城下町に下りると、町はそこそこ賑わっていた。
「今川の城下は、それなりに賑わっているほうなのだよ。
荒廃した京から今川義元公を頼って人が流れてきているからね」
お忍び、であるので、それなりの服装で歩く三人は
大通りを目的もなくふらふらとしている。
右に泰朝、真ん中に氏真、左に氏真と手を繋いで、
義子。
そういう並びで歩いているが、その表情は三者三様だ。
氏真は勿論今日も暢気に上機嫌、であるし
泰朝は周囲に不審者がいないか警戒しているので表情が硬い。
そして、
義子は思案気な顔つきで、町を眺めている。
義子が考えているのは、自分は何故城下に連れてこられたかと言うことだ。
義兄、氏真がやることには、意味がないこともあれば、あることもある。
その確率は何割とはいえないのだけど。
さて、今回のこれは気紛れかそれとも思惑あってのことか。
考えながら、きょろきょろとあたりを見回していると
やはり現代とは歩いている人も街並みも何もかもが違う。
例えば女性は、着物を着ているせいか、しゃなりしゃなりと歩いている人が多く
現代でのように、大股で足早に歩いている人はほとんど居ない。
そういう人を探そうとすると、道の端を歩く急ぎ足の男衆に視線を移さなければならない。
旅人なのだろう、擦り切れた草鞋をはいて、いずこかへと歩く中年の男。
急ぎの仕事があるのか、駆け足で走る町人。
「…色んな人がいるなぁ…」
人が生きている。
それを実感しつつそう呟くが、返ってくる声がない。
…あれ。
と思って横を見ると、隣を歩いていたはずの氏真も、泰朝も
その姿がどこにもなかった。
………なんだ、迷子になったか。
後ろ頭をかいて、しごく冷静に思うと
義子は道の端に静かに寄った。
こういう時には、黙ってその場で待つに限る。
動くから、余計に入れ違いになったりして訳が分からなくなるのだ。
見も知らぬ人の家のヘリにもたれ掛け、腕を組んで
義子は通りを眺めた。
人が忙しなく、またはゆっくりと行き交い、ざわざわとしたざわめきがそこにはある。
「…生きてる」
流してみてしまいそうな、沢山の人の息吹に息を吐くと
ふと視線を感じて
義子はそちらの方角を見た。
男がいた。
若い、いや、年のいった男だ。
童顔ではあるが、目の下に入った皺は男が顔の割に年嵩であることを示している。
男は
義子と目が合うと、困ったような顔をして首を傾け
そうして
義子へと真っ直ぐ歩み寄ってきた。
これが男がいかにも怪しげであったのなら、
義子も逃げたのだろうが。
男は優しそうな顔をしていた。
空気も柔らかい。
なんとなく警戒する気にもなれなくて、そのまま接近を許していると
男は
義子の傍まで来て、
義子と目を合わせるためにしゃがみこんだ。
「こんにちわ。君は迷子なのかな」
「えぇ。連れとはぐれました。
手を繋いでいましたが、街並みを見ていて、知らず離してしまったようです」
………答えてから、しまったなぁと
義子は思う。
ものすごく、子供らしく無い返答をした。
それは男の方も思ったようで、瞬きをした後あっけにとられたような顔をする。
「…えぇと」
どう反応すれば良いのか計りかねている男の表情に、気まずくなって
義子は眼をそらした。
……いやだって、兄上と父上はこれで良さそうだったから…!!
氏康に、馬鹿丁寧な挨拶で勘違いされた過去を完全に抹消し
明らかにおかしな今川親子を基準にしているあたり、
義子も完全に染まっている。
けれど、目の前の男は目をそらす
義子を気にせず
気を取り直したようで、そうか、それは大変だったねとやはり、優しげな声で
義子に言った。
「いえ、先ほどはぐれたばかりですので」
「そうか。でも、子供が一人で道端に居るのは危ないと、私は思うよ」
その言葉に、おっとりとした笑みを浮かべる男の顔を見る。
なるほど。
この人は、道の端に子供が一人いて、人攫いにかどわかされる危険性から
義子の傍に寄ってきてくれたのか。
良い人だと思いながら、
義子は男の袖を軽く引いた。
「…まぁ、とりあえず立った方が良いですよ、着物が土で汚れてしまいます」
「あぁ…別にかまわないのだけどね」
そう言いながら、立った男の着物には土がついてしまっている。
地面に膝をついたのだから当然か。
思いながらも、
義子は男の着物の裾についた土を手のひらでたたいて払う。
「あ、あぁ。良いのに」
「いえ、申し訳ありませんが、連れが来るまで傍に居てもらってもよろしいでしょうか」
「うん。そのつもりではあったのだけど…君は、随分としっかりした子だね」
褒められているのか、咎められているのか。
男の口ぶりからは判断がつかなかった。
「普通ですよ、多分、おそらく、きっと」
その分対応に困って、返した言葉はありきたりだ。
後に付けた言葉の数々は、
義子が普通でないことを自覚している分のつけたしである。
それに男は苦笑すると、私は松太郎というのだ、とまず自分から名乗りを上げる。
「君の名前を聞いても良いかな」
「
義子です」
名乗った名前は本名だった。
誤魔化しも一瞬考えるには考えたが
どこにでもある名前であるし、どうでもよかろうと思って。
そして、名前を名乗ったからには来るのは何処から来たの、だとか
連れはお父さんやお母さん?といった質問であるだろうと予見した
義子は
先手を打って、ところでと松太郎に向かって話しかける。
「松太郎さんは、どこからいらっしゃったのです?
