川への勝利は難しかったであろう。
いくら。
そう、いくらだ。
織田信長は嫌いだが、織田信長の才は認める半兵衛でも
太原雪斎存命中ならば、いや太原雪斎相手なら、桶狭間は…恐らくとして。
そのように思わせる人物の代わりなど、官兵衛の言うとおり、務まるものはまず居まい。
まぁそうなんだけど
と繰り返して、被った帽子に手を当て位置をなおした。
「あのさ、それでも、今川は三河挟んで近いからさ。
少しは警戒しとこうよ、官兵衛殿」
「警戒はするが、卿の言う警戒は必要以上だ。あれはじきに親織田勢力になる」
「……ま、ね。そりゃ俺だって認めるけどさ」
官兵衛の言葉は真実を言い当てている。
ので、半兵衛は仕方なく肩をすくめて同意した。
賢い賢い義元公は、美濃すら手中に収め、上洛に一番近い織田と事を構える気はもうないだろう。
それどころかむしろ、親織田外交に外交を切り替えるはず。
いや、既にその準備は着々と整っているといっても良い。
昨年五月の休戦協定以来、穏やかである二国間の情勢を思い出しながら
半兵衛は今日もまた、にべもなく終わった会話にこっそりとため息を落とすのだった。
「へー。今川にも戦う子がいるんだ」
頬に人差し指を当て、女性にしては少しだけ低めの声で言うのは
成田の甲斐姫だ。
北条に属す彼女は、女性だてらに戦場で戦っている。
そうして、同じように今川でも戦場で戦う姫がいると聞いて
彼女は親近感を感じ、若干心を喜ばせていたの、だが。
「いるにはいるが、うぬよりかは賢かろう」
「む、うわっ風魔!」
突如として現れた小太郎に、両手を上げて驚く彼女の動作はコミカルだ。
年頃であるのにこういう動作をするから、彼女が言うようにはもてないのだと
小太郎は知っていたが、黙っておいた方が愉快であるので、口をつぐむ。
「ていうか、私よりか賢いってどういう意味よ!
私が馬鹿だって言いたいわけ。ていうか、言いたいんでしょ、ゼッタイ!」
どうしてそう底意地が悪いんだか、あんた!と付け足して
甲斐姫はふーっと毛を逆立てる子犬のように、小太郎に向かって吠える。
そんな彼女に目を若干細めて、風魔小太郎はさてな。と彼女の言うように
底意地の悪い声で言った。
「我は事実を言ったまでだが。あの藁は、子犬、うぬよりかは賢いはずだ」
「うぬよりか…なんであんたそんな失礼なわけ?
私だって馬鹿じゃないのよ、馬鹿じゃあ!!」
「賢しくは無いがな」
「ぐ、ぐ、ぐぬぬぬぬぬ…!!」
ここで頭、良いわよ!と言えぬ程度には、甲斐姫は己を知っていたし
厚顔でもなかった。
じぶんは、馬鹿でないけど、頭が良いというほどじゃない。
だがら、ぐぬぬと歯ぎしりしながら小太郎を睨みつけるしかないわけで。
そうして行き場のない甲斐姫の怒りは、見も知らない
話の中心にある今川の拾われ姫に向けられるわけ、で。
「そ、そ、その子が何だって、戦場では私の方が上なんだから。
あんたにもいつかそれを認めさせて」
「戦場…か。藁については、氏康も礼儀正しいと認めておったが」
「…………礼儀…ていうか、あんたじゃなくて、お館さまが…」
普通の女の子。というのは、礼儀正しく賢く、たおやかに、殿方の半歩後ろを歩くもの。
けれどもその像とはかけ離れた、戦場に立つ自分に対して
普通の女の子やりたいと、若干の不満がある甲斐姫は
賢く礼儀正しいという要素を満たす姫の情報に、打ちのめされたように呟きを洩らした。
………あの、あれ。である
義子は普通の女の子、とはかけ離れているのだけれども
知らぬ甲斐姫にとっては小太郎からもたらされる情報がすべてだ。
一時は親近感すら覚えていた見も知らない女の子相手に
なんとなくもやもやしたものを覚えて、落ち着かない気分になる甲斐姫に
