「何だ、呼んでもねぇのにいきなり来るんじゃねぇ」
「我は確かに、うぬに名を呼ばれたと思ったのだがな、氏康」
まず、いきなり現れた風魔小太郎に反応したのは、北条氏康だった。
気軽に声をかける氏康に、やはり気軽に返す小太郎。
その返しの中には、相模の獅子に対する敬意は無い。
それを気にした様子もなく、氏康は咥えていたキセルを離してふぅと白い煙を吐いた。
「名前を呼びはしたが、呼んではねぇよ。どうせてめえは謝らんねぇだろうが」
「何を謝る必要がある?なぁ、藁」
「藁?」
「の、の。義子は風魔と何か縁があったのかの」
いきなりの小太郎の藁呼ばわりに首を傾げる氏真。
同じく、縁のなさげな二人の思わぬ交わりに、首を傾げる義元。
それと合わせて、氏康・小太郎の視線も受けた義子
注目される居心地の悪さを感じながら、しどろもどろに口を開く。
「縁と言うか、五か月ほど前に、寝ていたところにいきなりこの人が現れて」
「おや。それで?」
「頭を踏まれてごりごりされました。で、名乗って去って行きました」
消えるみたいに、すぅっとと続けた義子に、氏真がなるほどと頷いた。
「うんなるほど。それにしてもその様子だと
風魔が何かは知らないようだね、義子
「はぁ、申し訳ありませんが。氏康様の関係者の方ですか?」
話の様子からすればそれだと考えつつ聞くと、当りらしく
氏康は不本意そうに肯定する。
「風魔小太郎はうちで雇ってる風魔忍軍の頭領だ。
で、そこの義兄が桶狭間で敗れたっつーから
今川領の様子を探って来いって命令だけを俺はしたのに
このド阿呆はこともあろうに、新しく養女になったお前さんの頭を
踏みつけまくって帰ってきたんだ。
…その報告を聞いた時の俺の身にもなれ、てめえはよ」
余計なことをするな可哀そうに。
そういう意味合いで、小太郎を睨む氏康だが、当の小太郎は愉しげな喉での笑いを洩らすのみだ。
「くく、我は知らぬ。我は我の好きなようにするまでよ」
「てめえ、な」
「大体が、氏康。この藁はうぬがそれほど心配するようなものでもない」
頭をかいて更に続けようとする氏康を遮り、小太郎が肩をすくめる。
それにどういう意味かと氏康は眉を寄せ。
その氏康を見もせず、小太郎は義子へと視線を向けた。
「……えぇと」
……どうしろと。
視線の意味が分からず、義子が戸惑っていると
小太郎はやっと口で説明せねばならぬのかと悟ったようで、おもむろに口を開き
「藁、詳しくあの夜の状況を逐一説明してやるがよい」
「え、えぇと」
「説明なさい、義子。風魔殿はしつこいしねちっこいから。
説明しておいた方が後が楽だよ」
「氏真」
「おや、違ったかな」
優しく義子を促す氏真の言葉に、小太郎が不機嫌そうに表情を変える。
だが、そういう表情を向けられ、おまけに僅かな殺気までついてきても
氏真は飄々と肩をすくめるだけだった。
怯えも恐れも彼には無い。
その様子に、氏康は、「おい」と隣に座る、氏真の父親たる義元の肩を叩く。
「相変わらずてめえのせがれは読めねぇな」
「そうかの、分かりやすいの。あれはただ単に面白がっておるだけだの」
「そりゃ分かるが。あんまりに生存本能が薄いってのも、あれだな」
氏康の戸惑いは、風魔小太郎に対する周囲の態度を知るからこそである。
彼は、あまりに強すぎ、あまりに人間離れをしている。
そのせいで、風魔小太郎を味方とする北条の中でも、風魔小太郎を恐れぬものはまれだ。
完全に恐れないものなど、彼を昔から知る北条氏康と
あとは成田の甲斐姫ぐらいか。
それを、敵になるかも知れぬ今川方であるのに
生存本能が薄く、死を厭わぬというだけで
何事もないように接する氏真はどう考えても異常だ。
死が怖くないにもほどがある。
それが、良いのか悪いのかと思いながら見る氏康を余所に
殺気を発す小太郎と、自身を抱え込みながら促す氏真に押されて
義子は表情をひきつらせながら、仕方なくあの夜のことを思い出し、語る。
「……えぇと、あの夜は、寝ていたらふと気配がしたような気がして。
で、目をあけると、いきなり風魔……殿がいらっしゃって」
「うんうん」
それに、そりゃあ驚くねぇと言う様子で氏真が相槌を打ち
「それで、お化けかなと思ったんですけど、それを風魔殿に言ったなら
どう思うって聞かれたので、お化けじゃないのと、指さしたらいきなり頭を踏まれて」
「の」
義元は、その義子の言葉に、痛みを想像したようで頭を抱えながら声を上げ
「頭は痛いし、布団に顔を押し付けられて息苦しいしだったので
必死に暴れたんですけど効果が無かったので」
「あぁ、そうだろうな」
氏康は小太郎をやや睨みながら腕を組み
「だから、一瞬無抵抗にわざとなって、風魔殿が気を抜いたその瞬間に
一回は逃げ出したんですけど、すぐ回りこまれてしまって
そこでどうやってもう一度逃げるかという算段をしていたら
行き成り風魔殿が名乗って、ふっと消えてしまったので
あぁ、やっぱりお化けだったんだなと思って、もう一回寝ました」
「…………」
「…………」
「…………」
…最後には皆揃って無言で義子の顔を見た。
その表情が雄弁に語るのは「おい、なんでだよ」である。
………え、なんでだよ、こそなんでよ。
どうしてそういう反応をされるのか、さっぱり分からず慌てる義子
だって、逃げなきゃ死ぬじゃない。
で、ふっと消えたら、お化けかなと思うじゃない。
消えたら、ああとりあえず何か終わったんだなと思うじゃない。
で、終わったんなら、眠いから寝る。
当たり前の話なのに。
なのに、何故こんなに意味が分からんというような目で見られているのだ自分は!
