永禄四年、夏、安芸にて。

「今川義元公が負けたそうだよ、輝元」
「はい、聞き及んでおります、大殿」
「負かせたのは、織田信長、だったね。尾張のうつけと呼ばれていたと言うのに。
やはり遠いと何も分からぬね」
本が積み上げられ、埃があちらこちらに溜まった部屋の上座に座るのは
一見年若く見える男だ。
けれどその眼の下には良く見れば皺が刻まれており
男が、割に長い時を現世で過ごしてきたことが知れる。
その向かい、下座に座るのは髪の長い男。
男を大殿と呼び、無二の信頼を寄せていると容易に知れる眼で
上座に座る男を見ている。
その視線を時に困りながら、時に微笑ましそうに見る上座の男は
今回は、困りながら、髪の長い男を見た。
「……あのね、輝元」
「はい、なんでしょう、大殿」
「やはり、見なければ分からぬことがあると思うのだよ」
「………はぁ」
「だからね、私は少し尾張に出かけて来ようと思って」
………少しの沈黙が部屋に落ちた。
髪の長い男が、上座の男を見る。
上座の男は、目を合わせないようにしながら、髪の長い男へと視線を向けた。
無言で交わらぬ視線の応酬を交わし、先に声を上げたのは、髪の長い男であった。
「ま、ま、待ってください、大殿!私を見捨てるおつもりですか!!??」
「見捨てるだなんて、人聞きの悪い。
私もなにもここを永久に出ていくわけではないよ。
ただ、少し尾張のほうまで足を延ばして、今後の歴史書の執筆のために
生の光景というのを見てこようと思っているだけで」
「それを、見捨てるのかと言っているのです大殿!!
未だ我らには敵が多い。それを分かっていながら外に出るなど……
頼りない私を見捨てないでください……!!」
「…いやね、輝元。私は死んだ身だから。老後だから。
安穏とした余生を過ごしたいから、こうしてここにいるわけで」
「大殿ぉおお」
……情けない声を上げる髪の長い男。
その男の姿を見ながら、上座の男は深い深いため息をついた。
まったく、どうしてこのようになったのやら。
自分の血を引いているというのに、あまりに似ておらぬ可愛い子を前に
上座の男は―死んだはずの毛利元就は、もう一度ため息をついて
「だけれどね、輝元。私は歴史家になりたかったのだよ」
零した彼の言葉は輝元に聞き届けられることなく、床に落ちて割れ消えた。






















そうして時は飛んで、永禄四年、秋。
今川義子は城の周りを駆けていた。
「………あと、三周」
なんのためかといえば、基礎体力作りのためである。
正式に、氏真の補佐に育てるつもりだという旨の触れが出てからというもの
氏真との会話をする暇なく、講義、習いごとが予定に入れられるようになった。
そしてその中には武芸も勿論含まれる。
それは、とりもなおさず義子が戦場に出る可能性を示唆していたが
そのことは、義子も重々承知していることだった。
この時代においては、戦と言うのは身近なことで、避けて通れるものではない。
大名のそばにあるならば、尚更のこと。
だというのならば、どちらにしろ、知識と強さは身につけておいた方が良い。
―その先にある、人を殺す、ということは、考えなければならないにしても。
義子は生きるためなら、したことがない武芸だろうが、兵法だろうが
なんだってやってみせる。
とりあえず、ご飯と寝床のほうが、重要なんだから。
思いながら、事に臨むその必死さが良いのか、義子はめきめきとその実力を伸ばしていた。
昨年の冬からやっている武芸は、ようやくふらつかずに刀を持て、振れるようになった程度だが
義子の年と性別と期間を考えれば、まぁ及第点であると指南役からは言われている。
あとは、対戦で鍛えるのみだな、という指南役の言葉は恐ろしいものの
なんとかやれているならば、それで良い。
あとは、もっとやれるように努力をするだけだ。
兵法のほうは、どうだろうな、と思う。
色々と戦法はあるものの、義子としては、相手と戦わないで勝つ方法を模索していきたい。
相手と戦う、ということは、こちらが兵站・人員の消耗を強いられる、ということでもある。
できるだけ、相手の戦意を削ぎ数を削ぎ、楽をして勝ちたい。
そりゃあ、たまには正面切って戦わなければならない場合もあるだろうけれども。
