永禄四年、春の終わり。
今川義元と北条氏康は、同盟を破った武田に対して、塩止めの制裁を行うこととした。
それを決めると、北条の一団は、すぐさま小田原城へと帰還する。
「じゃあな」
そう言って、軽く別れた北条氏康と、その横に立つ風魔小太郎の記憶は未だ新しいが
北条の一団が帰ったことによって、日常が、今川の地に戻ってきた。
そうして、今日もまた
義子は無事に帰還した氏真とともに、日々を過ごしている。
「彼を知り己を知れば百戦危うからず。これは孫氏の言った言葉ですが、兵法の基本です。
相手を知ることは、相手の立てる戦法その癖、その思考論理を読み解くことになる。
相手がいかほど、自分の立てる策を読んでくるのか。
まさに、それを知らねば戦などできません。先読みこそが勝利へとつながる鍵なのですから」
「…………」
時は夏に近づこうとしている。
柔らかな日差しはすでに無く、窓から入ってくる日光はかなりきつい。
その中でこくりこくりとうたたね出来る氏真の才能は、
義子は素晴らしいと思う。
このくそ暑いのに。
起こした方が良いのだろうかとも思うが、しかし起こして不興を買うのも怖い。
どうしようかと思っていると、兵法指南役に放っておきなさいという顔をされる。
「講義を受けているだけましですよ」
「そういう、ものですか?」
「そうだと思いなさい、氏真様はね」
どうしようもないという顔をした指南役に宿るのは、紛れもなく諦めだ。
どれだけさぼってきたのだろうと思いつつも、まぁ指南役もこう言っていることだしと
義子は自分を納得させて、ぴっちりととった講義内容のまとめに視線を落とした。
「
義子姫、何か質問でも?」
「あぁいえ特に」
「何かあるなら、私に遠慮せずしなさい」
氏真を差し置いて質問するのもと思って、
義子が遠慮をした瞬間
絶妙のタイミングで氏真が言うものだから
義子も指南役もびくりと体を竦ませた。
まるで、起きていたようなタイミングだ。
驚きに鼓動が早くなった胸を抑えつつ、
義子は、起きてらっしゃったのですかと
氏真に声をかける、が。
「いいや、寝ていたよ。丁度良く目が覚めただけ」
ふぁあと欠伸をしながら、氏真は否定する。
そうされると、追求する術は
義子にも指南役にもなく
二人は目を合わせて、揃って不可解な表情を浮かべることで感情の共有をした。
それにしては、なんだか図ったような時であったけれど。
言いたくても言えない一言を胸に、その日の講義はそのまま終了となった。
指南役が部屋を退出した後、筆を片づける
義子に氏真がねぇと声をかける。
「ねぇ
義子、お前やはり質問したいことがあったのではないの」
「いえ、特には」
嘘だ。あった。
指南役に『それでは相手に簡単にこちらを読ませないよう、戦術には幅を持たせた方が良いのですね』
という言葉をぶつけて、是を貰いたかったが。
でもまぁ、それは氏真を差し置いてするような質問ではない。
戦場に立つことも、ないのだしと思いながら、尚も片づけを続けようとする
義子だが
それを邪魔するようにもう一度氏真から、今度は強く声がかかる。
「…ねぇ、
義子。あんまり嘘は言うものではないよ」
「嘘は」
ついている。
けれど、そこまで強く言われる理由が分からなくて、
義子は目を白黒させた。
どういうことかと氏真の顔を見るが、その表情からは何を考えているのか
読み取ることは出来ない。
普段から考えの分からない人ではあるが、一体どういうことか。
相手の出方をうかがっていると、それを察したのか氏真が分からない?と首を傾げる。
それに黙って頷くと、仕方がないとでも言いたげに、彼はため息をつく。
「あのねぇ
義子。私は武田との戦に出立する前に、猫はかぶらなくても良いと言ったね。
覚えているかい?」
「はい、それは」
「でもお前は未だ猫を被ったままだ。
そして、何度かちょっかいを掛けているにも関わらず、それを頑なに貫き通そうとしている。
何故かな?」
…何故か、など聞かれるまでもない。
不興を買いたくないからだ。
義子の猫かぶりというか、言いたいことを飲み込むようにしているのは
その言いたいこと、というのが今川義元・氏真にとって失礼にあたるからで。
命綱である彼らに見放されれば、
義子は死ぬ。死んでしまう。
なんのとりえもない子供一人、ここを放逐されて生きていけないと
無理やりに学ばされるようになってから、更に強く思い知らされている。
世は戦国時代。
あちらこちらで戦争が起こり、領土を争う時代。
しかも、その戦争・領土争いの理由のうちのいくつかは、飢えて食うものがないから
隣国から略奪せねばならないという、酷いもので。
そんな時代を、子供一人で生きる?