見たところ旅の方であるようですが」
背負った荷物と、擦り切れた草鞋と、あとは少しだけ違うイントネーション・なまりから
そう推測して言うと松太郎は、やはりぱちりと目を瞬かせた後鋭いなぁとはにかんだ笑いを洩らした。
「私はね、安芸の方から来たのだよ」
「安芸、随分と遠くからいらっしゃったのですね。
駿河が目的地ですか?」
「いや、実は尾張でね。一応見てきたのは見てきたのだけど
ここまで足を延ばしたのだからせっかくと、駿河まで来てみたところなんだ」
「なるほど」
先の和睦によって、尾張から三河、三河から駿河への関所は
取り調べが緩和されている。
抜けてくるには良い時期だったなと思いながら松太郎を見て、それにしてもと思う。
安芸から尾張までとは、随分と長旅だ。
見たところ商人のようにも見えないし、何を目的としてきたのか。
「でも、何故わざわざ尾張まで。なにかご用事でも?」
「いやなに、少しね……大きな声では言えないのだけれど
桶狭間で義元公が敗戦をされたのは、知っている?」
「はい。聞いております」
本当は、聞いているどころではないのだが、そのようなことを言えるわけもない。
男の言う言葉に言葉少なに頷くと、それは話が早いと言って
松太郎はひそりと
義子の耳に顔を寄せ喋る。
「実のところ、今川義元公が、織田信長公に負けるわけはない。
諸国での考えはこうであったのだよ。
そこを、織田信長公は寡兵を持って、今川義元公を破った。
であるならば、今川義元公が実は弱かった。
こう見るのが普通だろうが、私はそうは思わなかった。
事実、義元公は、信玄公の侵略を退けたことだしね。
織田信長公は、強い。
天下を狙えるほどの天才だ。彼は火のように日の本を征さんとして
いずれ天下にその才を示すだろう。
その前に少し、彼の治める尾張を見たいと思った。
私が安芸からわざわざ足を運んだ理由は、それだけだよ」
………長い。くどい。冗長だ。
松太郎の説明台詞のほとんどは
義子の知るところであった。
必要無い。
大体、その話、子供に聞かせるには難し過ぎるし
大人に聞かせるにもくどすぎるだろう。
話下手だなぁ、この人。
内心呆れながらも、それをおくびにも出さず
そうなのですか、と
義子は感心したように頷く。
まぁ、実際感心もしていた。
話が長いのは確かだが、義元が信長に敗れたのが信長の才によるものだったと
武田信玄を打ち負かすその前に見破っていたのは、嘘でないなら凄い。
「慧眼ですね、松太郎さん」
「いやぁ、そんな大したものではないのだけどね」
照れながら笑う松太郎の顔を見ていると、とてもそんな鋭い人物には見えないのだけど。
「でも、それだけで尾張に行こうと思ったのですか?お仕事は?」
そうして、こちら側に都合の悪い質問をぶつけられぬよう
話を膨らませて次の質問をしてやると、松太郎はその照れた表情を
もっと照れさせて、恥じらいながら口を開いた。
「あぁ、うん。お仕事はね、もうしてないんだ。
えぇと、実は私は歴史家になりたくて。それで、ちょっと、うん。
仕事を辞めてね、本を書いているのだよ。
尾張に行ったのは、その作業の一環で」
「へぇ、歴史家に。なるほどそれで」
…確かに、織田信長と言えば、
義子も知る稀代の人物だ。
一目と思う気持ちは分からなくもない。
けれど、それは
義子の世界の知識であって、今川義元が生き伸びたここでの話ではない。
織田信長は未だ、美濃も手に入れておらぬ状態で
その信長に注目するのだから、よほどの人なのだなこの人は。
思いながら、
義子は松太郎の後ろの大荷物を、顔をずらして覗き込む。
「…それにしても松太郎さん、その書き途中の歴史書
その荷物の中に入っていたりはしませんか?」
「入っているけど、どうかしたかい?」
「いえ、見てみたいなぁと思いまして」
「……え?!」
義子の言葉に、松太郎が大声を上げた。
その大声で、周囲の注目を自然と集めて、
義子は慌てて顔の前で両手を振る。
「あの、駄目なら良いのですけど」
今川義元が、武田信玄相手に力を見せる前に
織田信長の才を認めたような人の書く歴史書に、興味を持っただけなのだ。
そんな深い理由は無い。
駄目なら駄目で良いと、
義子が左右に顔を振っていると
驚きさめやらぬ様子の松太郎が、それでも
