山賊退治より帰ってきた
義子を迎えたのは、義兄の熱い抱擁だった。
「
義子、良く帰ったね」
ぎゅうっと、息もできないぐらいに抱きしめられて
義子は目を白黒させながら義兄の背中を叩く。
ばんばんと音を立てていると、氏真はようやく腕の力を緩めて
義子の顔を見た。
「怪我は無いかね、
義子。そんなに赤々しくなって」
「ご心配無く、全て返り血です」
確かに
義子はどこもかしこも真っ赤っかだが、それは全て山賊の頭目の血によるものだ。
それもどうかと思いつつ、心配げにする氏真に答えると
彼はそうか、良かった、と言ってから、ん?と動きを止める。
「…返り血?」
「そうです、若君。
義子さまは、勇敢にも一番駆けを務めた上
頭目を最初に討取るという、素晴らしいお働きを見せられたのです」
「なるほど。それはよくやったね」
由比正純がそう説明すると、氏真は
義子の血で固まった頭を撫でる。
「兄上、汚れます。まだ完全に乾いたわけではありませんので」
「まぁ、良いではないか。義妹の初陣を心配していた
義兄に、少しぐらい譲りなさい」
「着物が駄目になったら困ります」
いつも通り、上等な着物を着ている氏真に遠慮をしていると
ふと、義兄の後ろの方から義元が、ぶんぶんと手を振っているのが見えて
義子はぎょっと顔をひきつらせた。
「ち、父上!」
「遅かったの。遅いからつい来てしまったの。
出来れば麻呂のところに一番に来てもらいたい、の!」
「殿、これからご報告に上がろうとしておったところで」
思わぬ父の登場にうろたえる
義子と一緒に、控えた由比や岡部もあわあわとする。
それはそうだろう。
主君に迎えにあがらせる部下など、どこに居るというのだ。
今だ城の入り口付近で足止めを食っていた彼彼女たちは
にこにことした顔で近寄ってくる義元に対して、ただ震えあがる。
例え、義元がこのような些事で怒らない人物であっても
それはそれ、これはこれ。
けれど、その
義子たちの様子を見て空気を読むような男であるのなら
そもそも自分から迎えに上がったりはしないのである。
今川義元は、山賊狩りを命じた彼らの様子を気にすることなく
氏真に手を伸ばして、
義子を彼から受け取った。
「よぅ帰ってきたの。麻呂は大変に嬉しいの」
「は、あの、ご報告が遅くなり申し訳ありません父上
というより、あの、汚れます」
義兄にしたのと同じように、遠慮をすると、義元は
義子の顔を覗き込んで
高い高いと天にむかい持ち上げる。
全くの子供扱いに、
義子が思わず顔をしかめていると
彼は岡部正綱の方へと視線を向けた。
「して、正綱。
義子をどう見たの。正直に報告すると良いの」
義子の脇を持ち、ぶらぶらとぶら下げたままいう主に
岡部正綱は、微妙な表情を浮かべたが、この主がゆったりと…微妙なのはいつもなので
気を取り直して報告をする。
「は、では私見でありますが。この正綱が思うに。
………
義子様には全く問題が無いかと。
賊めを三方から攻め立て、一人の死者も出さず殲滅せしめた、実績。
僅か十二の女児にして、一番危険の高い部隊に迷わず入り
かつ、一番駆けを務めるその、度胸。
求められているものを理解する、知性。
山賊の首魁を打ち取った、武。
まぁ、まぁまぁ。いずれ、皆理解するでしょう。仕方がないと」
その言い方は不遜だが、つまりは岡部はやはり
義子を認めたということだ。
他にも、山賊の首魁の首を
義子がとったことや
その他もろもろ報告をする岡部正綱の隙を狙って
氏真がのほほんと手を振って。
義子は褒める意図のそれに、ただ笑顔でもって答えた。
山賊討伐、その労いの酒宴を、まだ年も小さいということで
途中で帰された
義子は、自室にひかれた布団の上に倒れ込んだ。
「………つかれ、た」
倒れ込んだ拍子に、目の前を自らの黒髪が音を立ててさらりと流れる。
