人殺しをするのに躊躇いが無い人間は、居ないと思う。
それが、現代日本で育った人間ならば、尚更。
あのまどろみのようなぬるま湯の場所で、人を殺すのはいけないのだと
社会秩序のために教えられ続けた人間が
人を殺すというのは、一体どのような状況によって、だろうか。
恨みつらみ怒り憎しみ悲しみ。
他、生きるために。犯罪で。
けれどそのように人の命を奪うことをするのはごく少数で
大多数の人間は、そのような嫌な事柄を、別の世界のことのように生きていかれるはずだ。
義子だとて、そうだった。
そのはずだった。
けれど。
義子は今、戦国の世で人を殺すために息を潜めていた。
竜爪山中腹。
山賊の根城前にて。
空の様子は太陽が昇りかけ、夜が駆逐されかけているところだ。
作戦開始までは、あと僅か。
義子は腰に差した刀を強く握り、固く目をつむった。
「緊張しておいでですかな」
「少し。でも、始めましょう」
話しかけられたのを好機だと思い、
義子は戦闘の開始を岡部正綱に告げる。
空は白じみ、手元を照らすぐらいには、空は明るい。
丁度洞窟の方が風下になっていることであるし。
今が好機だと、
義子が左手を上げると、正面の部隊の中から
足の速さに優れた者が、音を殺しつつ、山賊の根城である洞窟前に
煙玉を仕掛けた。
静かに戻ってくる彼を横目で見つつ
いよいよ今から人殺しをするのだと思うと、自然と手が汗ばみ、ごくりと喉が鳴る。
どくどくと音を立てる心臓に空気を送り込むと、
義子はただ黙って
煙の流れる洞窟へと視線を送った。
すると、何分もしないうちに、山賊どもがぞろぞろと口を押さえ
這いつくばって、煙玉の煙によって白く霞む洞窟から出てくる。
姿勢を低くしているのは、煙を吸わない為だろう。
以外と冷静さが残っていると思いつつも、
義子は岡部へと視線を送った。
―十五名、全て出てきたかと、岡部殿。
―なれば、行かねば。
視線で言葉を交わし合い、
義子と岡部正綱は後方に控えた部隊の者へと
合図を送り、低くしていた姿勢から、一挙に全員で立ち上がる。
「なっ」
「控えろ!我らは今川義元公より山賊退治の命を受けた者たちである。
大人しく降伏するならば良し。
さもなくば!」
刀に手をかけ
義子が言えば、一瞬目を見開いた山賊たちは
目配せし合い、それぞれが持っていた武器を構えた。
その顔に浮かぶのは、目論見通り、安堵と嘲りの二つだけだ。
「なんだ、何かと思えばそんな人数で、しかも一人はお嬢ちゃんかよ。
かまうこたねぇ、野郎ども!
一気に突き抜けるぞ」
頭目と思しき男が言えば、呼応して後ろの山賊も調子を取り戻して叫ぶ。
なんとも思い通りに運ぶ展開に、後で揺り返しが来そうだと思いながら
義子は差した刀を抜いて、一歩踏み出す。
向こうへと駆けないのは、洞窟からあれらをひきはがすためだ。
そうして、行けると踏んだ山賊どもが、正面突破を図ろうと
こちらに向かって駆けてきたところへ、声を張り上げ叫ぶ。
「左右、背後を突け!!」
声に合わせて潜んでいた左右の部隊が立ち上がり、
山賊どもが動揺をあらわにたたらを踏んだ。
その隙に、
義子が山賊に向かい、刀を振り上げ駆ける。
まずは首魁から潰した方が良い。
頭を潰せばますます容易になるだろう賊退治のことを考えて
それから目を見開いて固まっている頭目の首を狙って―
――――あぁ、人を殺すのだな、と思った。
義子は、生きるために人を殺そうとしている。
その相手は山賊で、犯罪者だ。
けれど、現代日本であるのなら、彼らは警察にまず捕まり
司法によって裁かれ、然るべき処罰を受けるはずである。
行き成り、殺されたりはしない。
けれどここは戦国の世で、山賊を駆逐せよという命が
義子たちには下っていた。
だから、殺さなければならない。
一瞬の『隙間』で考えながら
義子はもの思う。
常識と言うものは、いかなるものであるのだろうか。
一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。
それが常識だ。
そうして、ここでは人を殺すのが当たり前。
人を殺してはいけない現代の当たり前が、ここでは当たり前ではない。
それが、ここの常識なのだ。
常識とは生きる世に合わせて変遷していくもの。
現代と戦国で、常識が違うのは道理である。が。
例えば、物語などであれば、人を殺すのが嫌だと思う。
それが、こういう場合のセオリーであるけれども。
二年の歳月が経とうとも、彼女の動物的な部分は変わらない。
「それは、やってあげられないな」
ほとんど音にもならないような音量で言うと、
義子は鋭く目を細めた。
義子は生きたい。
頭目を殺そうと刀を彼に向かって振るう手が、人を殺すのだと思うと、勝手に鈍ろうとした。
同族殺しを、体が本能で嫌がっている。
けれどこれで躊躇えばどうだ。
死体になって転がるのが、
義子に代わるだけだ、違うか?
