今川氏真の、対等に語り合える人間になってほしいという申し出に
是と答えた
義子だったが、それを行うにはまず、氏真の思想を知らねばならない。
どういうことを考えていて、どうしたいのか。
それが分からないことには、何も
義子は彼に対して出来はしない。
そういう考えで、彼の居室を尋ねると、氏真は快く
義子を迎え入れた。
「なるほどねぇ。私の考えか」
「まぁ、出来るだけで良いのですけど」
小姓に運ばせた茶を啜りながら言うと、氏真もまた茶を飲みながらうぅんと唸る。
「そうは言ってもね、
義子。そうそう思想を語れと言われても
主眼を絞ってもらわなければ、何を言っていいのか分からぬよ」
「あぁ、それはすいません、兄上。
ならば、跡取りをやめたい件についてでも」
「おや、いきなりそこかね」
面白そうに瞳を躍らせた義兄に、
義子はそこですとも、と頷く。
「いえね、よくよく考えてみると不思議なのです、兄上。
今までの発言を総合して考えれば、あなたは今川を好いていらっしゃる。
だというのに、何故にそういうことを言い出すのか
理由が不明だなと、私は思うわけで」
湯呑を持ったまま行儀悪く人差し指を立て、目の前の氏真を指させば
彼は長い横髪を手に絡ませ、なるほどね。と納得をする。
「得心いったよ、
義子。今川を私は好いている。
それは肯定しよう。ならば、なぜ辞めたいのかという流れになるのは当然のことだ」
「はい。それをお聞きしたいのです」
「うむ。ようするにね、
義子」
「はい」
「面倒くさいのだよ」
「結局行きつくとこはそこか、あんたっ!!」
「わぁ、猫被りを捨てていいと言った途端にあんた呼ばわりだ。
義子は遠慮がないなぁ」
真面目に聞いていたというのに、面倒とかいうたわけたことを氏真が言うから。
つい、うっかり、怒鳴ってしまった
義子は
氏真の突っ込みを受け、はっと我に返り、あわあわとする。
「あ、いや、違う、すいません、兄上が、あんまりに馬鹿なことを言うもので、つい」
「とりなしにもなってない。しょっぱい。しょっぱいよ、
義子」
そうして、あわあわとしたまま言葉を重ねるものだから
フォローになって無いフォローをする
義子に、氏真は更に鋭く突っ込んで
ははは、と愉快そうな笑い声を上げた。
「
義子はあれだね、実は余計なこと言いだね?」
「今からでももう一度、猫を被ってよろしいでしょうか、兄上」
「却下。面白いから良いよ、許す」
「許されても私の胃が痛いのですが」
手を上げてした提案は、無情にも一瞬で却下を食らった。
しかし、これ以上突込みどころ満載の義兄相手に
本音で喋っていると境界線を越えそうで怖い。
というか、その前に、誰かに無礼ものと手討ちにされそうで恐ろしい。
胃を押さえながら言う
義子に、氏真はといえば。
「うむうむ。
義子は苦労症だなぁ。で、私がなぜ辞めたいのかという話だったね」
ゴーイング・マイ・ウェイ。
父親譲りの話の聞かなさで、話の軌道修正を行い
猫かぶりの話題を続けたい
義子を余所に、前の話題へと話を戻す。
「えぇと、どういえば伝わるのか。
ようするに辞めたいから辞めたいのだけど。
…うぅん…だから、大名って無駄ではないか?と思ってるというか」
「無駄」
「いや、領地経営を行って、各地に規律をもたらすのは無駄ではないと思っているよ。
ただ、何て言うのかな。今の流れが私は嫌なだけで」
「何がお嫌なのでしょう」
義子が首を傾げて話を促すと、うぅんとね、と氏真は前置いて
言葉を探しながら、続ける。
「各地で下剋上だのなんだのを行って、のし上がった大名たちが
我こそはと、将軍家になり変わろうと、天下統一を行おうとしている流れ、だよ」
「それは将軍家の力の衰退による時代の流れでございましょう。
仕方のないことですよ。力の無いものに人は従いません」
仕方がないことだ。
力が無くなった者には誰も従わなくなる。
歴史がそれを証明していると考えて肯定する
義子は、未だに戦国時代には汚れていない。
従わなくなったが故に生まれる、暴力も戦争も人の死体も人心の荒廃も、全て彼女には未だ文字の上だけのこと。
文字だけで追いかけて理解している
義子と、氏真の認識は根本的にずれているのだけれども
そのすれ違いには気がつかず、氏真は
義子の言葉に頷きを返した。
「そう、それがいらつくのだよね。
将軍家が、幕府を打ち立てて何年持った?