その髪をひと房つまんで、彼女はこの髪は先ほどまで血で塗れていたことを思い出す。
「…人を、殺した」
自分のために。
重々しい罪悪感は、胸に確かにある。
犯罪者とはいえ、生きていた人間を、
義子は首を突いて殺し、腹を刺して殺した。
………命を損ねる、豆腐のようなぐんにゃりとして感覚が
手によみがえってきて、布団を掴んでそれをごまかす。
「忘れるな、あれは、自分のためだった」
「ほぅ。うぬは殊勝なことを言う」
初めて殺した人たちの顔を思い出しながら
義子がそう呟いた声に
なぜか誰もいないはずの室内から返答が返ってきた。
と、思えば、頭に重い衝撃が走る。
………この登場の仕方は。
足で頭を踏みつけられたのだと認識した
義子が、抗議の意味を込めて
布団を叩くと、足は以前とは違い、あっさりと離れた。
そのことにため息を吐きつつ、
義子は布団から起き上がって、背後を振り返る。
「………久しぶりですね、風魔殿」
「くく、驚かぬとは、相も変わらず可愛げのないことよ」
赤い髪に、模様を描いた白塗りの顔をした
とても人間とは思えない北条方の忍びの言葉に、
義子はただ眉間にしわを寄せる。
「それは、勝手に人の城に忍びこんだ方が言う言葉ではないでしょうに」
「暫くみぬうちに、口数が増えたものだ」
「まぁ、もう、一年半にもなります故」
義兄と義父に猫かぶりを見破られて以来、減らず口が増えたことを指摘され
義子は気まずく頬をかく。
確かに前にあった時には、いずれも猫を被っている時期であった。
が、しかし。
いつまでもそうやって和やかに会話をしてばかりいられない。
義子は、立ち上がると、北条の忍び風魔小太郎から一歩二歩離れ、で?と彼を促した。
「それで、風魔殿は何故ここに居らっしゃるのでしょう。
氏康様から父上に何かありましたか?」
問いかけると、風魔はあっさりと首を横に振る。
「いいや。我がここに居るのは、ただの座興よ」
「はぁ、座興。座興で城に忍びこまれたのでは、たまったものではありませんが」
「なに。藁がとうとう人を殺すということを、小耳にはさんだので、な」
…小太郎が藁と呼ぶのは、
義子のことだ。
なんとまぁ耳の早い。
義子本人とて、三日前に聞いたばかりだというのに。
しかし、それで座興として今川に?
…何のために?
感心と警戒を抱きつつ、
義子は風魔に向かって手のひらを突き出して見せる。
義兄曰く、風魔小太郎はしつこくねちっこいという話であるから。
「つつがなく、きちんと、山賊の首魁、およびほか一名を殺して
血に塗れてまいりました、風魔殿」
「に、してはうぬは平然としておるが。…く。我は、さすがは藁と褒めてやるべきか?」
悠然と笑った小太郎は、性格が悪い。
義子が人を殺しても平然としているのを、そこが柔らかいと分かっていて攻め立ててくる。
…この人は、本当に、何をしに来ているのだろうか。
私を虐めにというわけでもあるまいに。
少しばかり考えた
義子だが、答えが見えぬ上に、問いかけてもかわされるのが落ちだと思って
すぐにその疑問を捨てた。
その代わり、分かっていて攻めたてる彼の思うとおりになるのは気にいらないと
わざと冷静な表情を作って素知らぬ顔をしてやる。
「えぇ、褒めてください。兄上も、父上も、良くやったと褒めてくださいました。
岡部殿も、由比殿も、朝比奈殿も、です。
だから、風魔殿も褒めてくださって構いませんよ」
「ふっ。なるほど」
鼻で笑う風魔に、本当にこの人は性格が悪いなと、
義子は素直に感じた。
義子がこうも風魔に対して強気に出られるのは
北条が今川に同盟関係を続行するのであるならば
北条の忍びである風魔小太郎は、決して
義子を害さぬと分かっているからだ。
…いや、頭を踏んだりだとか、そういう軽微なものを除いて。
とりあえず『今は』命の危険は無いから。
思いながら風魔の方をうかがっていると、人間らしからぬ容貌をした彼は