義子に落ち着くように手をかざす。
「すまないね、そんなこと言われたことが無かったから、少し驚いて。
いや、うん、それにしても
義子、君は字が読めるのかい?」
「はい、少し」
その言葉には、躊躇いながら頷く。
男はともかくとして、女で字が読める人間というのはそういない。
どうしようかとは思ったが、ここまで賢しい性格で通してきたのだ。
いずこか良い家の子だとでも思ってくれればよい。
松太郎はこうして、誰とも知らぬような迷子の子供に付き合ってくれる
良い人、であるし。
思いながら松太郎を見ていると、彼は暫く思い悩んでいた様子であったが
やがて背後の荷物をあさって、一冊の閉じた本を、
義子に差し出した。
「あぁ、あぁうん。じゃあ、えぇと、読んでくれるのかな」
「読みたいです」
「では……恥ずかしいな」
手を伸ばして受け取って、一枚、二枚。
じっくりと読み進めながら、頁をめくる。
………確かに、内容は、良い。
織田信長の才を見抜いた男の慧眼をもって書かれた歴史は
非常に目新しい視線がいくつもあって、ははぁなるほど…と思わされる。
の、だ、けれども。
残念ながら、書き方が、あれだった。
松太郎の長たらしい説明と同じように、書の文も冗長でくどくて読み辛い。
せっかく内容は良いのに。
書いてあるところを余すところなく読んで、それから
義子は本を閉じ
松太郎へと返却した。
そうすると、自然と松太郎は本を受け取りながら
どこか不安げな、わくわくとした目を
義子に向けていて。
…うわぁ、これどうしよう。
明らかに感想を求められている。
内容は良いですが、書き方が悪いです。
ばっさりと切ってしまえれば楽だったが、あいにくとそうするには
松太郎は良い人過ぎた。
良心の呵責が。
戦国時代に来て以来の働きを見せた良心に、胸を痛めつつ
義子は松太郎の眼をじっと見て
「内容が、大変良かったと思います」
「あ、うん」
「私は歴史を詳しく知るほうではないですが、目新しい視線がいくつもあって
大変ためになりました。面白かったです。
ただ、文章の良い回しに少し、そのぅ、何と言ったらいいのか
そう、癖が、ありましたので、もしも完成と思った時には
誰かに見せて、校正をしてもらい、文章を手直しされた方が
より、良く皆に見てもらえるものが出来上がるのではないかと」
「……なるほど。うん、なるほどね、確かにもっともだ。
いやぁ、私は文章をかくのがあまり得意ではないからね。
参考にさせてもらうよ、ありがとう。
…面白かった?」
「はい」
「そうか、それは良かった」
松太郎が、はにかんで笑う。
その少し桃に染まった頬に、
義子は思いっきり、先よりも強く良心の呵責を覚える。
うぅ…ごめんなさい、くどいって素直に言えなくてごめんなさい。
遠回しにしか言えないチキンですいません…。
良い人に対しては、鋭く突っ込みを入れるにも遠慮がある。
未だ照れ照れとしている松太郎の姿から、激しく目をそらしてしまいたくて
通りの方を見ていると、何か勘違いされたのか、気遣わしげにしながら松太郎が
「見つかった?」と聞いてきた。
それに何が、と一瞬思った
義子だが、そう言えば自分は氏真と泰朝とはぐれていたのだった。
いかん、すっかりうっかり忘れていた。
思い出して、通りを眺めてはみたものの、大通りは人の行き通りが激しく
通りの向こうの人を見ることもままならない。
「凄い人ですねぇ」
「今川の領地は特に賑わっているからね、仕方がない」
「あぁ、兄上もそのようなことを言っておりました」
「君はお兄さんを探しているのかな」
「えぇ、まぁ。あと義兄の友人が一人の計二名です」
お付きと言おうかどうしようか迷ったが、それよりかは友人のほうが良かろう。
判断して喋った言葉に、松太郎は、そうかと頷いて、通りのほうへと視線を戻す。
彼もまた、
義子と同じように二人を探してくれるようだ。
顔も知らないのにどうやって探すかは知らないが。
「…それにしても、どうしてこうも今川は賑わっているのでしょうか」
なんとなく、沈黙したままで居るのも座りが悪く
行きかう人の顔を見ながら話しかけてみると
松太郎はあぁと呟いて、ぐるりと街並みを指さす。
「この町の街並みが、碁盤の目のようになっているのが見えるかい?
