永禄四年、冬のはじめ。
素振りを行うのは、刃を潰した真剣であるが
それを木刀に持ち替えて、
義子はぎりりと向かいに立つ男を見ていた。
正面に立つのは今川氏真。
義子の義兄にして、右の車輪。
氏真は
義子の視線にふと口を緩めると、短い息とともに
持った木刀を鋭く
義子へと打ちおろした。
「っく…」
かぁんと、甲高い音が、冬の乾いた空気を切り裂き高く響く。
それを何とか受け止めたものの、苦悶の声が思わず漏れた。
男の力で振りおろされる木刀を、受け止めるのは小さな
義子には難だ。
「ほら、
義子。そうやってぼやぼやしていると」
けれど、そんな
義子の苦悶が消えるまで、氏真は待ってはくれない。
常通りののんびりとした物言いで、素早く体を動かし
氏真はうちおろした木刀を、今度は側面から
義子に迫らせる。
それを身をよじって避けて、
義子は木刀を、義兄に向かって打ちつけようとする。
けれども、それは何なく弾かれ、ぱぁんと音を立てて横へとそれた。
「っこの…!」
歯噛みしながら、もう一度木刀を氏真の首筋に振って
彼が反応してから、受け流されるその前に
軌道を変えて下へと振りおろす。
「おや」
それも、どうでもよさそうにかわす氏真。
そのかわし方には余裕が合って、まるで口笛でも吹きそうな表情を彼はしていた。
………この…!!
その余裕ぶっこいた顔にいらついた
義子は、迷わず二歩踏み込んで
間合いに飛び込み、男の腹に手に持った柄の側の木刀をぶつける。
ずっしりと、重たい衝撃が手に伝わって、次の瞬間、氏真がよろめき一歩下がった。
「いった…!!!…痛い、
義子」
「すいません、つい」
「…これ、一本取った方がよろしいんですかね」
悲鳴を上げ、しゃがみこむ氏真を見下ろして、悪びれず片眉を上げる
義子。
その二人の様子に、どう審判すればよいのか困る泰朝。
そうして、
義子は困る泰朝に向かい、今のは私の反則負けでと
潔く手を上げた。
武芸の練習は、やはり試合をしないとね。
そう言って、義兄氏真が
義子を庭に連れ出したのが一刻前。
木刀を持たされ、氏真と問答無用で試し稽古をさせられることになった
義子だが
成績は、零敗三十敗零引き分けである。
…なんとも情けない結果だが、年と、性別と、経験年数を考えれば致し方なし。
けれども、負けず嫌いの
義子としては
義兄がちゃらんぽらんな態度で、自分から勝ちを拾っていくのが気に食わぬし
一回も攻撃がまともに当らないのも気に食わないし
なにより。
「いたた、
義子は酷いなぁ」
「すいません、本当に、気に食わなかったんです」
はてなという顔をしている氏真の表情が、一度も、崩れなかったのが
本当に、気に食わなかった。
義子だとて、こちらに来てからほぼ一年。
最初は氏真に引きずられるような形ではあったけれど
武芸の稽古を続けてきた。
だというのに、氏真の表情一つ変えることができないだなんて。
努力、してるつもりだったのに…。
全く足りてない証拠を突きつけられた気がして
拳を握っていると、そっと、その手がゆるやかに握られる。
「…兄上」
「別に
義子が努力していないからではないからね」
義子の手を握りながら、心を読んだようなことをいう氏真に
義子が驚くと、その通りですよ、姫。と横から声が入った。
「氏真様は、既に達人の域におられます。
一年ほどしか稽古を行われておらぬ
義子姫が
この方に届かぬのは、当たり前かと」
「それは分かっておりますけど、兄上ですから負けると悔しいのです、私が」
「お気持ちはよくわかります。
でも、事実は受け止めていただかなければ…お嫌でしょうが」
ため息をつく
義子に、頷く泰朝。
その光景を見て、さすがに氏真が苦笑を浮かべて二人を見る。
「酷いな、
義子。お前は義兄をなんだと思ってるの。
そして泰朝は私を何だと思っているの」
「…兄上が兄上であるがゆえの、私の発言ですが」
「…そう言う台詞は私に、駄目だ、駄目すぎる…という発言をさせぬようになってから
言っていただきたいものですな」
雉も鳴かずば撃たれまい。
二人共に、冷たい声冷たい視線で射抜かれ
それを体現した氏真は、両手を上げて降参を示した。
彼のおどけた仕草に、
義子は泰朝と二人して肩をすくめた後
木刀を肩においてため息を吐く。
「おや…さすがの
義子も三十敗もしてしまうと、少し心が折れたかな」
「少しで済むものですか。心は大分折れました」
少しぐらい手加減をしれくれればよいものを、この義兄は
義子の攻撃を全力で受け流し、当りもせず、攻撃をいなして
そのくせ自分の攻撃は軽やかに当ててゆくのだから
そりゃあ、
義子の自信など、紙屑のように吹き飛ぶに決まっている。
恨みがましい目で睨みつけると、しかしと泰朝が
義子の方を見て言葉を紡ぐ。
「
義子姫の腕は、昨年始めたにしては、大分よろしいかと。
少なくとも同い年の並の男子よりかは上ですよ」
「そうだね、私もそう思うよ。自信を持ちなさい、
義子」
ねぇ泰朝。