小太郎は面白そうに目を細め。
「気になると言って、氏康はあの藁と文通をしているようだが。
良く気にいったことだ。我も驚くが」
そう小太郎は、明らかに煽る口ぶりで甲斐姫にそう告げた。
小太郎にとって、甲斐姫はていの良い玩具だ。
風が吹けば稲がそちらに揺れるように
ふらーふらーと小太郎の言葉で容易く揺れる。
今回だとて例にもれず、ほら。
「し、しかも、お、お館さまのお気に入り。文通……」
面白がって火をつける風魔の言葉を聞いて
甲斐姫の胸に宿るのは、例えるならお父さんとお兄ちゃんを
誰とも知らない子にとられたような、そんな可愛い嫉妬だった。
無論、北条氏康は使えるべき主君であり
風魔小太郎は気の食わない同僚であるのだけれど、けれど。
へっ、やりゃあできるじゃねぇか、だとか
子犬にしてはよく考えたな。よしよし、だとか。
やっぱ、なんか、その子、気に食わない、か、も。
思いっきり、甲斐姫で遊ぼうとしている風魔小太郎の計略に
はまっていることにも気がつかず
甲斐姫はうぐぐぐぐっと声を上げた後、勢いよく拳を握った。
「あ、私負けない、その子に負けない、ゼッタイ負けない!!」
負けないも何も、件の姫こと
義子は、肉体年齢十二歳なのだけれど。
いくつも上の甲斐姫が張り合うのは、大人げなさすぎる。
だがそこまでの情報は甲斐姫は持っておらず。
満足げな小太郎の頷きに、甲斐姫は拳を天に突き上げることで答えたのだった。
………思い切り弄ばれている。
今川に才ある女児あり。
輝元から聞いた噂話に、松太郎、こと毛利元就は文机の前でへぇと気のない相槌を打った。
「…へぇ、ですか」
「うん、まぁ。今川も見てきた様子だと、もう天下に興味は無いようであったしね。
我々と関わることも多分…いや、今川が織田に付けば、話は別かな」
さらりさらりと、自らの記す歴史書を進めながら、元就は輝元へと返答を返した。
それに、不満げな気配を輝元がさせているが。
仕方がないよ。
元就はそれよりも歴史書の執筆を優先させて、さらり、さらりと筆を動かす。
そういえば、今川では歴史書を褒められたなぁ。
昨今見かけぬほどにしっかりした物言いの女児に、歴史書を見せて
面白いといってもらえた嬉しい記憶を掘り返して
ふふふと元就が思い出し照れをした。
そんな彼の動作を、微妙に引いた顔で見ていた輝元は
「で、その拾われた女児が
義子姫というそうなのですが
三度の出陣で、三度とも大の男の首を獲ったと」
「そうかい。では、今川義元公の見立ては
今のところ正しいと、そういうことなのだろうね」
「……………そうですね、大殿。では、私はそろそろ執務に」
「うん、あんまりさぼっては駄目だよ」
あんまりにも気のない元就の対応に、輝元は肩を落としながら立ち去る。
その姿を見送って、やれやれこれでようやく集中して進められると
輝元が聞けばさらに落ち込むようなことを思いながら
元就は、それにしてもと輝元の言った女児の名前を思い出す。
「…
義子姫、か」
たしか今川であった歴史書を褒めた少女も、そういう名前であったはずだ。
兄を待っていると言っていた、年よりも随分と大人びた、教養のある少女。
「あの子がそうであるのなら、少し物語のようで面白いかな」
すこぅし物見に出た先で、出会った少女がお姫様。
物語のようなそれに、そうであったなら、愉快だけれどともう一度思って
それから、毛利元就はくすりと笑うと
「まぁ、そんなこともないか」
もしもそうなら随分な展開だと、笑って彼は歴史書の執筆を再開させるのだった。
そういう、永禄五年の冬頃、各地での
義子の噂話の情景である。
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