これは京を意識して作られているのだけどね。
この小京のような街並みからも分かるように
今川には数多くの公家達が下向してきているんだよ。
その彼らのもたらす文化と、あとは義元公の行った商人管理
交易・金山開発によっての経済発展。
これらの要因によって、今川、駿府はこれだけの賑わいを見せているんだ」
やはり冗長な物言いで、松太郎は
義子に向かって説明をする。
そうして続けて
「だから、今川は豊かだよ。海もあるし、金山もある。
恵まれている。良い君主も居る。
だから、民たちの顔が明るいのだよね」
独り言のように言われた松太郎の言葉に、
義子は歩く人々の顔を
もう一度よく眺めた。
旅人を除いて、この地に根付いていると思われる人々は
皆元気よく、明るく整備された町並みを歩いている。
前に、飛ばされてきた直後見ていた、あの山のふもとの人たちとは大違いだ。
死の影濃く、うつろな表情をしていたふもとの人たちと
明るく行きかう人たちの表情を見比べて、
義子は違い過ぎるなと思う。
豊かということは、人が幸せであるということと近い。
…あぁ、見せたかったのは、これか。
義兄の思惑をそこで理解して、
義子は松太郎の顔を見上げた。
「ありがとうございます、松太郎さん」
「え、何がだい?」
「説明をしてくださって、ですかね」
何にかの説明は出来ないので、くすりと笑ってごまかすと、松太郎は目を見張った後
笑ったねと、自分こそ優しく微笑んだ。
その表情の柔らかさに、笑みを深めると
「
義子!」
名前を呼ぶ声が背後からした。
振り返ると、息を切らせた義兄と泰朝が、こちらに向かって駆けてきている。
「お兄さんと、その友人?」
「はい」
頷くと、そうかと頷いて、松太郎がしょった荷物を背負いなおした。
「では、私はそろそろ失礼しようかな」
言う松太郎を、義兄がお礼を言いたがるかと思いますがと引きとめると
彼はそういうのが遠慮したくてねと、丁寧に拒否をする。
それで引きとめる言葉を失って、その隙に松太郎は手を振りながら
義子から離れた。
仕方なしに彼と同じように手を振って見送っていると、肩が掴まれ振り向かされる。
「
義子……探したのだよ…あぁ…もう…」
「はぐれて申し訳ありません、兄上」
「………ずっとここに?」
泰朝が口を開いて一旦閉じたのは、ここでは名前の後に姫をつけれぬと気がついたからだろう。
どうでも良いことを推測しながら、
義子はこくりと頷いて、隣を指さす。
「はぐれたことにきがついて、ここでずっと待っておりました。
そうしたならば、親切な松太郎という旅のお方が、一緒に先ほどまで待っていて下さったのです」
「松太郎…?して、その方はどこに」
その氏真の問いかけに、
義子は松太郎が去って行った方角へと視線を向ける。
「既に、行かれてしまいました。義兄が礼を言いたがると思うのですが
と言って引きとめたのですが、そういうのは遠慮をしたいと言われまして」
「……そうか。…先ほど、お前を見かけた時に後ろに立っていた方だね」
「はい。優しげな面立ちの」
「なるほど、泰朝」
「はい。見かけたら城にお連れするように、触れは出しておきます」
頷く泰朝に、よろしくと頼んで、氏真は
義子を抱きあげた。
一気に高くなる視界に、氏真の肩を掴むと、彼はほっとした顔をして
義子に頬ずりをする。
「あぁそれにしてもびっくりした。いきなり手の感触が消えたと思ったら
お前がいないんだからね。これきりにしておくれよ」
本当に心配をしていたのだと、知れる声で言う義兄に、少しだけ言葉を失いながら
義子は無言で身を任せた。
別に、この人に心を移したくないわけじゃない。
好いてくれているのだと思うと、なんとなく言いようのない気分に
義子はなった。
嫌な気分では、無いけれど。
そうして、帰り道の途中。
「沢山人がいたのを見ました、兄上」
「うん、覚えておいでね、
義子」
そういう会話をしながら、遠ざかる町を、
義子と氏真は見た。
そこには建物しか見えなくて、人の姿は豆粒のようであったけど。
あそこには、生きている人が沢山、沢山居るのだ。
戦に負けるということは、あすこが踏み荒らされるということ。
習った、略奪を繰り返しながら進む「侵攻される」ということの説明を思い出しながら
義子はもう一度町を振り返る。
夕日が沈みかけたそこは、やけに美しくきらめいているように見えた。
→