今もまだかろうじてあるが、力の衰退が始まった時期で数えれば
たかだか百年ばかりだろう。
人一人を頂点に立てて行う政治の限界を、何故皆そこに見ない」
「では、兄上はどうするべきだと」
「そうだなぁ。うん、戦などせず、いっそ今在る大名全員で
一つの政府でも作って、それで天下統一、ということにすれば良いのではないかな。
皆で寄り集まって、物事は決める。
頭が居らねば困る物事もあろうから、頭は作るが
それは持ち回りで、皆が順番に務める。
頭が絶対的な権力を持っていては、そのようにする意味がないから
頭の命令についての拒否権は全員が持ち
多数決で決をとり、政治を決めてゆくといったような感じで」
いかがかな。と言い終えた氏真が
義子を見るが
彼女は言葉を返すこともなく、ぱちりぱちりと目を瞬かせて氏真を見た。
彼は説明しながらも、果たして自分の思想を理解してもらえるのか
不安げな様子で
義子を見ている。
そうして、氏真の表情を見てから、
義子は氏真は自分を選んで正解だと
心の底から真剣に、思う。
頭になった人間が、自らの支配する地域に都合のよいようにしたがるのは
自明の理であるし、領地をどこからどこまでにするかで揉めるだろうし
そうそう上手くいかぬことは予想できる。予想できるが。
それを除いても、氏真の考えは、確実に先進的過ぎる。
人一人の力で、戦をして、力を見せて、そうやって何事も切り開いてゆくこの時代に
氏真の考えは異端すぎるように
義子には思えた。
「その考え誰かに話したりは」
心配になって氏真に聞くと、彼はないないと言わんばかりに手を横に振った。
「しておらぬよ。そこまで私も馬鹿じゃあない。
皆の賛同は得られぬだろうね、この考えは。
誰も彼もが権力欲に燃えている。本当、面倒だよね」
あーやだやだと言いながら、氏真はだらしなく畳に寝そべった。
横向きに寝転がる彼の表情は、本当にだるそうで
いつもの氏真に、少しだけ
義子は苦笑を浮かべる。
「こんなところでも面倒ですか」
「面倒だよ、心底面倒。
戦は面倒で、戦をして一生懸命に生き伸びなくてはいけないのが、心の底から私は嫌で。
だから、戦しなくても良い方法を一生懸命考えてもね
話し合いの席につかせるためには、結局戦をしなくてはいかんのだよ。
これが面倒でなくてなんだと言うの」
「あぁ、それはね。うん。
異なる意思を持つ相手を、話し合いの席に引きずりだして着かせる時には
すでに勝敗はついているものですからね」
義子の知る歴史は、氏真の知るものより遥かに長く広い。
それを見ての結論を言えば、氏真も
義子の言葉に思うところがあるようで
深く、深く、頷く。
「そうなのだよ。嫌だと思わない、
義子。
例え王道を敷くとか、泰平を世にもたらすと言う人間だろうが
そこに関しては変わらぬのだよ。
だから、私は信玄公が好きではないのだ。
生きるための略奪なら、私もあぁそうだな、生きるためだなと思うけど。
あの人が言っているのは、ざっくり言ってしまえば、おためごかしでしょう」
「まぁ……………なんといえばいいのか。
そこはいつまでたっても変わらぬ人の愚かしさですよ、ねぇ」
やはり、この人生まれてくるのが早すぎたんじゃないのと思いながらも
なんとなく、氏真が言うことには同意できるので
間をあけて、
義子も曖昧に頷く。
いや、同意できること自体が、
義子から見ればおかしいのだけど。
氏真が言うような、そういう、アンニュイな思考と言うのは
ある程度の余裕を持った人間がもつものだ。
例えば、
