さて、此度の戦は今川の勝利で終結した。


武田を今川から追い払った氏真が帰ってくると同時に、
援軍にと駆け付けた北条勢の一部が
今川の居城へと入城することとなった。
何故にかと言えば、甲相駿三国同盟を破った武田への制裁のための話し合いである。
今川の居城へと入城したのは、北条家当主、北条氏康。
その他十数名程度。
氏康については、遠目からちらりと義子も見た。
厳ついひげ面の、かなり渋いおじさまだ。
大名と言っても、タイプは千差万別と言うことか。
なんとなく身近な義元公の発展形で、各大名を想像していた義子
大きく容姿の離れた氏康を見て、あぁそりゃそうだと思ったものだ。
むしろ、各大名が皆、義元の発展形であったら怖すぎる。
なぜ、発展形で考えた、自分。
自主突っ込みをしながら歩いていると
「あぁ、こんなところに居たのか」
ぶらりと氏真が現れる。
今日もふらふらと歩いている氏真を相手に、何かご用でしょうかと首を傾げると
氏真はうん、と首肯した。
「そうそう、ちょっとね。お前に用事があるということでね。
ついてきなさい」
指で猫でも呼ぶように、ちょいちょいと呼ばれるがままに後ろをついてゆくと
やはり頭を掴まれて、強引に横に並ばされる。
無言で相手方の顔を見上げると、ん?とでも言うように逆に見返され
義子は小さくいえ、と顔を横に振って終わらせた。
本当に、気にいられているようだ。
ため息をつきたい気持ちで横を歩いていると、やがて二人は今川義元公の居室の前へと差し掛かる。
すると、ここが目的地であったようで、氏真は歩行速度を落として、緩やかに止まり
義子もそれにならって、居室の前で止まった。
「父上、入ってもよろしいか」
部屋に入る前、ふすまの前に二人正座してから聞くと、是の声が中からする。
義元公に呼ばれるとは、自分は何かをしただろうか。
首をひねりながらも、氏真がふすまを開くのを待って浅礼すると
部屋の中には二人、男が座っていた。
一人は今川義元。
もう一人は、相模の獅子、北条氏康公である。
思いもよらない人物の登場に、ぱちりと目を瞬かせていると
近う寄るのと、義元に手招かれた。
仕方なく近寄って、下座に座ると、氏真もまた義子の横に座する。
何故、この場に呼ばれたのかが分からない。
おかしいな、不思議だなと思いつつも
そうそう考えてばかりもいられない。
まずは挨拶と、無礼にならないよう、深く頭を畳にこすりつけるようにしつつ
義子は義元と氏康に向かい頭を下げた。
「北条氏康様にはお初にお目にかかります。
ご縁ありまして、過分にも今川義元様の養女へと
迎え入れていただきました、義子、と申します」
「あぁ、丁寧な挨拶ありがとよ。
もう知っているようだが、俺が北条氏康だ。
…面を上げな」
「は。寛容なお言葉、ありがとうございます」
その氏康の言葉に、義子はゆっくりと、面を上げる。
………義子としては、完璧だった。
パーフェクトだった。
侍女頭に仕込まれた礼儀作法と、会社での社会人マナーを
十割活かして挨拶をした、そのつもりだったのに。
顔を上げて見た北条氏康の表情は、非常に奇妙なものであった。
あっれ、おかしいな。
義子的には、きちんと挨拶の出来るお嬢さんだぐらい思っていてほしかったのだが。
思惑と違う表情に、あっれと義子が思っていると
氏康は義元のほうに顔を向け、いきなり義元の腹をどつく。
「……おい、ド阿呆、どんだけ仕込んでんだ。あんなちいせぇのに」
どうも、氏康は義元が義子を、必要以上に厳しくしつけていると勘違いしたらしい。
子供は可愛がるもの。
その方針で全ての子供を育ててきた氏康が、義兄を相手に詰め寄ると
そんなことをしていない義元は、慌ててぶるぶると首を振る。
「別に麻呂は強要してはないの。
義子が単に物覚えが良すぎるだけだの」
「氏康公。義子は大変に頭のよい子なのです。なぁ、義子