生きてはいけない。
山で野宿をするにも限度がある。
冬は、暖かな屋根のある場所でなければ生きられない。
それを身を持って実感しているからこそ、
義子は言葉を飲み込む飲んでいる。
それなのに、この人はそれをするなというのか。
無意識に視線を強くすると、そう怒るものではないよと言う柔らかな声を氏真は出した。
「さて、
義子。それだけお前が強く抵抗するということは
お前は言って、不興を買うことを怖がっているね」
その問いには答えられない。
是と言えば、内容を自ら証明することになる。
どう立ち回ろうかと考えているうちに、氏真はしかしね、と前置いて
「不興を買うというのなら、今この時がまさにそれだとは思うけどね」
「それは………」
その氏真の発言に、
義子は言葉を詰まらせた。
言われてみれば、そうだ。
発言を突っぱねられて嬉しい人間などいはしまい。
事実、氏真は強い声で
義子に言った。
…これは大分不興を買っていると見て間違いあるまい。
けれど、かといって
義子としては、猫を捨て去るわけにもいかないのだ。
義子は生きたい、生きていたい。
だから、命綱である義元・氏真に失礼なことは言いたくないのに。
どうして言わせようとするのだろう。
頭を抱えたい気持ちで、うろうろと視線を彷徨わせる
義子の様子を
しばらく見ていた氏真だが、
義子の意思が固まらぬのを見てとってか
腕を組んでうんと、一つ頷きにこりと笑う。
「じゃあね、怖がりな
義子に私の秘密を教えてあげよう」
唐突な発言に、
義子は何を言い出すのかと思ったが
氏真の言葉が唐突なのはいつものことだ。
はぁと曖昧な相槌を打った
義子にかまうことなく
氏真は
義子の耳元に顔を寄せ
「実はねぇ、私は今川の跡取りをやめて仏門に入りたいのだよ」
「………はい?!」
その発言内容にぎょっとして、思わず大声を出しながら
氏真を見ると、彼は笑っていた。
一瞬冗談であったかと、笑っているのを見て思った
義子だったが
彼の瞳を見てその安堵は霧散する。
彼の瞳は、至極真剣なものであった。
………跡取りを、やめて、仏門に入りたい。
それは大きな爆弾発言だ。
それを公の場でいえば、かなりの騒動は免れない。
いいや、それを氏真を廃嫡したい誰かに
義子が言ってしまえば
公の場で言わなくても騒動が生まれる。
そのようなこと。
思って二度、三度、呼吸を直して
義子は未だ強張った表情のまま
氏真へと体ごと向き直った。
聞かなかったことにするには、あまりに発言内容が重すぎる。
「それは、あの、氏真様。私に軽々しく話すようなことでは」
「良くないから、話してあげているのだろう」
「あぁ、あぁ、うん、はい」
強張った顔のまま、首を振って咎めようとした
義子の発言は
しかし氏真によって軽く一蹴されて終わった。
良くないから、話した。
それは、つまり、
義子が猫を被るのをやめて、本音を喋って
それで不興を買ってもいいような材料をあげる。
だから、もしものときにはこれを使っても良いから、お喋り?
