ところで、義弟がそちを気にしておったのだが、義弟と文通してみぬかの?
………その言葉でもって、
義子と氏康の文通は、始った。
開始は永禄五年になってからのことだ。
相模の獅子と呼ばれる北条氏康。
会ったのが、桜も散った頃であったから、もう半年以上も前になるのか。
時の流れの速さを感じながら、
義子は文机に向い筆をとった。
(戦国時代の手紙というのは、現代にはなじまぬものであるが故
以下は口語訳となる)
北条氏康様宛
拝啓、厳寒の頃、北条氏康様におかれましては、ますますご健勝のこととお喜び申し上げます。
さて、このたびは私を気にしていただいていたと、義父今川義元から聞き
恥ずかしくも嬉しく思っております。
僅かばかり謁見したこの卑しい身を、覚えておいていただいたこと、まずは御礼申し上げます。
気にしていただいたということで、下らなくはありますが、私の近況を書かせていただきたいと思います。
そうですね、特筆するべきようなことは余りなかったのですが
大きな出来事といえば、昨年夏ごろより、私は、氏真様を兄上、義元様を父上と呼ぶようになりました。
特別に願われてのことで、この身にはもったいないことであると思いますが
そのような許しが出て、大変光栄に感じております。
あとは、氏真様の傍について、学を学ばせていただくようになりました。
武芸もです。
これについては、氏康様がいらっしゃる前からそうであったのですが
兄上父上と呼ばせていただくようになった頃から、より本格的なものへと内容が移行致しました。
武芸については、あまり上手く出来ていませんが
兵法などについては、時折指南役の方からお褒めの言葉をいただきます。
…とりとめのないものになりましたが、私の方の近況としては以上になります。
時節柄、ご自愛専一にてご精励くださいますようお願い申しあげます。
敬具
今川
義子
今川
義子様宛
前略。
まずいの一番に言うのもなんだが、てめえはなんでそう堅苦しいんだ。
てめえの義兄と義父を見習えというのもなんだが、もう少し力を抜いてもいいだろ。
ともかく、元気そうでなによりだ。
あいつらとの関係も、父、兄と呼ぶようになっているなら、一安心だ。
ところで義兄から聞いたんだが、てめえ、氏真の補佐になるって話は本当か?
あと、手紙でも兄上、父上で良いだろうが。なんで義元様、氏真様なんだ。
草々
北条氏康
北条氏康様宛
拝啓、余寒の候、北条氏康様におかれましては、ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。
前回の手紙に、堅苦しいとありましたが、私は素で堅苦しいのです。
申し訳ありませんが、諦めてくださるよう、お願い申しあげます。
兄上、父上でなく、義元様、氏真様であるのは、礼儀と、指す人物が分かりやすいようにです。
まず、補佐の件から回答致しますと、是であります。
義元様、氏真様よりこれも特に願われ、承諾いたしましたので
そのような形となりました。
正式な発表も、既に城内でなされましたので、それに見合った人物にならねばと
日々精進を重ねております。
娘に、ということだけでも過分でありますのに、この扱い。
より一層、今川のために働かねばと、思う次第であります。
ところで、気になされていたのは、私と義元様氏真様の関係であるのですね。
以前にお会いした時には、気にかけていただき、ありがとうございました。
あの時に満足にお礼が言えなかったこと、失礼であったと反省しております。
呼び名からも分かる通り、現在はそれなりに上手くやっております。
御心労をおかけして、申し訳ありません。
暦の上には春は立ちながら、厳寒の折でございます。
何卒、ご自愛専一にてごお願い申しあげます。
敬具
今川
義子
「………
義子、これ、そのうち叔父上に怒られると思うよ」
「え」
北条氏康とのやりとりの内容を、隣に座り
義子より聞いていた氏真は
義子の書いた手紙を手に持って彼女を見る。
すると、え、と固まった
義子に、えぇとと天井を見上げて
珍しく遠い目を氏真はした。
その眼は『なんで、この子はこうかなぁ』とまさしく語っていて
義子はよりによってという気分にさせられる。
…氏真にという点は置いておいて…ともかく、そんなこと言われても。
義子のこれは性格であるのに。
好きでやっているのに。
そんなこと言われても。崩せって言われても。
自己保身が骨の髄まで身についている少女(女)は
固まって義兄を見る。
が、義兄は義兄で困ったように頬をかいて、口を開いた。
「え、と言ってもね。
氏康叔父は、そこまで堅苦しくされても、と思うような方であるし。
豪快にして繊細、部下と民と家族を大事にされる方であるから。
そして、父上はあの方の義兄であり、私は甥で、
義子は姪なのだよ。
自覚なさい」
「……………そう言われましても」
お前は今川家の一員であるのだから、もう少し拾われっこ気取りを抜きなさい。
そう言う氏真に、そう言われても、今更抜けない。
と
義子が視線を落とすと、彼はため息を一つ零して、
義子の前に手を突き出す。
「…兄上?」
「面倒だけど、可愛い
義子のために、私が一肌脱いであげよう。
恩にきるのだよ」
ちょいちょいっと指を動かし、何かを渡せと要求する氏真。
その仕草と、手に持った手紙を見比べて、それから
義子は黙って彼に筆を渡した。
すると彼は、さらりさらりと手に持った筆で手紙に一筆付け加え
義子にそれを黙って返す。
手紙に付け加えられた追伸を確認し、それから
義子は黙って氏真を見たが
彼は涼しげな顔をして、折衷案だよ。黙って受け入れなさいと肩をすくめた。
そうして、氏真は
義子の肩に頭をのせて
「あぁ、もう。冬は寒いねぇ
義子」
「…もうすぐ、春が来ますよ、兄上。梅ももう満開ではありませんか」
額をこすりつけて甘える人に、仕方がないと肩を貸しながら
義子は黙って、彼の書いた折衷案を受け入れることにしたのだった。
追伸
義子には、今後手紙で、我々のことは父上、兄上。
氏康叔父のことは叔父上と呼ばせますので。
それでこの堅苦しさは許してやってください。
これが
義子の可愛さです。
今川氏真
…余談であるが、この追伸と、手紙の堅苦しさに氏康が
しょっぱい顔をしたのは、氏康と傍にあった風魔小太郎だけが知る事実である。
…………更に余談。
実のところ、氏康の愛しのかみさんは、顔だけでなく
性格も今川義元公にそっくりで、氏康はしょっぱい人間が好きなのではないか
という巷での風聞があるのだが。
これについては、真偽のはっきりせぬどうでもよい、本当の余談だ。
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