「熱心ですな、義子姫」
「あ、朝比奈殿」
走っている最中、今川家臣の一人である、朝比奈泰朝に声をかけられ
義子は速度を緩めて朝比奈泰朝へと近づいた。
「こんにちわ、朝比奈殿。今日は何かご用事ですか?」
「えぇ。今日は、氏真様に少し呼ばれております」
頷く朝比奈泰朝の表情は硬い。
…実のところ、この人は義子のことがあまり好きではないようだ。
ぽっとでの小娘程度が補佐役にと望まれているのだから、それは分からないこともないのだが、しかし。
それなら、わざわざ走っているところに声をかけなくてもいいだろうに。
男の人は良くわからんなぁと思いながら、義子は泰朝の言葉に
遠慮がちに見えるように表情を作って微笑む。
「そうですか、ではあまり邪魔してもいけませんね」
「いえいえ、約束をした刻までは、まだ時間はあるのですよ。
それにしても、あんなに一生懸命に駆けて何をやっておいででしたか?」
…だから、好きでないなら、無理に話をつなげなくても。
せっかく切り上げる切っ掛けを作ってやったというのに
まだ続ける泰朝へ、内心呆れながらも義子は笑みを維持し
柔らかい声を作って言葉を紡ぐ。
「走り込みです。体力をつけようと思って」
「それはそれは。熱心なことですな、女性だというのに」
「まぁ。そんな。過分にも私を拾い上げてくださった父上と
私に期待して下さる兄上に、私は応えたいのです」
「そうですか。それはそれは」
「えぇ、そうなのです」
子供相手にいちいち声色が嫌みたらしい泰朝に
なんだかなぁと思いながら応対していると、向こうの方からおぉいという声がした。
その声に振り向くと、遠くの方から義兄が手を振っているのが見える。
「兄上」
「氏真様」
義兄の登場に、これでやっと泰朝から解放されると
泰朝と義兄に挨拶をしてその場を離れようと思った義子だが
氏真に抱きあげられて、逃亡を阻止された。
「……兄上、私は走り込みをしている最中だったのですが」
「良いではないか。今日はちょっとお休みしなさい」
「お休みしたくありません。やるべきことはきっちりやるのが
私の好ましく思うところです。
よって、兄上、邪魔しないでください」
暗に遊べと言う氏真の顔を押して拒否すると、義兄の向こうで
泰朝があっけにとられた顔をしているのが見えた。
…そういえば、義子はあまり家臣団の居る時には義兄と義父に近づかぬから
こういう光景を見たのはこの人は初めてだったか。
随分と気安く接する義子に驚いているのだろうと納得をしつつ
構うものかと、義子はさらにぐいぐいと氏真の顔を押す。
「もう。さっさと兄上は私をお離しください。
私は走り込みの後、素振りを行い、兵法の講義を受けるのです。
予定が狂います。速やかに解放を願います。早く、さっさと、直ちに」
すると、氏真はますます義子を抱く力を強くして抵抗を示し
ぶーたれた顔をした。
「そのように私の顔を押さないでくれないか、義子
良いじゃないか少しぐらい、兄妹の語らいの時間を持ってくれても。
最近話も出来てないことだし。ねぇ、泰朝。
兄妹の楽しい時間はお前も必要だと思うだろう?」
「はぁ…」
「…兄上、明らかに朝比奈殿が困ってらっしゃいます。
止めて差し上げて下さい。
というかですね、あなたまだ習いごとの時間中のはずですが、どうされたんです」
もろに困った顔をする泰朝を一応救って、それから今は詩歌の時間であるはずの
義兄に問うと、彼はいやぁと曖昧な顔をして笑う。
「それがね、あんまり面白くないものだから居眠りをしていたら
いつのまにか先生がいなくなっていたのだよね。
多分怒って帰ったのだと思うけれど」
「なにを…」
「なにをやっておいでなのですか、氏真様…」
怒ろうとした義子よりも先に、泰朝が苦虫を噛み潰したような顔をして、氏真を咎めた。
しかし氏真はどこ吹く風と言った表情で、だって近頃涼しくなってきたからと飄々と言う。
咎めた人間にこの態度。
これこそが今川氏真である。
なんだかなぁと、しょっぱい表情をして何も言えなくなっている泰朝を見てから
義子は義兄の眉間を人差し指で突いた。
「あいてっ」
「朝比奈殿にあまり意地悪を言うものではないと思います、兄上。
家臣の忠言は、きちんと聞いた方がよろしいかと」