「人を殺し、褒められ、うぬは嬉しいか」
「あなたは性格が、本当に、悪いですね」
その表情があんまりにも愉快げであったから、
義子は三度、この人は性格が悪いと思って
今度は我慢ならずに口に出した。
すると小太郎は楽しげにくつくつと喉で笑いを漏らして、それから
義子を見下ろす。
長身の彼に真っ直ぐ見られると自然と威圧感を感じて、
義子が眉間にしわを寄せたところで
小太郎は、さてと、前置きをして、こう問うた。
「うぬ。うぬは、何故、人を殺した。
家の犬となるためか、大義のためか。泰平のためか。それとも欲望ゆえか」
「それは………ただ単に、死にたくなかったからです。
殺さなかったら殺されていた。
殺されなくても、いずれ死んでいた。
だから、私は私のために殺しました」
難しい問いかけを小太郎はしたが、その問いの答えは、既に出ている。
義子の答えはそれ以外には無い。
罪悪感が生まれるのはまた別の問題として、
義子は
義子のために人を殺して
そうしてここに今生きて立っている。
心のままに答えたその回答に、小太郎は瞳を躍らせつつ、やはりくつくつと笑った。
「なるほど。うぬは動物のように、生きたいから人を殺すか。結構なことよ…。
欲を欲のまま認められるのは、僅かばかりの者しかおらぬ。胸を張るがよい」
「………はぁ。それはどうも、ありがとうございます」
内容からすれば、礼を言うのは間違っているような気がするが
声が明らかに褒めている調子であるから。
義子が戸惑いながら礼を言うと、小太郎は満足そうに頷いて
そのままで居よ、と
義子に向かって声をかけた。
「このままで、ですか?」
突然の小太郎の言葉に
義子が首を傾げると、小太郎は首肯する。
「同族を殺し、それを欲望のままにと答えられる人間が
混沌の世にも、いかほどいるか、ということだ」
その言い方をされると、
義子がものすごい殺人狂のような人間であるので
是非訂正していただきたいが、その欲望のままに、を否定できるかと言えば
そうでもないので飲み込む。
生きたいという感情は願望で、願望は欲望と同義だ。
ようするに、この目の前の人外は
義子に
お綺麗な言葉で誤魔化すような人間になるなと言っている。
「そのつもりは、ありませんから、ご心配無く」
どうして、彼がそのようなことを
義子に言うのかは不明だが
そのつもりは一切ない
義子が、片手を突き出して否定すると
小太郎は満足そうに頷いて。
そして、風がごうっと吹いた。
目をあけていられない風に、
義子が固く目をつむると
耳元で「それは、我が混沌禍つ風故よ」という声がする。
それに一瞬目を開けかけた
義子だが、風の強さにそれは叶わない。
そうして。
どうしてと思う
義子の心の中を読んだようなことを言って
風魔小太郎は立ち去った。
自分以外、何一つ気配の無くなった室内に
義子は後ろ頭をかきながら首を傾げる。
「…結局、何をしに来たのだろうか、あの人」
人を綺麗事を言わずに殺す、その
義子の行動を肯定だけして立ち去った風魔小太郎に
目的が分からず首を傾げる
義子だが、考えてもらちが明かないので
前と同じように、布団にもぐって目を閉じる。
人を殺したことに、罪悪感はある。
現代にはもう戻れないと思った。
けれど、何度やり直したとしても、
義子は生きるために
今までの選択肢を繰り返して、人を殺して生き伸びるだろう。
それは、
義子の欲望の結果で、決して、飾り立ててはならない。
綺麗事も突き詰めれば欲望。仕方がないも、言い訳。
目をそらすのは、ただの欺瞞だ。逃げだ。卑怯すぎる。
義子が
義子として在るために
欲望のままに人を殺していると認め続ける。
そうきつく誓いながら
彼女は浅い眠りへと落ちていった。
永禄五年、初夏のことだ。
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