自分としては最善を選んだはずなのになぜ!と思う彼女は、やはりどこかずれている。
「ちなみに我は寝入るまでの様子を天井裏にて眺めておった。
氏康、うぬはこれでもこの藁が、謝罪と庇護の必要な、頼りない子供だと思うのか。
言うて見よ」
慌てる義子と、おいおいという表情の一同を視界に収めつつ
それでも言葉を発したのは、事の元凶である風魔小太郎だ。
あの夜の出来事を引き起こした張本人であり、この空気の前ふりをしておきながらのこの態度。
まったくもって厚顔であるが、それを指摘する人間はこの場にはいない。
普段であるならそれをいさめる氏康が、義子をしょっぱい表情で見つめているので。
そうして、氏康はそのしょっぱい表情のまま口を開いて
「………義子
「……えぇと、はい」
「こんだけ人をしょっぱい気持ちにさせられるなら
てめえは立派に今川家でやっていける。達者で暮らせよ」
「………え?」
「え、じゃねぇだろうが。なんで寝るんだそこで。
おまけになんで逃げ出す算段を考えた」
「え、だ、だって、その時には忍びだなんて思わなかったから
お化けで人を踏んでくるということは悪霊かなと思いまして。
で、悪霊だったら逃げないとと思っただけで」
義子、普通の子供は悪霊の隙をついて逃げ出せないし
一瞬無抵抗になるなんていう選択もしないからね。
あと、回りこまれた瞬間に、普通は、諦めるから。
氏康叔父はそういうことを言いたいんだからね」
「え、だって逃げなくても諦めても
その時点で死んじゃうじゃないですか!」
氏真の言った内容に、驚きから大声を出して答える彼女は非常に生き汚い。
普通は、風魔小太郎のような存在に、回りこまれたら大人でも諦めるもんなんだって。
義子以外の四名の心は、言葉は違うながらも一つになった。
が、それを言っても多分彼女は認めないだろうことが読めるので
大人たちは揃いも揃って、大切な言葉を飲み込んだ。
…のが三名。
「そこで分かってないところが、しょっぱいって言われる原因だの。
認めたほうが良いの、の!」
そして残りの一名である義元は、ドストレートに言葉を発したが
横にお前が言うなと思う人間がいたので、彼はその発言の直後に
キセルで後ろ頭をどつかれる羽目となった。
義子もてめえにゃ言われたくないだろうよ。
かみさんの兄貴じゃなかったら、ぼてくり回してぇと
俺が何度思ったことか」
例えば、自分で攻めてきておきながら、では帰るの。妹によろしくの!
と言って本当に帰って行ったときだとか。
しょっぱいだとかそういう気持ちでは済まない理不尽を引き起こす義兄相手に
義弟が良い機会であると怒るが、その義兄はと言えば
…やはり理不尽にも悲しい表情を浮かべて義弟を見ている。
「そんなこと思うておったのかの。麻呂は悲しいの、義弟よ。
義兄弟仲良くやっておると思うておったのだがの」
「何回もそんときそんときに言ってただろうが、このっド阿呆!!
河越の時のはさすがに聞いてただろう」
「知らぬの。麻呂は聞いておらぬの」
「こんの……かみさんの!兄貴じゃなかったら!ぼてくり回してぇっ!!」
「聞こえぬの」
「いい加減に諦めたらどうだ、氏康。うぬがやり込められている姿を見るのは
我は愉快だが」
「うるせぇ風魔!」
怒鳴る氏康、からかう風魔、いつもの笑いで遊ぶ義元。
混沌という言葉が良く似合うそこを見ながら、氏真は微笑ましいものを見る目で微笑んで。
「仲が良いねぇ、あそこは」
「えぇと、はい」
…明らかに間違ったことを言うこの人は、義父に似てやっぱりしょっぱい。
…………義兄と、義父がしょっぱいのは分かるのだけど
私も同類?まじで?
やっぱり自分のどこがしょっぱいのか分からないながらも
氏康に言われた言葉にショックを受ける義子
…どこがしょっぱいのか分からないのが、しょっぱい人間のしょっぱい由縁だと思うのだが。
けれどもしょっぱい義子には、しょっぱいからこそ分からない。

私は、絶対まともだと思うのだけどと、阿呆なことを思う
そんな義子を巻き込んで、時は更に更に進んでいく。

―時は永禄四年。桜ももう散ったころの話である。