織田は斎藤を滅するには至らず、時は春半ば。
桜が綺麗に咲く季節だ。
で、あるがゆえか。
今川義元のこんな一言が、今川家を動かした。
『桜が綺麗だから、花見がしたい、の!』
………相変わらず、ゆるい。
こんなにゆるくていいのか、とたまに思うが
あれで確かに大大名である。と思う瞬間があるのだから、人間は詐欺だとも思う。
自分の義父をどう思っているのか、良く知れる思考で考えつつ
義子は行列について歩く。
花見がしたいと今川義元がこぼしたから、今日はお花見の日である。
それは良いですな、殿!と、よりにもよって家臣が居るところで義元が言ったものだから
あれよあれよと、賛同者は膨れ上がり、結果、こうして五十名を超える大行列で
義子たちは桜のたくさん植えられた寺に向かい、歩いているのだ。
「………
義子、面倒くさい」
もう少し、早く歩きたいのだけどと思いながら歩いていると、氏真が
義子の傍に顔を寄せて
囁くようにそう言う。
いつもの通りの言葉だが、それでもその言い草は、今の
義子なら肯定できる。
会社勤めをしていた時にも、例えば忘年会なんかで
社員一同で、ぞろぞろと会場に向かって歩くことだとか
そういうのは、
義子は大嫌いだった。
自分のペースで歩きたい。
たらたら歩きたくない。
けれど、その本音を、正直に吐露出来ないのが集団生活を営む者の性だ。
「兄上、小声ででも言わないでください。後ろの皆様に聞こえます」
だから
義子は、寄せられた義兄の耳元で、彼を窘める。
すると、氏真はいやだなぁと、
義子の頬を人差し指で突っついた。
「だから小声なのだろう…。聞こえたらまた面倒くさくなるからね。
あぁもう…ひたすら面倒くさいよ、
義子。
なんだってこんなに大人数でぞろぞろと歩かねばならんのだね。
花見はもっと、風流に、少ない人数で詩でも詠みながら行うものだろう」
「詩の下りは、私、得意ではありません故、賛同いたしかねます、兄上」
そこいらも、氏真とは正反対で、
文化的なことは、風流を解する心がないからか、
義子は壊滅的だ。
実用一点張り、の自分の才を、少しだけ悲しく思いつつ
義子がそう言うと、氏真は
「それはそうだけどね」
フォローの言葉もなく、そのあたりが駄目であることを暗に肯定した彼は
そのまま
義子を抱きあげて、ふぅと、わき腹のあたりに顔を押し付けてため息を漏らした。
「………やだやだ。こんなの何が楽しいんだか」
消えそうな声で言う彼が、それでもこれについてくるのは
今川の次期跡取りとして、こういったお付き合いも必要だと知っているからだろう。
後を継ぐ気は一応あるのだよな、と思いつつ、後ろ向きに抱きかかえられた
義子は
自然と目に入ってくる、後ろに控えた者たちの顔を、順繰りに見る。
先を歩く義元の背しか見えないからか、随分とリラックスしている者もいたし
反対に、鹿爪面をしている者もいる。
義子が氏真に抱えられたのを目ざとく見つけて、顔を寄せ合った者たちも。
「…見ろ、姫君が抱きあげられたぞ」
「自分の一人では歩けぬらしい」
「やれ、大切にされていることだ」
随分と軽率な音量で、軽率な陰口をたたく。
義子は義兄に、抱きかかえられているのだ。
彼らは
義子に聞こえるように陰口をたたいているようだが
義子に聞こえているということは、自然と、今川家次期当主今川氏真に
聞こえているということでもある。
それを理解している、周りの引いた視線を気にもせず
顔を寄せ合い陰口をたたく者たち。
その意図に反して、傷つきもせず、代わりにただひたすら呆れて
義子は顔を寄せてきた氏真のように、義兄の肩に手をまわして、体を寄せた。
「…………一応聞きますが、あの者たち重臣ではありませんよね」
「違うね。あれは、この集りの中では下から数えた方が早いよ。
心配せずとも、父上の人の見立ては確かであるよ、
義子」
あんなのでは、どうせろくな働きもすまい。と考え
一応の確認を取った
義子だが、義兄もそう思っていたらしく
呆れた声音で自分に返す。
まぁそれはそうか。
氏真の言う、義元の人の見立てに納得をして、そうして
義子は抱きあげられたまま力を抜いた。
何かにつけて、氏真はこうしてスキンシップを取ってくるから、
義子もいい加減慣れてしまう。
他人に触られるのも、本当は年下の人間に、妹扱いされるのも。
兄上と呼ぶのも、本当に…慣れてしまった。
見た目だけ子供に返っているのは、便利ではあるが、しかし精神的には苦痛な時もある。
兄上、と呼びだした当初がまさにそれだった。
まさか、見た目の通りの年齢では拾ってはもらえなかっただろうから
この見た目には感謝しなくてはならないのだけど。
でも、兄上と呼べと言われた時には、さすがに密かにためらいを
当たり前に感じた。
…本来なら、姉上、義弟。のはずの上、十ほどは違うはずだから。
とりとめもなく考えつつ、氏真のさらりとした髪の毛を触ると
「まぁ、あんまり気にするんじゃないよ」と、そういう小さな声がした。
氏真の顔を見ると、彼は何気ない風な表情をしながらも
気遣わしげな眼をしてこちらを見ている。
勘違いをさせたのだと知った
義子が、否定するその前に
氏真は後ろに視線をちらっとやって、蔑んだ表情を一瞬だけ浮かべた。
「あれらはね、大分焦れているのだよ」
「焦れている。…あぁ、私が失敗をせぬからですか」
「そう。お前、引きずりおろす隙がないものだから」
義子を氏真の補佐とするその決定を気にいらぬものは山ほどいて
それを無しにする機会を、虎視眈々と彼らは狙っている。
けれど、その無しにする機会が、
義子にはなかった。
彼女は武芸はそつなくこなし、兵法を順調に身につけ、礼儀作法にも隙がない。
で、あるからには、切っ掛けもなく、理由もない。
ゆえに、
義子を引きずりおろすことが
すぐにぼろを出すという目論見が外れた彼らには出来ないのだ。
それは、
義子の積み重ねてきた二十幾年の貯金と
子供に戻った脳の柔軟さによるものだったが、それでも、隙がないのには変わりなかった。
そのことに歯噛みし続けているから、あの態度なのか。
素直に肯定をする氏真に向かい、
義子は耳元をかくことで、下らないと答えてやる。
そう簡単に失敗をするぐらいなら、氏真も義元も
義子を左の車輪にと押したりはしないだろうに。
………まぁ、そこは関係なく、ただ
義子の地位を羨んでのことだろうが。
それでも。
義子は生きるためにも、ついでに、期待してくれる人のためにも
こちらに聞こえるような声であのような物言いをする輩に
大人しく負けてやる気など、さらさらなかった。
「まぁ、つつがなく、上手くやります」
「そのようにね。お前は賢くて良い子だから」
義兄もそれをお望みらしく、
義子の背中を軽く叩く。
励ましを送られた
義子は、しっかりと頷いて、任せていただきたいと胸を張った。
そうして、
義子と家臣団の軋轢を、少しだけ表面化させながらも
花見自体はつつがなく終わり、今川義元は満面の笑みで城へと戻り。
『桜はいつ見ても綺麗だの。…来年も、やるかの?』と言っては、
周囲の家臣に『桜はまだ咲いておりますよ』と苦笑されるのだった。
そんな、和やかでつまらない、春の、話。
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