織田に敗退した今川は、いずれ織田に報復をする。
そう、周辺諸国では思われていたし、今川も無論そのつもりであった。
しかし、時は永禄四年、夏。
今川・織田間に和睦が、成る。
それは、婚姻での同盟こそないものの、それに近しい友好政策への転換を示唆していた。
それに対して、今川家臣団の間では、不平不満を抱くものも数多くいたが
今川義元が理由を噂としてそれとなく流すと、すぐにその不平不満は沈静化する。
その理由とは、武田信玄による徳川家康の懐柔政策にあった。
駿河を攻め立て二分割せぬかと、武田信玄は徳川家康に向けて書状を送っており
徳川家康は、それに対して心を動かされている様子。
三河に放った忍びより、その報を受けた今川義元は
すぐさま外交方針の転換を行った。
即ち、織田との敵対よりも、武田の牽制を狙った和睦を選んだのだ。
そしてそれは功を奏し、美濃攻めを再開しようとしていた織田は
今川からのその申し出を受け。
織田と友好的な関係にある徳川は、そうなっては武田の申し出を受けるのは
織田の不興を買いかねぬと、武田の申し出を、蹴った。
ここまでは、全て今川義元の読み通りである。
友好も信頼も、紙屑のような戦国の世であるが
一瞬一瞬、その紙屑が有効に使えれば、良い。
そうして、今回のそれは、紙屑に例えるよりも砂金に例えた方がしっくりとくる。
つまりは大成功であった。
そうやって、ひと泡武田に吹かせてやった今川であるが
紙屑のままに終わった策がある。
北条と組んで行った塩止めだ。
結果からいえば、この策、とてつもない失敗に終わった。
武田に対しての塩止めを行った今川・北条の思惑に反して
上杉から、塩の援助があったからだ。
甲斐に対して、周辺諸国すべてで塩止めを行えば、甲斐の塩の値段は高騰し
甲斐の経済は打撃を受け、その結果、国力が低下するのは目に見えている。
そうすれば、その隙に領土を取ることも可能だ。
これに加担しない国はあるまいて。
………そう思いたかった今川・北条であるが
不安要素はあった。
今回塩の援助を行った、越後・上杉だ。
『あそこの国は、正義の押し売りをしやがるからなぁ』
ぼやいた北条氏康の言葉はまるで予言のように当り。
甲斐武田への塩の輸出をむしろ推奨した越後上杉の行動によって
塩止めはただの嫌がらせに終わり、紙屑は紙屑のまま
紙屑入れへと入れられたのである。
そういう情勢であるか。
一人ぶらぶらと歩きながら、城内を情報収集していた
義子は
情報収集の結果を組み立て分かった、今川のおかれた危うい状況に、
組みをしてもの思う。
今回は武田の謀略を未然に防ぎ、徳川を敵に回すのを避けられたが
今度そういったことが起こった時、同じように回避できるかどうか。
いや、回避しなければならないのだ。
二国が同調して今川を攻めてきた時、戦い続けられるほどの体力が
今川が回復しているかと言えば、それは怪しい。
この間、義兄に見せられた今川の食料の貯蓄状況・経済状況を思い出しながら
義子は考える。
幸いにして今川には金山があるので、そうそう資金難に陥ることは無い、とは思うが。
しかし金には困らなくても、食料・人員については容易く補給できるものではない。
食料は、育つのに時間がいる。
人員は、もっとだ。
人一人が戦えるようになるのには最低で十五、十四年。
今居る元服を済ませたばかりの戦闘員候補が、戦えるようになるのを順繰りに待っても
桶狭間で削られた分を補給しようと思えば、あと五年は待たなければならない。
今はまだ、敵は武田一国だけにしておかなければ。
敵を増やさないようにするのが、当面の今川の課題かな。
顎に手をやり、空を見る。
……そう、今川を分析する
義子だが、別に今川だけが特別危ういのではないのは
彼女とて良く分かっている。
戦国の国の情勢は、皆、無理やりに薄い氷に乗せられそれを踏み壊さないよう
そろそろと歩いているのに似ている。
そうして、各国は各々が氷の上を静かに歩きながら
周りの国が氷を踏み割らないか、隙は無いかと、爛々と目を光らせているのだ。
「……嫌な世界だなぁ」
考えたことの窮屈さに肩をすくめると、ふと目の前に影が落ちた。
上を見上げるとそこには、のほほんとした白塗りの顔がある。
「義元様」
名前を呼ぶと、彼の人は
義子の後ろに立ったまま、ことんと首を傾げた。
「の、一人で何をしておるのかの」
「散歩です。氏真様がおりませんので、探すついでに」
言い訳はするりと口から出てきた。
在り方を定めてからというもの、何をすればよいのかが明確になったので
それに合わせて動くということを、
義子はしている。
先ほどの情報収集然り、今然り。
氏真からは、義父義元への対応をどうすればよいのか、については指示は無かった。
左右の車輪となることを明かすのか、それとも伏すのか
で、あるならば、
義子が勝手に判断することではない。
またそれについては氏真の判断を仰がなければ。