………氏真が、言いたいのはこう言うことで
でも、
義子にはそこまで氏真がする理由が分からない。
考えても分からないから、仕方なく、
義子は氏真に問いただすこととする。
どう考えても、
義子が今・氏真が言ったことを誰かに喋るデメリットに対して
義子が本音をしゃべることでのメリットが釣り合っていなさすぎる。
曖昧にして、ことを終わらせることもできないぐらいに。
あぁ厄介だと思いながら、
義子は話す言葉を選びながら、口を開く。
「あの、氏真様。どうして、そこまでして私に本音を喋らせたがるのです。
私が本音で喋ったところで詮無いことでございましょう」
「うん?あぁ、そこか。なるほど。私はそこを話していなかったのか。
さて、
義子は父上に太原雪斎という人が付いていらっしゃったのを知っているかな」
「は…ぁ。一応知ってはおりますが。
軍事外交面において、今川に大きく貢献された方だと聞いております」
思いもよらないところの話題を出されて一瞬止まったが、
義子は頷く。
太原雪斎の名は、どこらかしこでちらりほらりと聞いていた。
曰く、軍事の天才。
曰く、外交の優れた方。
元は僧侶で、幼少期の今川義元の教育係であったという話だが
今川義元が後継者争いに打ち勝ち、還俗して今川家の後継となると
彼は執政・参謀役として、義元の傍に控えるようになる。
彼は、甲相駿三国同盟を締結や、織田軍に小豆坂での戦いで勝利を収めるなど
今川のために大いなる貢献をし、今川義元と共に、今川の地を大きく育ててきたというが。
それが、何の関係があるのかと思った
義子だが
「うん。父上がここまで今川の力を大きく出来たのは
太原雪斎殿の力によるところが大きい。
彼は軍事や外交で父上を良く支えられた」
氏真の、太原雪斎を語る表情に、はっとして閃く。
「もしや、その役を私にせよとおっしゃっておいでですか、氏真様」
その閃きをそのまま口に出すと、いやいやと氏真は首を振る。
「そこまでは私も望まないよ。太原雪斎殿の才は不世出のものであったからね。
真似をできる人間がいるとは私は思わない。
ただ、ねぇ。父上にとって、雪斎殿は右腕などと言う言葉では
片づけられないものであったのだよ。
例えるならば、左右の車輪が正しいかな」
「どちらが欠けても回らぬということでしょうか」
「然り然り。やはり
義子は頭が良い。
さて、私が何をお前に望んでいるか、その頭の良さで答えてごらん」
微笑みながら試されて、
義子は眉間に皺を寄せて考える。
太原雪斎の話を氏真は出した。
ただ、
義子が言った太原雪斎のまねごとをせよと?という問いには否で答え
けれど左右の車輪に例え、右腕では足りぬというならば。
「相談相手、だとか、対等に近い関係を持って欲しい
ということでしょうか、氏真様」
答えを出すのには、それほどの時間はいらなかった。
それを褒めるように、
義子の頭を撫でて、さて本題だと氏真は言う。
「さて、賢い
義子。お前の望みは何か、私は十二分に分かっているつもりだ。
生きること、それ以外に、お前の望みというのは無いのだよね」
「…突き詰めれば」
頷く。
美味しいものを食べたいとか、柔らかい布団で眠りたいとか
欲を言うなら、そういうのがあるけれど
義子の望みは突き詰めれば生きることだ。
実に動物的な望みを迷わず肯定すると、氏真は嬉しそうに目を細める。
「それがね。良いなと思ったのだよ。
本心から言えば、乗っ取りなどという野心を抱かれても別に良いのだけど
今川を残すという一点で考えれば、内で争っている場合でもないからねぇ。
それを思えば、言い方は悪いがお前のその性格は、私にとって大変に都合が良い」
そういう彼は、相変わらず生きることに対する執着がない。
乗っ取りを良しとするなら、ほぼ確実に氏真の命は無くなるのだけれど。
それでも、そんな彼でも今川は残したいのだなと
発言内容に、へぇと思った
義子だが、そこではっとして目を見開く。