義子の生きていた、二十一世紀の豊かな国に生まれた人間だとかが。
生きるのに必要なものが足りているから、『余分な』ところに思考を回す『余裕』がある。
生きるのに必死な人間は、そんなことは思わない、思えない。
それを面倒くさいという理由だけで、そこにたどり着くのだからこの人はなんともはや。
義子と重なり合う思想をもつという時点で、彼の頭の歯車は狂っている。
何事も極めればすごいのだなぁと、呑気な感想を持ちながら
義子は自らの顎を撫でて天井へと視線を向ける。
それにしても、氏真がそういう思想の持ち主であるのなら
義子は何をするべきであろうか。
氏真を右の車輪と例えるならば、
義子は左の車輪であるべきなのだ。
義子が受けたのはそのような申し出で、まぁとりあえずの所、差し当たっては兵法だろうか。
戦が嫌いで嫌いで仕方がないらしい氏真のために
そういう勉強をしておくべきかと
義子が考えていると
氏真は畳に肘をついて、頬杖をついた姿勢でため息をつく。
「それにしてもねぇ。毛利がうらやましいよ」
「は、毛利ですか」
いきなり出てきた別の家名にそれを繰り返すと、そう。と氏真は顔を微かに動かした。
「そう。安芸のね。あそこはあそこで色々と勢力争いがあるようだけど
毛利を一大勢力に押し上げた毛利元就公の遺言で
天下争いに関わらないようになっているのだよ、あそこの家は」
「………そりゃあ、羨ましい話で」
天下争い激戦区におかれた駿河からしてみれば
そのような遺言を受けれる時点で羨ましい。
思わず羨望の念を込めて
義子が言うと、氏真は全くだと同意をしたが
「でもまぁ、うちもそうなるみたいだけどね」
相変わらず、さらりと爆弾発言をする。
目を点にしながら
義子が彼を見ると、氏真はほんとほんとと軽い調子で
からからと笑った。
「まぁ、父上の動向を見ていればねぇ。
今川は家を守りつつも、領土を出来るだけ狭めるようにするようだよ。
私が至らないから。はっはっはっ!!」
「そこ笑うところですか!?」
おもわず手を横に振る動作付きで突っ込むと
笑うところ笑うところと、やはりかーるく氏真は
義子の突っ込みを流す。
「願ったり叶ったりだからねぇ。良いことないよ、天下なんて目指しても。
大体、私にそんな力量は無い。断言する」
「天下は目指さなくてもいいですから、断言しては駄目です、駄目です。
もうちょっと努力とか根性とか、お願いだから見せてください。
頑張りましょうよ、兄上」
笑う氏真の袖を引っ張ってゆすると、氏真は愉快そうに
義子を抱き込んで、高い高いと天井の方へと持ち上げる。
その子供扱いに憮然としつつも、
義子はそれをする氏真の意図を察して
黙ってため息をついた。
「…嫌なら嫌と言いましょう、兄上。立派な口があるんだから」
「面倒だから、誤魔化そうかなと思って。
でも子供は体温が高いから、触っていると暑いね」
「…そりゃあもう夏がきますから」
あぁ、忌々しい季節が来る。
クーラーもないのに、どう過ごせばよいのか。
じんわりと汗の滲む気温の空気に、
義子は眉根を寄せた。
「…夏、暑いから嫌いなんですよね。冬も嫌いですけど」
「あぁ、気が合うね。私も嫌いだよ」
「そうですかー、ですよねー………暑い…」
「…暑いよね…」
意味もなく呟く二人の様子が、大分打ち解けたものになったのは
義子が申し出を受けてから、幾日か経った永禄四年、夏の迫った頃のこと。
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