そう考えて、
義子がさらさらと誤魔化しの言葉を言うと
義元はそうかの、と言って、
義子の体を持ち上げ抱き上げる。
「わっ」
急に浮き上がった景色に
義子が驚きの声を漏らすと、義元はほっほっと声を上げて笑った。
「氏真を探すなら、時間が空いたゆえ、麻呂も手伝ってあげるの」
「あ、いや、あぁと、ありがとうございます」
何故持ち上げたのか。
そうは思ったが、まぁ多分特に意味はあるまい。
義元公だからなぁ。
思いながら、義元の肩にしがみついて礼を言うと義元はいつものように
柔和な笑みを浮かべながらゆるやかに動き出した。
義元の動きというのは、実に優雅なもので、ゆるりゆるりとゆっくりと歩く。
それだから、
義子の体にくる振動は殆どなくて、視点の上下運動も無く
実に快適に彼女と、そして彼は進む。
「それにしても、の。近頃
義子は氏真のことを兄上と呼んでいるそうだの」
「あ、はい。そう呼んでほしいと、兄上、氏真様が特に願われましたので。
無礼であったでしょうか」
「別に咎めておるわけではないの。麻呂の目的がどうであれ
義子は麻呂の家の養子になったのだから
義理の義兄を兄上と呼んだところで無礼があるわけがないの」
「はい。寛大なお言葉、感謝いたします」
「
義子は本当に、子供らしくない子供じゃの」
言いながら義元は、腕に抱きあげた
義子と目を合わせて
「それだから、氏真に、麻呂にとっての太原雪斎を務めよと願われるのだの」
「は」
言われた言葉に
義子は言葉を失った。
この人は、今何と言った?
口を開け目を見開き、義元を見つめる
義子に
義元はやはり柔和な笑みを浮かべたまま、彼女を抱きなおす。
「麻呂が気づいておらぬとでも思っておったのなら
それは、今川家当主今川義元を見くびり過ぎであるの。謝罪を要求するの」
「も、うしわけ、ありません」
自然と声が擦れるのは仕方あるまい。
行き成り呼び名を兄上に変化させたのだ、何事かあったのだとは
確実に気がつかれるとは、
義子も思っていた。
だが、太原雪斎の名を出してくる所までとは、思いもつかなかったのだ。
確かに、義元の言うとおり、
義子は義元を見くびり過ぎていた。
普段が普段だからといって、これは元々は破格の三国を手中においていた大大名。
義子ごときが騙せるような相手ではなかった。
背中に氷を入れられたような気分で抱えられていると
しかし義元は、脅かすつもりはないの、と平生通りの様子で言う。
「咎めるつもりも、勿論ないの。氏真が最低限の働きをするようになるなら
麻呂も何でも良いとは思っておるの。
ただ」
「ただ?」
脅しも、咎めもないとは聞いても、ただ、と言われてしまっては
義子も緊張するしかない。
固唾を飲み義元の言葉を待つと、彼はつぶらな目で
義子を見て
「…麻呂だけ仲間外れにされるのは、麻呂も寂しいの。
麻呂のことは
義子は父上と呼んではくれぬのかの」
「………は?……え?」
思いもよらぬ言葉に、
義子は目が飛び出すかと思った。
………父上?え、父上?
けれど、義元はいたって真剣なようで、めずらしくぷりぷりとした表情をして
義子と目を合わせて、むっとした様子の声を出す。
「は?でもえ?でもないの。最近は二人して仲良く話ばかりして
二人ともちぃとも麻呂にかまってくれぬの!
ちょっとは当主の顔を立てて、蹴鞠でも麻呂とすればいいの!
麻呂は一人で蹴鞠ってばかりで寂しいの!の!」
「え、ちょ、ま。ひょっとして今の全部前ふりで
それを言いたかったがためですか、義元様!!」
「そうだの、当り前だの!氏真がどういう風な構想を持って
今川家当主になろうとしていようが、なるなら麻呂は何も文句言わないの。
仏門に下るとか、そういう馬鹿を思わなくなっただけましだの」
うっっわ…当たり前って言ったよこの人。
というか、全部ばれていらっしゃる。
さらっと義元が言った『仏門に下るとかいう馬鹿』のくだりで
義子は驚愕して頭が真っ白になったが、なんとか頭を振って正気に戻った。
呆けている場合ではない。
……しかし、阿呆な理由の前ふりが、確実に本題だと思うのだが
というか、そもそも義元は、氏真が跡取りを辞めたいのを分かっていながら
廃嫡もせず、跡取りとして置いていたわけか。
あぁもう、何から驚けばいいのかさっぱり分からない。
氏真が仏門に下りたいのを、義元が見抜いていたことも
義子と氏真が、雪斎と義元のように、左右の車輪になろうとしていたことも
かなり、重要な問題だ。
前者は跡取りとしての意思を問われることにおいて
後者は、跡取りの左を務めるという点で、今後の今川を左右しかねないことにおいて
それぞれ問題…だというのに。
それが、前ふり。
「……あなた達は」
「の?」
それを思うと、もう我慢ならなかった。
「あなた達は、なぜ、本題とすべきことをさらっと流して
どうでもよいことを重大そうに言うのです……。
父上呼ばわりも、蹴鞠も二の次で良いではありませんか!