と、なると。
「あの、だから私に一緒に教育を受けるよう仰ったのですか?」
対等に近しい相手とするには、相手方にもそれ相応の知識がいる。
だからなのかと身を乗り出すと、氏真はあっさりとそれを認めた。
「うん。あの時話した理由半分、これ半分。
そこで様子を見ようと思ったのだけど。
お前はしっかりと内容についてきていたから、あぁこれは大丈夫だと思って
この話をさせてもらっているのだよ」
「…………そうですか」
思ったよりか、氏真は考えて動いているのだ。
会ってしばらくはただのくらげであると思っていたのだけど。
これは考えを見なおさなければならない。
そう思って感心する
義子だが、その考えを覆すように
「まぁ、お前が男であったなら、私の代わりに
今川を継いでもらうという選択もあったのだけどね」
「………」
馬鹿なことを氏真が言いだすものだから、思わず
義子は呆れた目をして彼を見た。
せっかく、見直したというのに。
…しかし、頭は悪くないのだと気が付いてしまえば
色々なところが見えてくるもので
色眼鏡で見ていた時とは、また違ったことに気がつく。
例えば、馬鹿なことを言った彼の眼が、面白そうに踊っていることだとか。
例えば、氏真の気配が
義子の反応を探るようなものであることだとか。
………無言で、やはり呆れた目で
義子は氏真を見る。
そうすると、氏真はくすくすという品の良い笑い声を洩らした。
「………
義子、私の申し出を受けるというのなら
私の言に思ったことを言ってごらん」
「申し出を受けたらどうなりますか」
「私がお前の望みをかなえてあげるよ。一人はね、面倒なんだよ色々と。
だから、私がお前の立場、お前の命、全て守ってあげよう」
「受けなければ」
「今まで通り。父上と私の動向をうかがって、懐かぬ猫のように過ごすといい」
申し出を受けた場合と、受けなかった場合。
そのどちらでも、
義子の待遇は今より悪くなることは無い。
この申し出は破格だ。
どちらを選んでも、おそらくは氏真は氏真の言ったことを守ってくれるだろう。
それを直感で分かるからこそ、
義子は迷う。
命を、守りたいのなら。
今までどおりにしていた方が、良いのだと、思う。
そうすればふわふわとした立ち位置で、いつまでも部外者のような顔をしていられる。
けれど、申し出を受けるならば。
それは、完全に今川方になるといううことだ。
ふわふわしては、いられない。
否が応にも戦乱の渦に巻き込まれることになる。
もしかすると、氏真は守ると言ってくれているけれども
どうしようもないことがあって、
義子は死んでしまうかも、しれない。
それは
義子の望みとは反する。
だけど、でも。だけれども。
人は、なぜ働くのでしょう。
答えは色々とあるけれども、その答えの中の一つに
社会集団での存在意義の確認と言うものがある。
そうして、一旦は社会に出て働いていた
義子は
その社会集団での存在意義について、見失わされ飢えていた。
真実、
義子が体に見合った子供の精神を持っていたならば
このような申し出には迷わなくて済んだのかも、しれない。
けれど、
義子はどうしようもないほど大人だった。
誰かに認められたい、必要とされたい、きちんとした仕事がほしい。
誰か、誰でもできる目付のような役ではなくて。
それは、密かに
義子がこちらに来て以来抱いていた願望だ。
そうして、申し出を受ければ、それが叶う。
ごくりと、つばを飲み込んで、どうしようかと迷いながら
それでもと、天秤の片方について
義子は思った。
申し出を受けず、ふわふわとした立ち位置のままで居る。
それでも、今は良いだろう。
十程度の子供、おまけに今川義元の恩人、ふらふらとした立ち位置でも構うまい。
でも五年、十年たてば、どうだ。
いくら恩人でも、二桁も年月を重ねてまで世話をするほどの恩義か?
十年後は良くても、今川義元が死んだ後はどうなる?
二十年後は、三十年後は?
