永禄五年、冬。

武田・上杉、川中島にて激突の報は、今川まですぐに届いた。
宿敵同士だと自他ともに認めている武田・上杉両軍の戦いは
これまでは激しいものであったが、今回に関してはまた違う展開があったらしい。
武田・上杉ともに損害軽微。
どうにも、武田側が上杉側に仕掛けられて応じたには応じたものの
曖昧に終わらせたらしい、と、もっぱらの噂である。

…曖昧に終わらせた理由としては、やはり織田だろうか。
自室にて、畳に寝そべりながら義子は考えにふける。
川中島の戦いのほかに、今川まで届いた知らせはいくつかあるが
特に重要と、義子が頭の中の棚に振り分けたのは、織田・浅井間の婚姻の情報であった。
織田信長の妹、市と、浅井長政が婚姻を結び、織田・浅井間に同盟関係が結ばれた。
これにより、織田は京へ近い位置の味方を得たことになり
浅井は京への通り道として、織田に攻め入られる、という心配がなくなったわけだ。
浅井は近江、つまりは滋賀。京都まで信長はあと少し、ということか。
愛知より滋賀を通り抜ければ、京都まではあと少し。
…加えて信長は、斎藤の持つ岐阜・美濃を攻め取ろうとしている。
信長の持つ尾張の背後、三河は同盟国徳川の持ち国であるし。
歴史通り、信長が上洛する日も近いのやもしれない。
古き権力を利用するために、織田信長は上洛し、将軍を擁立する。
その前に六角氏との戦いがあるがそれは置いておいて。
そうなれば、織田信長は一挙に全国勢力へと拡大を開始するだろう。
そうなった時、今川はどの立場に居るべきなのか。
ごろりと転がって、義子は眼を閉じ視界を遮断する。
考え事をするのに、余計な情報は妨げとなるからだ。
まず、尾張・織田がある。
尾張があるのは、三河の横だ。
そして三河は、今川の領地に隣接している。
三河・徳川家康は桶狭間の戦いの際に、織田信長に付くことを選んだ。
同盟関係は、従属に近いものであるようだから、織田と敵対した場合
三河はほぼ敵になると思って間違いないだろう。
今川の周りを今度は考える。
今川の北が武田、その更に北が上杉。
東は北条、更に東は佐竹・里見。
北条については婚姻による同盟関係を結んでいるし
武田信玄が信用ならないと思っている点、常陸の佐竹・房総の里見が居る点を
考えれば、暫くの間は味方で在ってくれるだろう。
次に武田。
「武田は、なぁ…」
ごろりともう一度、寝返りを打つ。
甲斐は、内陸であるから、武田信玄公は海を欲している。
なぜか。
塩がとれないからである。
自国で塩を供給できないということは、自然と他国からの輸入に頼らざるを得ないということで。
それだから、塩止めが制裁となるのであるが。
……今川を弱ったと見るや否やの大決断で、速攻の同盟破棄を行い侵攻してきた
その抜け目のなさはさすがと褒めるべきだろうが、当事者たる今川の人間としては
実に、つつしんでいただきたい。

今、自然と当事者の今川の人間だと、自身を考えた義子
それには気がつかずに、さらに思考を巡らせる。

ともかくとして、武田信玄は、油断ならない。
もし万が一、今後同盟を再び結ぶに到ったとしても、その動向は常に油断なく探るべきであろう。
そうして、少し離れた上杉は、これはもはや分からない、読めないというしかない。
常人の常識にて動く国ならばともかくとして
あそこは略奪をおこなわない・領土狙いの侵攻を行わないと
天上人のような考えで動いていらっしゃる。
…愛と、義?
正義の味方、のような行動はご立派だが、正直、損得で物事を考えて
理詰めで駒の動きを予測したい人間からしてみれば、あそこの国の存在というのは
まさに目の上のたんこぶだろう。
しかもそれで弱いならばともかく、上杉謙信公は軍神と呼ばれるほどの強さを誇るというのだから。
「………上杉が、読めないのが困るなぁ…」
織田は天下統一に向けて動く。武田もそうだ。
北条は、領土の拡大こそ狙えど、天下統一まではおそらく狙うまい。
そうして、上杉が天下統一を狙わないのであれば。
………義子としては、織田についてしまいたい。
今川義元は、義子を正式に氏真の補佐にと望む時に言った。
『麻呂はもう、蹴鞠を出来れば良いところまで来てしまったの』
氏真も、彼の考えを聞いた時に、言った。
『今川は家を守りつつも、領土を出来るだけ狭めるようにするようだよ』
で、あるならば、義子はこのまま今川を続かせる道を模索する、そのように在るべきだ。
そして、その道はおそらくとして親織田外交に、ある。
………いや、でもそう決めつけるのは早計だ。
おそらくとして自分の思考は、日本史の時間で習った歴史の教科書に大分の影響を受けている。
もう少し、情勢を見定めなければ。
自分の考えを一旦まとめたものを、頭を振って否定して
義子はまぁ保留物件だなと、畳から身を起こした。
「んあぁああ…」
背伸びをして、間の抜けた声を出す。
とりあえずの状況整理は済んだ。
…一応、兄上のこれについての見解でも聞きに行こうかな。
自分も講義がないし、義兄も講義は無かったはずだと
頭の中の予定を確認して、義子はよし、と自室のふすまをあける。
すると、目の前には丁度、通りかかった今川家の家臣三人が居て
彼らは義子に向かって頭を下げた。
無言で、ぺこり。
軽いお愛想ぐらいすればよろしいのに。
いかにも気に入らないと言いたげな顔をしてこちらを見る彼らに
義子はわざとにっこり微笑んで、それから小首を傾げて口を開く。
「すいません、兄上はお部屋にいらっしゃるか、お知りですか?」
「さぁ、存じ上げません。申し訳ありませんが」
考えた様子もなく即答する彼らに、そうですかと残念そうな、しおらしげな声を出して
義子は礼を言うと、くるりと踵を返して義兄の部屋へとひとまず向かった。
「…………」
全く。という声は出さない。
誰がどこで聞いているか分からないからだ。
ぼろは出来るだけ出さない方が良い。
彼らの気持ちも分からなくはないのだ。
いつかの泰朝のように、ぽっとでの小娘がいきなり補佐にと望まれて
妬ましく思う、そのような気持ちは。
けれど義子も人であるから、敵意を向けられれば良い気持ちはしないし
出来れば認めさせてやりたいと思う。
それに、社会人、というか、働いている良い大人であるのなら
愛想の一つぐらい身につけろというの。
頭の後ろで腕を組んで、義子はふぅと天井を見上げる。
まぁ、愛想の一つもないのは、自分が格下に見られているからだろうけれど。
…とりあえず義子としては、今の状態で義元様、父上が逝かぬことを願うのみかな。
実は不安定に定まらぬ自分の足場を確認した義子は、自分のためにも今川のためにも
そうやって、今川義元の健康を切に願うのだった。