義子の世界での正史では、今川義元は桶狭間の戦いにて死亡する。
するといかなることが起きたかといえば、甲相駿三国同盟の破棄であった。
此度、
義子が飛ばされた世界と同じように、駿河を取る好機と見た武田信玄が
徳川家康と密約を結び、大手川から見て、土地を東西に分け
東を武田が、西を徳川がとることとして、駿河侵攻を行ったのである。
そして、その今川武田との間で戦端が開かれたのは薩た峠(さったとうげ)。
ただし、今川義元亡き後の氏真の力量に疑問を抱いた武将たちは
武田信玄の謀略によって寝返り、逃亡をおこし、今川は退却を続けさせられ。
武田軍は、僅か一週間にて駿府へと到っている。
奇しくも、
義子が飛ばされた世界でも、戦端が開かれようとしているのは
薩た峠(さったとうげ)であった。
ただし、
義子の居た世界での正史と違うところがいくつか。
まず、今川義元は桶狭間の戦いで討ち死んでおらぬこと。
次に、今川氏真の力量を疑う者はいるが、義元が存命であることから
武田信玄からの内通の誘いに乗るものがおらぬこと。
最後に、武田は徳川と盟約を結んでおらず、西から攻め立てられる心配がないこと、である。
これに関しては、雪斎亡き後の今川軍を、武田が舐めてかかっていたことと
織田に敗れた直後の今川を攻めるということで、まだ体勢が立て直っておらぬだろうと
信玄が睨んだことが大きい。
だがしかし、武田信玄にとって誤算であったのが
氏真率いる今川軍の士気が、割に高い点だ。
織田で負けた雪辱を晴らしてもおらぬのに、まさか重ねてなるものかと
燃える家臣団を前に、氏真は清見寺にて布陣。
薩た峠、薩た峠の北に位置する八幡平にも陣をひかせ
あとは戦端が開かれるのを待つばかりとなった。
その清見寺での陣の中、今川氏真はといえば、いつも通りの様子である。
「さて、父上から氏康叔父に協力要請はしていただいているから
後は挟撃できるような形に持っていくのみだねぇ。あぁ、面倒くさい」
「面倒と言わないで下され、氏康様。士気が落ちます」
「私が面倒だと言わない方が、異常事態だと兵たちは思うものだよ。
あと面倒だぐらい好きに言わせなさい、泰朝」
忠言をする朝比奈泰朝を返す言葉で黙らせて、氏真は顎の下に手を置いて
ふぅむと曖昧な言葉を発した。
「武田の信玄公は、随分と我らを見くびっておいでだ。
斥候の話を信じるならば、本陣には信玄公、真田幸村の姿は無かった。
そういうことだったね」
「えぇ、はい。太原雪斎亡き後の今川恐れるものではない。
そういう意味合いであるのか、それとも彼の者が得意とする策で
後に現れるのか、であるのかは分かりませんが」
「恐らく後者は無いだろう。
前者だよ。恐れるものではないということと
上杉やら織田やらに備えてのこと。それが理由だろうね。
我らはこれを追い払えればそれでよいが
あれらはそうではないのだから。
駿河を侵攻しようとして、その隙に攻められ甲斐が落ちたのでは笑えない。
信玄公も、真田幸村も未だ甲斐に居るのではないのかな」
「………つまり、武田は我らよりも、上杉・織田の方が怖いと」
長い沈黙の末、朝比奈泰朝が絞り出した声は震えていた。
…まぁ、そうだろうなぁと感情の動きを推測しつつも、氏真は平然とそれに頷く。
「彼らの認識ではそうだろう。
この間の戦いで、武田信玄公の頭の中の順位が変わってしまったから
こうなっているのだよ、泰朝。
今川など真田幸村や、自身が出張らずとも良い程度だと」
そう、ゆったりと微笑んで言ってやると、朝比奈泰朝は武田からの侮辱に顔を真っ赤にさせた。
素直に感情に任せ、朝比奈泰朝は怒り狂っている。
相変わらず素直な男だ。
氏真はそう思って、周りを見回す。
すると、誰もかれも、氏真の言が聞こえていたものは、少なからず怒りに身を支配されているようであった。
当然である。
今川は、舐められている。
頭も、その頭に直々に見込まれた将も寄こさぬ程度に、完膚なきまでに舐められた。
その事実を直々に突き付けられて、怒らぬ武士がいるものか。
…ここの陣の大将たる、今川氏真を除いて、の話だが。
…私はどうでもよいのだけれど。良いではないか、矜持など。
面倒くさいなぁ、武士というのは。
氏真は相も変わらずのやる気のない考えをして、それでも、これを利用せぬ手は無いと
清見寺の陣の中央にて声を張り上げる。
「聞け!今の話は聞こえておったであろう。今言うた通り、我らは舐められておる。
諸国に、先の敗戦によって、太原雪斎亡き今川恐れるに足らず、と。