違わないだろう。
だったら躊躇うな。
死にたくないのだろう。
死にたくないなら殺せ。
それが、ここの流儀だ。
いや、違う。
流儀など、そんなお綺麗な言葉で片付けてたまるものか。
強く思って
義子は否定する。
命を損なうのに、
義子はそんな綺麗な言葉を使いたくない。
おためごかしなど。馬鹿らしい。
人を殺すのに必要なのは、殺意。
義子はただ、人を殺さないと生きられないから。
自分の意思で。
人を、殺したくて殺すのだ。
忘れるな忘れるな忘れるな。
お前がお前の身勝手さで、人を殺して生きるということを。
義子は刀を迷い無く、頭目の首を狙い突き刺した。
初めての人殺し。
初めての、肉を突く感触。
山賊の頭目は、後ろから人が出てきた動揺から、反撃すらもできず
義子の刃をまともに首で受け、ぶしゃぁと血を噴出させながら後ろに倒れ込んだ。
その返り血をまともに食らいつつ、
義子は彼の横に居た山賊に向かって
頭目から引き抜いた刀を走らせる。
山賊は、その
義子の一撃をかろうじて防いだが、後ろから近寄ってきていた兵士に
腹を刺されて悲鳴を上げた。
「ぎ、う、ぎあぁやあああああ!!」
生々しい悲鳴に、
義子は顔をしかめたくなったが、その一瞬すら
命を惜しむのならば、いけない。
激しく揺れる心を押さえて、
義子が更に刀を男の目へと突き刺すと
男はふらふらと刺された目を押さえる。
「あ、あぎ、あ」
悲鳴を上げる、その隙を見逃さず、更に腹に一撃。
「……ぁ………」
臓物を腹から出して、男が崩れ落ちたのに、これはもう大丈夫と判断して
義子は戦いの中心地へと勢い付けて飛び込んだ。
―正面、左右から現れた、今川の兵士たちの猛攻撃を食らう山賊どもは、
頭目を失ったこともあってか、瞬く間にその命を散らし。
「死にたく、ねぇ、よぅ」
呟いた最後の一人までを殲滅せしめたのは、戦闘開始から
そう時間も経たぬ頃だった。
死にたくない、か。
呟いた最後の一人の言葉に、複雑な思いを抱きながら
義子は刀についた血を振って飛ばす。
人体の脂や刃こぼれで切れ味が鈍くなっているが
ここに捨てていくわけにもいかない。
後できちんと拭いておかなければ。
頭目の首から噴き出した血をまともに浴びたことによって
びしゃびしゃに赤く濡れた着物をつまみながら
義子が思っていると
「素晴らしい働きでしたね」
泰朝がこちらに向かって声をかけてくる。
「十五人のうち、二人は
義子様の手柄です。
しかも内一名は頭目であるのですから、初陣にして、素晴らしい働きかと」
人を殺して褒められるその皮肉さに、
義子は頭をかいたが
その頭すら血に塗れているのに顔をしかめて
濡れた手のひらを着物の汚れていない部分でなする。
「ありがとうございます、でも、私は私の果たすべきことを果たしただけで」
それと、死にたく無かったものですから。
言いかけた言葉は飲み込んだ。
最後の一人が呟いた言葉と重なる言葉は、驚くほどに心を突き刺したからだ。
肉も臓物も血も、全て転がり、だらしなく弛緩した体を地面に横たえる
山賊十五名の死体を前に、
義子は息を吐いて、肺の中の空気を外に出した。
死体を見ても、吐き気も何も覚えすらしなかったが
ただ、強いて思うことを上げよと言われれば。
もうこれで、現代に帰っても仕方が無くなったな。
それは、それだけは強く思う。
人殺しをした。
自分の意思で。
自分がそうしたいと思って、人を殺した。
そんな人間が、まどろみのような場所に戻れるわけがない。
義子は自分がやったことの、重さ大きさを改めて理解しつつ
それでも、と思う。
それでも、何度やっても、
義子は人を殺す選択をするだろう。
ただ死にたくないから、殺す。
もしかしたら、現代に居た時から、
義子はこのようにあそこにふさわしく無い人間で
だから、ここに飛ばされたのかもしれない。
人を殺したのに、死ななくて良かったと、それだけを
義子は思っているのだから。
些か陰鬱な思考で思いつつも、けれど、損なわれた死体たちのように
物言わぬ屍になる気には、やはり、彼女には全く無いのだった。
………これは、永禄五年、初夏。
今川家次期当主今川氏真の補佐として生きる、その義妹今川
義子の初陣の話である。
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