さて、竜爪山の山賊を見事退治せしめた義子だが
『力を認めさせるにはまだ足りぬの』
…と、義父、今川義元公が仰るので、現在彼女は
斎藤より流れてきたという落ち武者どもを狩る部隊を、進めている。
情報によれば落ち武者の人数は二十数名。
息子や夫を殺されたという複数の村々からの嘆願によって
動かされた部隊であるが、されはて。

一体、どちらが先に仕掛けたことやら。

桶狭間から敗走する義元を救った義子は実体験として、よぅく知っている。
金品や報酬目当てに落ち武者を襲う、善良な村人たち。というのがいることを。
けれどもその善良な村人たちは、今川の領民である。
あるからには、助けなければならない。
ただ流れてきて、善良な村人相手に反撃した
結果がこれなら可哀そうにとは思うが、これもお仕事。
今川義元公は、使えそうな人間がいたら助けても良いの。とは義子に言ったけれども
それは裏を返せば、使えそうになくば皆殺してしまえということだ。
やれやれ。
命令を下す時の義元が、いつもの調子、であったことを思い出して
義子は馬上で何とも言えない表情を浮かべた。
顔だけなら父上は善良そうなのであるが。
まったく、施政者と言う奴は。
虫も殺さぬような顔をしながら、使えぬならば皆殺しにせよという義元は恐ろしい。
それでも、その恐ろしさに慣れなければならないのが、義子の立場だ。
山賊退治の時と同じように、朝比奈泰朝以下四十五名を引き連れ
落ち武者たちが潜伏しているという村に馬を歩かせる義子
空を見ながら、えらい道を選んでしまったものだと、ただどうでもよく思った。
現代に戻れないと思った以上、ここで生きていくより他ないという覚悟は
既に決めてしまっていたからだ。












一時ここに腰を落ち着けているようだというたれ込みのあった
村の外れのあばら家で、息をひそめていた落ち武者二十名を襲撃した義子たちは
彼らと現在交戦中だった。
先ほどまで、気合の入った声を出し、こちらに向かってきていた男の首から刀を引き抜き
後ろに向かってくるりと逆向け思い切り突き刺すと
背後でぎゃあ!という短い悲鳴が上がった。
逃亡には邪魔だからかは知らないが、鎧兜を落ち武者たちがつけていなくて、助かる。
腹圧のせいで、飛び出た臓物を抑えながらうずくまる男を前に
冷静にそう思って義子は持った刀を振り下ろし、うずくまる男の首を容易く落とした。
頚椎の鈍い感触があった後、男の首が、ごとりと音を立てて重く床に落ちる。
兄者!という短い悲鳴が向こうで上がった。
義子がそちらへ素早く目をやると、男が一人憤怒の表情をして
義子の方へと駆けよってきている。
あぁ、弟なのか。
頭の隅でそう思いつつ、義子は男が振り下ろした刀を
とっさに刃で受け止めた。
大の男の根かぎりの一撃は、義子の小さな体と細い腕をびりびりと震わせ
義子は思わず刀をとり落としそうになった。
それを気合で留めて、義子はただ耐える。
「っく」
「子供が!子供が!生意気にもわしの太刀を受け止めるか!
兄者を殺すか!!」
憤り、悲しみ。
それを前面に出して、涙を流しながら叫び、男は更に体重をかけ義子へと刀を押す。
ぎりりと、ぶつかりあった刀と刀が音を上げた。
拮抗は一瞬だった。
力で負ける義子の刀が、僅かに揺れてぶれる。
「……」
「どうした娘よ、ほら、まだ行くぞ」
兄を殺された怒りに身を任せ、弟は義子を嬲れることに喜びを感じながら
更に更に義子の方へと身を寄せ刀を力いっぱいに押す。
これは、確実に押し負ける。
元から力でかなうとは思っていないが、あと少しも持たずに
叩き斬られると悟った義子は、一旦ふっと力を抜いて
相手の刀の軌道の先から体をずらした。
「ぬぁっ!」
すると、相手は無様によろけかけ、その隙をもって
義子は相手の金的に思い切り蹴りを食らわせる。
「う、ぉうっ」
男の弱点をつかれた相手は、苦悶の表情を浮かべて座り込んだ。
痛みからか、その体はピクリピクリと痙攣をしている。
その背中を狙い、義子が思い切り刀を振り下ろすと
男はいともあっさり絶命をした。
「…あぁ、死ぬかと思った」
それでも義子は助かって、弟の方も義子が殺した。
………これで、兄弟そろって義子があの世に送ったわけだ。
下らぬことを考えて、義子は刀を下ろして血を振り払う。
………義子が殺した兄妹の弟の方が、最後の落ち武者であったようだ。
累々と横たわる落ち武者達の死体を前に、義子はため息をつきながら、弟の首を落とす。
「死体の数を数えましょう。各人。自分が落とした首を私のもとに」
引き連れてきた手勢に指図をすると、彼らは一斉に自分が殺した者の首を集め始める。
義子は三人殺したので、三人の首を、自分の前において、その顔を眺めた。
義子が殺した三人の人間。
……人間の肉を絶ち、骨を斬るその感触にはまだ慣れない。
罪悪感も、胸が痛む感情もある。
けれど、生きるためだと割り切って、生きたいという欲望の元
人を殺していると認めてしまえば、躊躇いは生まれなかった。
こういうのを、人でなしと言うのだな。
現代であれだけ人殺しはいけないと教えられてきたのに、あっさりと殺せてしまう自分には
いい加減その素養があると認めて、義子は手に持った刀を鞘に収める。
義子様、首実検の用意が整いました」
「分かりました、ありがとう。ご苦労様です」
本来であるならば、いろいろと準備もしきたりもある首実検だが
今回は、今回の討伐へ参加した者たちへの給金の支払いで
行わなければならないだけのものであるので
それぞれが討取ったと申告する首の数を帳簿につけることだけを行う。
「死体はどうされますか、義子様」
「あぁ…………父からは何の命令もありませんでしたので
埋めるのは埋めても良いのでしょうから。
村人に言って、どこぞに無縁仏として埋めて頂きましょう。
我々は、このまま帰還、ということでお願いします」
「は」
近寄ってきた男にそう返答を返して、義子はもう一度転がる死体たちを眺める。
一歩間違えば、あぁなっていたのは義子であった。
今回、兄弟の弟の方に視線を向けず、斬られていたならば。
受け止めきれずによろけていたならば。
義子はまず間違いなく死んでいた。
…そろそろ、変わらなければならない。
足元に転がる死体のようにはなりたくない義子は、方針の変換をしなければと思う。
いい加減、現代に帰れないことは分かっている。
現代に、もう帰れないとも、自分で思った。
なら、義子は、本当に、戦国の人間にならなければ。
二年目の秋にしてようやくそう思って、義子はふぅと息を吐いた。
義子は今川義子だ。
前の名字は、もう捨ててしまおう。
折れてしまわぬよう、意図的に思い出さなかった親の顔も友達の顔も
全部全部忘れて、そうして義子は、本当に今川義子になってしまおうと思った。
そうでなければ、生き残れない。
人を殺し、家を守り、そうやって生きていく戦国の世の人間に、義子はなる。
生きたいのなら、いつでも、そのための最善の努力を。
そういう義子の意思でもって、義子は今この時、現代の生活と常識を完全に切り捨てたのであった。



時は永禄五年、秋の頃の話である。