永禄五年、夏。

今川義子、山賊退治を見事こなす。
一人の死者も出さず、一人の取り逃がしもなく
おまけに一番駆けを務め、山賊の首魁を打ち取るという完璧な結果を出した義子
そんな彼女に、虎視眈々と補佐役予定を覆そうと狙っていた勢力は肩を落とし。
そうして、義子は一時の平穏を手に入れていた。


庭の花を愛でながら…薬湯を飲む。
「………兄上、さすがにこれは…美味しくありません」
「そうかな。特別どうとも感じないけれどね。
飲まなければならないのが、面倒くさいとは思うけど」
「………我が子ながら、味覚がおかしい、の…」
現代では暑気払いといえば、酒だったり清涼飲料を飲むことだったりするが
昔は、体を冷やす効果があるものを摂る、ということで薬湯などが飲まれていた。
それに従い、じりじりと身を焦がす夏の熱気を、体から取り除くべく
庭の見える部屋にて、今川親子は皆揃って薬湯をちびちびと飲んでいる。
「………父上、ひょっとして兄上が食べ物に興味が無いのは、味覚が壊れているからなのでは」
「その可能性はあるの…。こだわらないという言葉では済ませられないのじゃの」
まずい。
というレベルではない薬湯を、仕方なく、ちびりちびりと飲み進める義子と義元に対して
氏真はぐびぐびと何でも無さそうに薬湯を飲んでいる。
さすがにその光景に、味覚が壊れているのではと、ひっそりと父親に向かって話しかけると
彼もまた、思うところあったようで、眉をはの字にしながら義子の言に頷いた。
しかし、さほど離れていない位置でのことである。
もちろんその会話は氏真の耳にも届いていて、彼は苦笑をしながら薬湯の入った椀を置いた。
「聞こえていますよ、父上も、義子も。
私は別に、美味しい美味しくないぐらいは分かります。
ただ、まずかろうがうまかろうが、どちらでもよいと思っておるだけですよ」
「どちらでもよいで、そのように飲めるものでしょうか」
苦々しくもえぐく、それでいてふんわりとした臭みが口の中に広がり
後味はしょっぱくて酸っぱい最悪な飲み物に、視線を落としながら言う義子
氏真はもちろんっと、歯切れよく頷く。
「特別どうということはないだろう。
ただの、飲み物だよ義子
「………ただの」
「飲み物かの…」
義父と二人、目配せし合って、明らかにあいつおかしいという感情を共有した義子
仕方なく、ちびりとまた薬湯を口に運ぶ。
「………ぉぇ…」
これに比べれば、まだ草の方がおいしい。
漢方と言うものはどうしてこう、と言葉にならない感情を抱いていると
義元が、そっと、義子の手に自分の椀を持たせる。
はてなと思って彼を見ると、義元はすがすがしい表情をして、窓の外庭の花を眺めていた。
「………これは、ひょっとして後は任せたということでしょうか、父上」
「の!」
「いえ、の!ではなく」
あんまりにもまずいのでもう飲みたくはないが、残すと悪いということか…。
容易に予想がつくが。
それは義子とて思うが、しかしだな。
手に持った椀を見て、それから義子は義元に渡された方を、そっと氏真の手に持たせる。
「………義子
「父上が、後は任せたと」
「任せられたのはお前だろうに。まぁ良いけれども」
ため息をついて受け取る氏真は、義子に甘い。
なんだかなぁと自分で渡しながらも思っていると、彼は義子の表情を見て
それから椀を持っていない方の手を、義子の方へと差し出した。
「兄上?」
義子の方の椀も出したらいいではないか。美味しくないのだろう?」
言われて、義子はぱちくりと目を瞬かせて、氏真は本当に甘いと思う。
義子は自分の分については、何一つとして言っていないのに。
「………兄上は、最近私に蜂蜜に砂糖をかけて煮詰めた上に
更に蜂蜜をかけたように甘くないですか?」
恐らくとして近頃の甘さの加速化は、義子義子として可愛いと思い始めたその証なのだと思う、けど。
あんまり無暗に人を甘やかすな。
眉間にしわを寄せてそう言えば、義兄は逆に不可解そうな顔をして義子の頬を軽く突っつく。
「そうまで言われるほどではないよ。お前の甘いの基準は少し低すぎるのではないの?」
「確かにそれはそうだの。もう少し甘えれば良いの」
氏真の反論に、それまで原因のくせをして我関せずの顔をしていた義元が深く頷いた。
それにあなたが原因なのですけれども、と思う義子だが
それを分かる義元は今川義元ではない。
彼は義子の方に近寄ってきて、の。というと、そっと義子に今度は袂から出した鞠を持たせた。
「…………あのぅ…父上」
義子。蹴鞠は和の心。皆で蹴鞠れば自ずから、心を開けるようになる、の」
「………え。この、くそ暑いのに、ですか?」
あなたがやりたいだけでは?
という言葉は口には出せないので、みぃんみぃんとセミが鳴き
容赦なく日差しが照りつける庭へと視線をやる。
無言の抗議だ。
そうして、義子につられて義元もまた、如何にも暑そうな庭を見た、が。
「蹴鞠をするのに暑いも暑く無いも関係ないの。
ただ鞠と蹴鞠を愛する心があればよいの!」
蹴鞠への愛の元には、彼には暑さ寒さは関係ないらしい。
このくそ暑いのに、外で?
心底嫌そうな顔を作って義兄の方へと視線を移すと
彼もまた面倒くさそうな顔をして義子を見ている。
けれども。
「…義子、面倒だ。面倒だけれども、父上がお望みだから…」
訳:父上が望んでいるからには仕方がない。諦めるんだ。抵抗が無駄なら私は抵抗しないよ、面倒だから。
「………えぇ、はい、いいえ。あの、はい」
訳:え………あ、まぁ、それはそうですよね…。父上がお望みなのですから…抵抗しても…。
今川兄妹が、父・義元に色んな意味で敵うわけがない。
命綱相手に、最終的に逆らう気が無い義子と、父には逆立ちしても叶わないことを知っている氏真。
両名ともに諦めきった顔で、太陽光によって湯気の立っている庭の石を見ながら、ふぅっと大きく深いため息をつく。
が、義元はそれすら無視して、鞠を渡していない氏真の足の間に
そっと鞠を置いて二人をわくわくと見つめるのであった。

……空気読んで下さいよ、父上…。

娘息子にそう思われる義元だが、こと蹴鞠に関して言えば
生涯彼が空気を読むことは、ついぞなかったという。

そういうつまらなくて下らない夏の暑い日の話。