そう振った氏真に、泰朝は深く頷いて
「はい。
義子姫におかれましては、諦めない貪欲さが大変よろしいかと思います。
最後の一撃にしても、実戦であったならと考えれば
称賛されるべきかと」
一見
義子をべた褒めしているように聞こえる言葉だが、
諦めない貪欲さ、でちらりと氏真を見た泰朝の意図的には
義子を褒めるの半分、氏真を怒るの半分、といったところか。
けれど、苦笑いをして氏真に視線をやると
彼は全く聞いていない顔をして、明後日の方向を向いているのだから
なんともはや。いい加減に効果がない。
言い難い表情を浮かべる泰朝の肩を、背伸びして
義子は叩いて励ましてやる。
かーわいそうに、朝比奈殿。
けれど、いい加減諦めたら良いのにと思うのもまた事実だ。
浮草のような、くらげのような、この義兄の性格は一生、死んでも直るまい。
「いい加減、泰朝も諦めれば良いのにねぇ」
それを証明するように、悪気なく言う氏真に
義子はもう一度肩をすくめるだけの反応を返した。
まったく、この義兄ときたら。
もう何度目になるのか分からない気持ちを抱いて、
義子は肩に置いた木刀で、肩をとんとんと叩く。
「で。私がもう一戦と言ったなら、面倒がらずに兄上はまだ付き合って下さいますか」
「いや…どうしようかな。いい加減
義子も疲れてきただろう。
動きが最初に比べて鈍くなっているよ。
では、あれだ。枷代りに、私は泰朝と一戦遊ぶから
義子はそこで休んで体力を回復しておいで」
「はい」
枷代りとはまた大した言葉だが、天と地ほど実力に開きがあるのだから仕方がない。
義子が大人しく頷くと、泰朝が代わりに氏真の目の前に立った。
五歩後ろに下がって二人の様子を見守ると、彼らは互いに探るような動きをして
すり足でじりじりと、動く。
「……合図もなにもなしに始められるのですか、氏真様」
「既に始まっておるだろう。仕方がないと諦めなさい。
合図を待つなど、面倒なことをお言いでないよ」
じりり、じりり。
地面をこする足の音だけが、しばし場には響く。
相手の動作を待ちながら、いつ仕掛けるのか探っていた氏真と泰朝だったが
最初に動いたのは、泰朝であった。
「はぁっ!!」
声を上げて、彼は上段から氏真に襲いかかる、が。
氏真は
義子にしたようにさらりとかわすと、彼の首元に向かい剣線を描く。
しかし。
しかし泰朝はそれを読んでいたようにくるりと一歩下がり
それをかわす、そのタイミングでもって、今度は下段から木刀を走らせた。
「おっと」
走ってきた木刀を、持った木刀でたたき落とし、氏真は二歩、後ろに後退した。
泰朝も、また二歩。
けれどその表情は対照的に、氏真は明るく、泰朝は厳しい顔をしている。
「腕を上げたねぇ、泰朝」
「全てかわしておいて、言う言葉ではありませぬ、氏真様」
「褒めてるんだって、ねぇ。私を下がらせたのだから
もう少し喜びなさいよ、お前」
「……いいえ、氏真様。褒められても、私は悔しいばかりです」
ぎりっと木刀を握り直した泰朝の気持ちは、
義子にはよく分かった。
義兄が義兄であるからとかそういうことではなくて
追いつけていない人に、上から物を言われると、時に悔しい。
けれど、泰朝もまた、
義子にとっては雲の上の人なのも間違いなくて。
義子は、手に持った木刀を見た。
切り返し読み合い、叩き落とし下がる。
…あのような動きは、まだ自分にはできない。
拳を握って、開いて、また、握る。
現代に居る時には、力など不要だった。
だけれどここは戦国の世で、死なない為には、力が必要だ。
いや、違う。
生きるためには、力が必要だ。
死なないためなどという消極的な理由では、乱世には打ち勝てない。
飲み込まれてしまう。
義子は、
義子の意思で力を求めて、そして生き抜かねばならない。
「精進しよう」
生きるために。
生きるのに貪欲な
義子が、生きない努力をしないわけがない。
しっかりとした声で言って、
義子はぎゅうっと拳を握った。
目の前で戦う、遠く及ばぬ人たちに、早く追いつけるように。
そして。
…遠くからくる視線に、ちらりと目をやって、
義子は眉間に知らず皺を寄せた。
そこにいるのは、今川の家臣、二人組で。
彼らは氏真と泰朝を見た後、
義子を見て、微かな嘲笑をその顔に浮かべた。
その裏にあるのは、ねたみか、そねみか、羨みか。
義元が正式に発表してからこっち、あぁいう類の手合いが
城内に多くなった。
あぁいうのを黙らせるためにも、早く、強くならなくては、ならない。
軽く息を吐いて、それから
義子は目の前へと視線を戻す。
いつのまにか決着がついてしまったようで
氏真が、自らが飛ばしたのであろう泰朝の木刀を拾って
彼に渡しているのが見えた。
それに悔しげにする泰朝を見ながら、
義子はまた氏真に相手をしてもらうために
一歩、彼らに向かって足を踏み出したのだった。
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