「もったいないお言葉です」
特に強要はされていないので、どうしようかと思っていた義子
その氏真のとりなしに、一二もなく飛びついて
軽く微笑み頭を下げる。
その子供らしからぬ様子に、氏康は更に微妙な顔をして
どつかれた義元はほら見るがいいの。と言いたげな表情で彼を見た。
そして、とりなした氏真はと言えば。
「うん。今日も安定して子供らしくなくて可愛くないね。
いいと思うよ、お前のそれは」
「………ありがとうございます」
あんたの方こそ、安定して失礼だ。
よほど言い返したい義子だが、まさか氏康・義元の前でそんな命知らずは出来ず。
そうでなくとも言わなかっただろうが
ともかく彼女は表情を変えない努力をしつつ
氏真に向かって再度頭を下げた。


その光景に、どうしたものか。そう思いながら、氏康はキセルを咥える。
…彼からしてみると、あまりに少女が哀れであった。
あれは、明らかに物申したいのに、言えぬから我慢をしている様相だ。
跡取り実子に向かって、養子にされたばかりの娘が反抗出来るわけもない。
小さな子供が、元服を済ませた子供に一方的にやられているというのは
見るからに不憫だが。
…本当にどうするかな。
よその国のことだと迷いつつも、氏康にとって幼い少女の我慢は見るに堪えず。
(実のところ義子の中身は二十を超えているが)
仕方なく氏康は義兄のほうへと顔を寄せ
年端もいかぬ少女と、それを意図的に虐めている氏真を指さす。
「…あぁ、まぁ、義兄よ。てめえがあれを特に強要してないのは分かったが
てめえの実子何とかしてやれよ。可哀そうだろ、あれ」
「氏真は義子を可愛がってるの。あれはあれで良いかと思ってるの」
「ド阿呆。明らかに我慢してんだろ、ありゃあ」
義元の言に呆れた顔を氏康がするが、しかし義元は今度は常通りの暢気な顔をして
「猫を被るのはやめてもいいとは言ったの。ただ、頑なに固辞してるんだの。
草を食んで生きるような子だから自己保身に長けておるの」
「…………草?…待て、草?
……桶狭間で敗走中に入った山で、山抜け案内されて、あのガキに助けられたから
養女にしたって、俺は報告を受けてんだが?」
「その山で、義子が連れに捨てられて、三か月ほど草を食んで生きておったところに
麻呂が逃げのびてきて、山中案内をして貰い助けてもらったの」
氏康の疑問はさもありなん。
飢え死にそうだからと言って、草を食んで生きることを
躊躇わず選択できる子供がどれほどいるのか。
けれど義子はそうだった。
それを義元が説明すると、氏康はあっけにとられた表情をする。
「……草?」
「草だの」
氏康が呆然とした声で問い、それに義元がしっかりと頷き。
そうして、やりとりがしっかりと耳に届いていた
当事者の義子は大変にいたたまれない気分になった。
そこまでこの渋いおじさまがびっくりするようなことをしたのか、自分は。
ただ、そうしないと義子は確実に死んでいた。
死んでいたからには仕方がないじゃないの。
うぞうぞと落ち着かない気分で座り悪く居ると
呆然から覚めた氏康と目があう。
彼のその瞳は、今のは本当か、と問うていて、仕方なく義子はそれを肯定した。
「………確かに草を食んで生き伸びておりましたけど」
こくんっと頷きながら小さな声でその通りだと言うと
氏康は何か思案するような顔つきをしながら、義子を手招く。
それに大人しく従うと、いきなり太い腕が動いた。
「わっ」
そしてそのまま頭を乱暴に撫でられて、思わず義子は声を上げる。
たまに氏真が撫でてくるのとは違って、乱暴に頭が揺り動かされるようなやり方に
がっくんがくん義子の頭が揺れた。
それを我慢していると、唐突に頭の揺れは止む。
ぱちぱちと、鳥の巣のようになった頭を押さえながら、氏康を見上げると
彼は優しい目をして義子を見下ろしていた。
…褒められた?