特に、武田は思うておる。だからこそこうして彼奴らは攻めてきおった。
それをむざむざ許してなるものか。
もしも恐れるに足らずと、そう思える者があるとすれば、未だ雪辱を晴らしておらぬ、我らが負けた織田方のみ。
武田がそうつけ上がるなど五百年は早いと
愚かにも侵攻して来よった彼奴らにそう教えてやれぃ!!」
一拍、二拍。
置いて返ってきたのは、気合の入った同意の叫びであった。
誰も彼もが、武田許すまじとの声を張り上げ、戦前の士気を存分に高めている。
それを満足気に見渡して、それから氏真は横で
ぽかんとしている朝比奈泰朝の肩を叩き、正気づかせて顔を寄せる。
「泰朝、今の言を斥候に言付けさせ、薩た峠、八幡平にも伝えさせよ。
今のは見ておっただろう。伝えれば、少なからず士気は高まるぞ」
その言に急ぎ頷いて、泰朝は興奮した顔で氏真を見た。
目はきらきらと輝き、いつもの小言を言う顔とはまるで別人のようだ。
おぉ、気持ち悪い。
実に失礼なことを思いつつ、身をひく氏真の肩を捕まえて
泰朝はもうしっかりと、二度も三度も大きく首を振り、感嘆のため息をつく。
「…了解いたしました。素晴らしい士気の上げようでしたな、氏真様。
いつもあのようにしていらっしゃればよろしいのに」
「無理だ。面倒くさい。興味がない。だるい。けれども、あれだ。
私の私による将兵の扇動は終わったのだから
後はお前たちの仕事だね、泰朝」
「…どういう意味です」
一気に半眼になった男に、氏真はおぉ怖いと笑いつつ、辺りを見回し
傍耳を立てているものがいないことを確かめ
「実のところ、私は本当に戦が弱いのだよ。特に兵法はからきしだ。人に興味がないからね。
彼を知り己を知れば百戦危うからずは、まず無理。
興味がなくて、相手の考えを知る気もなく、読めもせぬのだから
まぁ、戦場では個人の武、もしくは人の鼓舞程度でしか役に立てぬと思ってくれ」
「そんなきっぱりと。駄目すぎることを言わないでいただきたい」
「そうは言ってもねぇ。事実だし。
大体、私に足りぬものを補うために、お前たちが居るのだろう。
士気は高めた。後の事は、お前たちに任せるよ。
お前たちならば今川に勝利をもたらせると信じているから」
泣きそうな声でいう朝比奈泰朝。
大将がこうも頼りなければ、そうなるだろう。その気持ちは分かる分かると思う氏真。
泣きそうにさせている当の本人にこう思われては本当に、朝比奈泰朝は立つ瀬がない。
が、氏真も鬼でない。
その心を彼に話すこともなく、さらりととりなしの言葉を入れて
氏真は朝比奈泰朝に向かい、目を細めて、殊更優しく微笑んだ。
「期待しているよ、泰朝。お前にも、誰にもね」
「…大将にそう信頼のこもった言葉を頂いてしまっては、私も、皆も頑張るしかありませんな…」
「そう、頑張ってくれたまえ。私が働かなくていいように」
額をかく朝比奈泰朝。
その肩を叩いて、氏真は空を見上げた。
「………良い、戦日和とでも言えば良いのかな。
面白くもなく面倒くさい」
季節柄の晴天を皮肉気な顔で見て、それから、ふと義妹になった少女の顔を思い出す。
あの子は今頃何をやっているのかな。
こすからい生き方をしている彼女を見るのは、餌だけ奪って逃げていく猫を見ているようで面白い。
帰ったら、構えるとよいのだけれど。
それに本音を喋ってくれるようになると良い。
あの子には、氏真が個人的に期待している事もあるのだから。
一瞬だけ関係のないことを考えた心を切り捨てて、氏真は戦場に意識を戻す。
生き延びることに興味は無いが、武田に今川の領地を欠片たりとて渡す気にはなれないので。
…ああいう人というのは、嫌いなのだよね。
王道を唱える武田信玄のあり方を思い出し、それから氏真は刀に手を掛けた。
…戦が始まるまでは、あと少し。
これより少し後、戦端は開かれた。
武田は最初のほうこそは猛攻を仕掛けてきていたが
今川勢の士気の高さと、北条到着の報から、ろくろく戦えもせず、撤退をしていった。
その後の追撃で、武田が奪った城を使い、籠城戦が起こったことから、半月ほどの時間を取られたものの
結果から言えば太原雪斎無くとも今川強し。
それをまざまざと周辺諸国へと、今川勢は見せつけたのである。
そうして、それは織田信長の非凡さを世に知らしめることでもあった。
……雪斎無くとも強き今川を、寡兵に手散らした織田。
そして、織田はこれよりその強さで、美濃攻めを行ってゆく。
―現在永禄四年。春半ば。
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