………さて、どうなるだろうか。
ふわふわとした立ち位置を選んだ場合の未来は闇の中。
そして、申し出を受けるのなら、立ち位置を定めて、それが崩れないよう
上手く立ち回れば、一生、うん、そう、一生、食いっぱぐれなくて済むかもしれない。
それに、もし万が一放逐されても、集団の上の方に居たという事実があれば
雇ってくれるような国があるかも、知れない。
…
義子が考えたことはどう言い繕おうが、どうしようもなく打算だ。
汚らしい。
けれど
義子が生きていく上で、打算と汚さは捨てられない。
死なないように生きる、自らの業を受け入れて
その上で
義子は申し出をしてきた、取引相手の名前を呼ぶ。
「…………氏真様」
「うん」
呼びかけに、答える人の顔を見る。
義子は、この人を生きるための綱だと思って、好きだとか嫌いだとか
そういうのはあまり考えないようにしてきたけど。
ただ、
義子がいくら生き汚くて、卑しくて打算的で利己的だったとしても。
嫌いな人の傍で、嫌いな人間のために働き続けることは、少し難しい。
だから、きちんと考えようと思って、
義子は氏真について、改めて考えてみる。
…どうなのかなぁとは、思う。
あまりにこの人はやる気がないし、面倒くさがりだし
生存本能は薄いし、どうしようも、無いのだけど。
うん、まぁ、嫌いじゃあ、無い。
今川氏真を、好きと言いきれるほどでもないけど、少なくとも嫌いでないことを確認してから
それから、
義子は生きる道筋をきっぱりと決めた。
「私が男であったならば、私はこのような立場では引き取られておりません。
分かっておらぬならともかくとして、分かっている戯言を口に出されるのは
私はいかがかと思いますが」
決めた答えは、申し出を受けること。
生きるために申し出は、受けたい。
ただし、嫌いな相手のそばに在るのは苦痛だ。
けれど、氏真は嫌いではない。
なら、
義子は、氏真を嫌いでないから、だからこそ申し出は受ける。
受けることに、決定をする。後悔はいつかするかもしれないが、その時はその時だ。
そのように決めて、思うことを正直に言うと、ぱちぱちと氏真は手を叩いて喜んだ。
「あぁ、うん。辛口辛口。結構結構。そういうのが欲しいのだよね」
「良いのですか、これ」
「うん?良くなければこのようなことは言わぬだろう。
おかしなことを言う子だね」
叩いていた手を止めて言う氏真に、おかしいのはあんたの方だと
義子は思う。
今言ったようなことを言えば、普通はむっとされると思う。
上下関係の厳しいここならなおさらのこと。
そうして、思っただけで済ませていると、すぐに氏真の注意が飛んだ。
「ほらほら。口を噤まない」
それにはっとして、
義子は慌てて
「では申し上げますが、氏真様の言は破天荒が過ぎます。
常人が常識を持って考えれば、そのようなところにはたどり着かぬかと」
「うわぁ、自分で自分を常識人呼ばわりか…。
氏康叔父にしょっぱくなるとまで言われておいて」
「その言葉そっくりお返しいたしますよ。だから読めないと言っておるのです、私は」
あんたこそしょっぱい人格のくせに。
今度はすぐさま言葉を返した。
同じ失敗は、続けて二度はしない。
すると、氏真は言葉を返されたことこそ喜んだが
すぐに表情を改め
義子の顔を覗き込む。
「やっぱり今まで色々無理してきただろう、お前」
そうして言われた言葉はそれで、どうしようかと一瞬迷った
義子だが
誤魔化しの効かない程度にはよろしい氏真の頭の出来を思い出して、仕方なく頷く。
「大分。でもよろしいのですよね」
了解を得ようとするのは、小狡さゆえだ。
しかし、氏真のほうは一枚上手で、その
義子の小狡さを許容するように
鷹揚な笑みを浮かべて、一つ頷いて許す。
「お前の頭の良さは信じているからね。弁えぬ発言はせぬだろう」
「は。肝に銘じておきます」
「うーん、可愛くないよねぇ。お前は」
「ありがとうございます」
「はっはっ。ここでお礼を返すのは変わらぬのか。良い良い」
ひらひらと手を振って、愉しげにしながら氏真は立ち上がる。
その視線の先にあるのは沈みかけた太陽だ。
日が沈む。
また、一日が終わった。
日に日に長くなる日没までの時間に、夏の訪れを知りながら
義子は氏真の動向をうかがう。
暫く待つと、氏真は日を見るのをやめて、
義子へと体ごと向きなおった。
「………さて、
義子。仲良くなった印に私のことは以後兄上と呼びなさい」
「はい。分かりました、兄上」
素直に従うのは、その言葉の意味を知るからだ。
年下の少年を兄と呼ぶのに抵抗が無いわけじゃない。
だが、躊躇いを混じらせず、変化させた呼び名を口に出すと、氏真はにっと口の端を上げて笑う。
それは、
義子が初めてみる氏真の表情であった。
「うん。結構。お前はこの意味分かっていると信じているよ」
「はい」
その表情に、思った人物像とこの人は違う人なのかもしれぬ。
そう思いながら、
義子はしっかりとした返答を返す。
そうして、関係性の変化を呼び名によって、周囲に知らしめつつ
今川兄妹は、戦乱への道を一歩、確かに踏み出した。
永禄四年、夏の近い日の、今川兄妹の転機の出来事であった。
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