永禄五年、春。
織田信長による美濃攻めは、その勢いを増した。
斎藤龍興が酒色におぼれるような人物であったからだ。
龍興を下すは、容易。
そう判断した織田が美濃に攻め入り、
外に織田の軍が並ぶというのに、酒を飲み女を侍らす城主、斎藤龍興。
それに対し、斎藤家家臣、竹中半兵衛は稲葉山城を乗っ取るという
身を呈した忠言を行ったが、斎藤龍興に効果は無く。
そのような有様で、美濃・斎藤軍は、尾張・織田軍と敵対することとなったのであった、
いい加減、不利にもほどがあるよね。
竹中半兵衛は、そう物思って、目の前の大軍を見た。
後方でも先頭でもいいから立って、指揮をするべき人物は、臆病に城で震え
命令系統の崩れた状態で、織田の相手をする。
…不利だなんて話じゃない。
いくら俺が天才だからってさぁ。
無理なもんは、やっぱあるんだよ。
持って、あといくらだろうか。
美濃への織田の侵攻は、昨日今日始まったことではないが
段々と層の厚くなる織田方に比べて、斎藤は弱体化が進む一方だ。
天才、竹中半兵衛の知略頼みでどうにかするには、限界がある。
「明智殿より伝令、城より出て戦いたいとのこと」
「あー…龍興様がぶるってるんで、城でお守りしてもらえます?
って伝えておいて。一言一句、そのままに」
「は……はぁ……」
近寄ってきた伝令の者に無茶を言い、半兵衛は手に持った羅針盤を飛ばした。
すると、近くの茂みに潜んでいた忍びの首が、すっぱりと斬れ落ちる。
どろりと地面が血に濡れ、命が一つ損なわれる、が。
「…あぁもう…多いなぁ」
戦場などというたわけた場所に居ると、人の命が枯れ葉よりずっと軽くなる。
半兵衛の漏らした呟きがそれを象徴しつつ、彼は伝令に向かって
行け、と片手を振った。
――――その後、斎藤軍は、かろうじて織田軍を退けることに成功する。
浅井長政とお市を退け、城に呼び込まれた織田方の武将を倒し。
火の放たれた城からの龍興の脱出・それを狙ってきた羽柴秀吉らの撃退。
その後の、火の放たれた城の鎮火。
それら全てを成功させた上での、黒田官兵衛、織田信長を撤退させての、勝利。
間違いなく完勝だ。
けれど、全ての裏に、竹中半兵衛の知略あり。
今回もまた斎藤軍は、半兵衛頼みで、織田に打ち勝った。
「本当、もう長くは無いよね、ここ」
稲葉山城を乗っ取った罪を、今回の働きで許された半兵衛は
許されなくても別にいいんだけどと思いながら、窓の外を見る。
その視線の先にあるのは、織田の領地、尾張。
………初めて相対した、織田信長は気にいらなかった。
あれは、半兵衛の求める、寝て暮らせる世を作ってはくれない。
人柄が、駄目だ。
あの人は、苛烈で先進的過ぎて、誰もついて行かれない。
きっと、途中で駄目になってしまう。
大体が、半兵衛が望むのは、もっとゆるやかで、暖かくて、のんびりした平らかな世だ。
それを考えれば、織田信長は、ない。
…自分でも分かってるみたいだったけどさぁ。
戦場で向かいあった時、あなたには誰もついていけないでしょうねと言った半兵衛に対し
信長は、で、あるかと全てを悟りきったような表情で微笑した。
そうして、半兵衛はその表情すら気にいらないと、思ったのだ。
分かっているなら、変えればいい。
けれど、信長はそれをしない。
それをせずに、突き進もうとしている。
だから、半兵衛にとって織田信長は駄目だ。
認められない。
斎藤の後釜として、次の仕官先には選ばない。
では、誰が良いのか。
「それで、考えるなら、俺はあの人かな。
うん、あの人は良いよね。良かったよね」
その思考で思いだすのは、一生懸命に斎藤龍興の首を取ろうと
狙ってきた、羽柴秀吉の姿だった。
あれは、良い。良いと、思う。
敵ながら、必死で働くあの姿は好感が持てた。
斎藤がつぶれたら、あそこかな。
でも、俺の言った通りに三顧の礼を持って迎えてくれるなら、潰れる前に行っても良いけど。
『わしの配下にならぬか?』という彼の誘いに『三顧の礼で迎えにきなよ』
そう返答したやり取りを思い出しながら、半兵衛はふふっと笑い声を洩らす。
それは、斎藤の滅亡を予見して以来の、彼の初めての和やかな笑いだった。
「そうやって、わしは竹中半兵衛を稲葉山城にて誘ったのです。
で、来てもらえると思いますか?」
「斎藤を滅せば、な」
「うぅむ。やはりそうせねば来ては貰えぬと、信長さまもお思いか…」
斎藤より撤退したとて、戦果がないわけではなかった織田方では
武将たちへのねぎらいの意味を込めた酒宴が開かれていた。
その席で竹中半兵衛を誘ったことを、主君信長に話していた秀吉は
腕組みをして、唸る。
「サル、三顧の礼にて誘えと言うたなら、そのようにせよ」
「それは、信長様ならばそのようになさるとのことで?」
「信長ならば、な」
そうして唸る秀吉が、あんまりにもうるさかったからか
それとも珍しく見せる優しさか。
助言を与える信長に対して、秀吉が目をぱちくりさせながら言うと
彼は、手に持った杯を傾けて、目を細める。
その表情が、笑っているのだと知っていた秀吉は
ははぁとかしこまって頭を下げた。
「ありがとうございます、信長様。では、いずれそのように!」
頭を下げる秀吉は、もうすでに竹中半兵衛を得る気でいる。
断られる可能性など、微塵も考えて居るまい。
それがサルよ。
思いながら信長は、『あなたには誰もついていけないでしょうね』と
自分に言捨てた勇気ある軍師の顔を思い浮かべて、杯の中を空にした。
…信長はただ、時を進めるのみ、よ。
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