鹿爪面を作って言うと、氏真は首をすくめてたはぁと声を上げる。
「うわぁ、口うるさい。泰朝が三倍になった気分だよ、私」
「怒られるようなことをするから悪いのですよ」
左の車輪の役目は右の車輪の補助。
逸れ掛けた軌道を元に戻すのに、説教が必要ならば説教ぐらいするとも。
この義兄は、根本のところでは軌道修正は必要ないのだろうけど
それでも普段の態度と言うのは大事である。
社会人生活で身を持ってそれを知っている義子が、義兄のふざけた態度を咎めて
めっというと、氏真は肩をすくめてそれを大人しく受け入れた。
「分かった分かった。今度からは居眠りは、しないようにしよう。
全く義子ときたら、可愛くないところが可愛いのだから」
ぎゅうっと、抱きしめられ、義子は氏真のその行動に眉間にしわを寄せる。
子供扱いするのはやめてほしい。
見た目は子供でも頭脳は大人。
そういう義子の悶々とした願いは、しかし口に出すわけにもいかず昇華もされない。
よって、悶々とした気分を継続させて、視線をうろつかせていると、呆然とした泰朝と目が合った。
なんとなく、数秒目を合わせたままでいると、彼はなるほどと小さく口を動かして
そうしてため息をつく。
「そういうことで、補助役ですか」
「そうなのだよね。可愛いだろう、うちの義妹は」
「氏真様の対極にあられるようで、よろしいかと」
首を二三度振って、もう一度義子に目を向けた泰朝の声には
既に先ほどまでの硬さは無かった。
そのことにはっとして、義子は氏真を見る。
「なぁにかな、義子
「………ただ、うわぁ、と思っただけです」
義子の言葉に、にんまりと笑む氏真。
その表情に義子は自分の推測が当っていたことを知り、表情を歪ませた。
なぜ、今川氏真はわざわざ自分から怒られるようなことを、誤魔化しもせず言ったのか。
その答えはこの光景を見れば明らかだ。
今、今川氏真が怒られたのは、確実に、わざとだ。
わざと、この男は、朝比奈泰朝に怒られている光景を見せるために
義子に向かってわざわざ怒られるようなことを素直に、言った。
「…兄上、あなたきちんとまじめに根性出して頑張れば
ものすごい逸材なんじゃないんですか…」
「あーそれなー…時々言われるけど、面倒くさい。
根性とかが、まず、無い。あとその評価は買いかぶり過ぎ。
一面だけ見ていても良いことは無いよ」
きっぱりと言い切る氏真に、頭が痛い気分で額に手を当てると、泰朝と目が合う。
なんとなく、無言で肩をすくめてやると
そういう方ですとでも言いたげに、彼もまた肩をすくめた。
どうやら、彼もまた氏真の行ったことに気がついたようで
見事にやられた者同士、嫌だねぇと通じ合う。
そうしていると、氏真が義子を抱きかかえ直し、所でと
二人に声をかけた。
「そういえばねぇ、泰朝。お前を呼んだ理由だけれども」
「はい、何だったのでしょうか」
「舶来からの硝子細工が手に入ったから、見せようと思って呼んだのだけ、ど」
「…だけど?」
義子となんとなく仲良くなったようであるし、少しお忍びで城下に出かけようか」
………無言で、泰朝と目を合わせる。
短い時間だが、こういう時に反対できる常識人であると何とはなしに察していたからである。
けれど彼は無言でかぶりを振り、義子に諦めるよう伝えた。
雰囲気から察するに、おそらく言いたいのは
『…この人がこう言うことを言い出したら聞きません、諦めなさい』
………無言で、義子は城の方を見て、えぇとと義兄の肩を叩く。
「…兄上、私、この後予定が。鍛錬とか鍛錬とか鍛錬とか」
「たまには遊んだらよいではないか、子供なのだから」
「では、子供らしくままごとでもして遊びますから、お忍びはやめましょうよ。
私、一生懸命おままごとしますから」
「駄目。私はそう決めてしまったからね。
嫌なら無理やり降りて城に逃げ込みなさい」
相変わらず、さらりと無理を言う人だ。
五つも六つも離れた男相手に、十程度の女が敵うわけ無いだろうに。
申し訳程度に、一応の反抗をして、それから義子はぐったりと力を抜いて
義兄のするがままに任せた。
こういう時には諦めが肝心。泰朝の言うとおりにしよう、仕方がない。
こちらに来てから学んだ、物悲しい経験則からの行動であった。