なぜ蹴鞠とか・父上とか・そこを重要そうに言った、意味が分からない!!」
どすの利いた声が喉から出て、
義子はきっと義元を睨みつけながら一息に言ってしまう。
何なんだよお前ら親子はと続けたいのを飲み込んで
義元に抱かれたまま、頭が痛すぎて額を抑える
義子。
いいじゃないか、蹴鞠なんて。
いいじゃないか、父上なんて。
もっと別の問題考えろよ!!
もっと考えるべきところあるだろ!!お前はあほか馬鹿かド阿呆か!
許されるなら声を大にして叫びたいところであるが、相手は今川家当主。
一応気を使ってオブラートに包…めてはないが
とりあえず、暴言を吐くのは留めた
義子。
だが、相手は今川義元である。
「重大だの。
義子が本題としている問題など
氏真がとろとろしている間に、麻呂は悲しいながら通過してしまったの。
麻呂は、もう既に蹴鞠がやれれば良いかの。というところまで来てしまったのだの。
野心とか野望とか、そういうのはもう飽きたのじゃの!
だから、二人が麻呂をかまってくれぬ方が問題だの」
…義元は、
義子の言葉をさらっさらと流して、あまつさえふくれてそっぽを向く。
とても、いい歳をしたおっさんのやる動作ではない。
けれど、今川義元という人がやると、どうにも許せてしまうのだからもう…。
もう…と思いつつも、遠い目をして
義子は「父上と呼べばよろしいので?」と
全てを投げ去った声で義元に問うた。
…もう、どうでもいい。
まともに相手するの、疲れた。
生きるとか命綱とか、この人ら相手にそんなシリアスしてても
無駄っていうか、あほらしい…。
もうやだ疲れた何これ何この親子。
諦念に完全に支配された
義子に、けれど義元は嬉しそうににっこりと目が無くなるような笑い方をして。
「そうすると良いの!あと時々は麻呂にかまうと良いの!
未だ今川の当主は麻呂なのだから、麻呂を大事にすると良いの!」
「……えぇ、えぇ。はい、大事にします、しますとも。
すればいいんでしょう、すれば。大事にしますとも。
蹴鞠すればいいんですか、それとも将棋すりゃいいですか。
話もした方が良いですか、義元様」
「全部してくれると麻呂は嬉しいの。
その代わり、してくれれば、
義子を良いようにしてあげるの」
投げやり・どうでにでもして・状態でぐったりと言った言葉に
返されたのは喜色に満ちた声で、その内容に
義子は少しだけ顔を上げて
義元の顔をちらりと見る。
「……はぁ、良いようにですか。例えば、どのように?
私にとって一番良いのは、衣食住付き一生涯保証、職業訓練付き。の待遇を
義元様が保障してくださることですけど」
もう本当、投げやりがふさわしい言いざまで、全部のことに疲れた
義子は言った。
が、義元は怒りもせず、ではそのようにしてあげるの。と間も置かずに言いきる。
それにぱちぱちと目を瞬かせて、本気で?と
義子は目で問う。
「本当だの。今川の当主として、約束してあげるの」
「嘘でなく?」
繰り返し問うのは、あまりに都合が良すぎるからだ。
人はあまりに良いことが起こると、それが嘘ではないか、確認したくなる。
義子がそのような心で義元に対し、再度の確認を取ると、彼はまっすぐに
義子の眼を見て
しっかりと、しっかりと、頷いた。
「嘘はつかぬの。兵法と武芸の稽古を倍にして
それから作法礼節の授業をちょっとだけ増やしてあげるの。
立派に軍師の役割務め果たせるようになるがよいの」
「………え。義元様、それって」
一気に水を差された気分で、
義子が恐る恐る義元の胸元を引っ張ると
彼はその手をやんわりと離して握りこみ、ぎゅっと力強く握った。
「
義子を氏真の補佐とするという発表
正式にきちんとしてあげるから、氏真を宜しく頼んだの!」
…それ、ちょっとした詐欺じゃないんでしょうか、義元公。
確かに、一生の衣食住と職業訓練は出来るだろうけど
それは…氏真の申し出を受けた時点で決定していたことで…。
いや、当主である義元公の口添えが合ったほうが、そりゃ良いにはきまってるけど…。
あっけにとられるやら呆れるやら驚くやらで、二の句が継げない
義子を置き去りに
義元公は
義子をおいて、それじゃあの、とその場を去り。
そうして翌日には、きっかりと、
義子を氏真の補佐として育てる方針である旨の発表が
城内に触れまわされたのである。
…その発表に対しての反応は賛否両論であったが
少なくとも今川当主の決めたことに、表立って反対するものは無く
展開についていけない
義子を濁流にのみ込みつつ
乱世の時は緩やかに、流れのまま流れてゆくこととなる。
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