その目つきに、生きていることそれ自体を褒められたのだと気がついて
義子は面映ゆい気分で、髪の毛を触る。
そういう義子の様子を見て、氏康は目を細めて、もう一度義子の頭をぽんぽんと叩いた。
そうしながら氏康は、義元へと再び視線を動かし
「で、てめえのところの生存本能が薄いド阿呆のために
このガキを養女にしたってのか?」
魂胆がすぐ読めらぁ。
そういう氏康は鋭い。
「そうだの。でも義子は蹴鞠も上手であるし、娘も全員嫁に行ってしまって
寂しいところであったから、麻呂は別にもうどうでもよいと思うておるの」
「………一番に出てくる理由が蹴鞠かよ。本当ド阿呆だな」
それでも、それを向ける相手が今川義元であっては、その鋭さも無意味、であった。
今川義元にはマイペースと言う言葉が良く似合う。
いつも通り調子を狂わされ、眉間にしわを寄せる氏康に、抗議の声を上げる人間が一人。
「というか、私のことをさりげなくド阿呆呼ばわりしないでほしいのですが」
「ド阿呆だろ。二日も三日も飯食うのを忘れてたなんて
くっだらねぇ理由で倒れたことのある人間に
ド阿呆よばわりされたくねぇだなんざ、聞きたくもねぇや」
「酷いなぁ、叔父上は。本当のことだから反論もできぬではありませんか」
散々っぱらな言われようをしているのに、肩をすくめるだけで
怒りもしない氏真は、本当に面倒くさがり屋だ。
心が広いんじゃなくて、感情を動かすのが面倒なのよね、この人は多分。
おおよそ半年、傍で見てきた分の経験則で義子は思う。
ついでに、ド阿呆呼ばわりをされて怒らない義元のほうはと言えば
こちらは本当に多分、心が広いのだ。
………何なんだろうな、この親子。
武士と言えば、もう少し短気なイメージであったと思っている義子
やはり二人の怒らない様子を見て、呆れた表情をしている氏康が振り返る。
「………てめえも、こんぐらい言ってやっても怒りゃしねぇぞ、こいつら」
「あ、はい」
「おう。てめえは良い子だ」
二人を指さし言う氏康に、反射的に頷くと
かいぐりかいぐりされて、義子はなんだか本当に子供になった気分で、えへへと笑う。
そういう気分になるのは、北条氏康が全力で義子を子供扱いするからで
そして、彼にはそれを何故か許せるような空気があった。
これも人徳の一部かな。
思いながら、されるがままになっていると、唐突に体が傾ぐ。
おぉっとと思って、バランスを慌ててとっていると
頭が何かにぶつかった感触がした。
上を見る。
そこには氏真の面白くなさそうな整った顔があって
彼の腕の中に引っ張り込まれたのだと知りながら、ははぁと義子は思った。
どうにも彼は、お気に入りの玩具を取られて面白くなかったらしい。
その光景に、なんだ、好かれてんじゃねぇかと言う氏康。
そんな彼に、嫌われてるわけじゃないんですよ。ちょっと面倒な人だけど。と心の中だけで返して
大人しく氏真の体の中に収まっていると
彼はようやく表情をいつものものに戻した。
どうやら義子が大人しく腕の中に収まっているので、機嫌は直ったらしい。
「して、義子が見たくて呼ばれたのです?叔父上」
自らの腕の中に収めた義子の乱れた髪の毛を、優しい手つきで直しながら氏真が問うと
氏康は、あぁ、と言いながらぽんと己が手を打つ。
「あぁ、いいや違う。忘れてたぜ。義子
「はい、なんでしょうか」
「この間は、うちの風魔が迷惑かけたな
それを謝罪しようと思って俺はてめえを呼んだんだ」
「………ふう、ま?」
義子は、誰だそれはと思いかけたが、唐突に五か月前のあれを思い出す。
夜、現れた白塗りのお化け。あれの名乗った名が確か風魔小太郎のはずだったが。
え、あれ。なんでこの人の口からあのお化けのことが出てくるのだろうか。
ぱちくりと目を瞬かせながら、えぇと、と気の抜けた声を義子が漏らした瞬間。
ごぅっと、風が舞った。
目をあけて居られぬほどの風だ。
部屋の扉はすべて閉まっていたはずだと言うに、どこからこのような風が?
不可思議な現象に耐えながら、風が収まるのを義子は待つ。
そうして、風魔!と氏康が呼ぶ声に呼応するように風は収まり。
目をあけた義子が見たものは、闇の凝りの中から現れる
あの夜のお化け、風魔小太郎の姿であった。