永禄四年、新年を迎えると、駿河・甲斐間の間で緊張が高まり始めた。
昨年の年も終わるころ、武田家嫡男の武田義信が廃嫡されたのである。
同時に嶺松院は今川家に返還。
まさに電光石火の勢いで、武田は今川との同盟を切り捨て始めた。
それは、今川を潰すは今が好機と、武田が見た証に他ならない。
両国の関係は悪化の一途をたどり、ここに、甲駿同盟の手切れが成った。
で、あるからには起こるのは戦ただ一つ。
新年を迎えてから三月半。
ここに事態はますますの逼迫を見せ、駿河は甲斐からの侵攻を受けることとなったのである。
「………まぁ、仕方がないねぇ。
武田の信玄公は、真面目に、世に王道を敷きたいようであるからして」
甲斐、武田との戦の前準備に大わらわの城内。
その中で
義子に与えられた部屋にて発言したのは、義兄氏真である。
戦前の軍議も既に済み、出立前の武将たちは戦前の僅かな時間を過ごしている。
その中で、
義子の部屋に来るこの義兄も義兄だがしかし。
「ここで、こうしていてもよろしいのですか、氏真様」
「よいよい。私がここでやれる仕事は既に済んでいるよ。
後は采配を現地で行うだけだ」
ひらひらと手を振る氏真。
そんな彼も、今日、戦に出立する。
戦、と口の中で
義子は呟く。
馴染みの無い言葉、場面。
現代に居たころには、もしも第三次世界大戦が起こったら。
というシチュエーションで、生き残るためのシミュレートをやったこともあるけれど。
やはり、馴染みが無いことには変わりない。
どういうことを言うべきだろうか。
頭の中を検索して、見つけた言葉に首を傾げる。
「ご武運を、というにはまだ少し早いでしょうか」
場面にそぐわないか、と思って聞くと案の定義兄は首を縦に振った。
「うん。まぁ、出立する時の見送りで言ってくれたまえよ。
そうすれば、面倒だけど、何とかやってくるから」
「…こんなときでも面倒ですか」
「面倒だろう。面倒なお人との戦は面倒だよ」
付け加えなくていい氏真の言葉に、呆れ顔で物申すと
彼は軽く肩をすくめ、やれやれといった表情を作る。
いつでも氏真は面倒だとは言うが、その表情の中に珍しく苛立ちが見てとれて
義子はおや、と思った。
怒ることすら面倒だ、と言うのが、今川氏真であるというのに。
「嫌いなのですか、甲斐の信玄公」
「好きではないねぇ。今川領に侵攻してくるものは皆嫌いだよ。
それが世の中に王道を敷くための、天下統一という理由ならば尚更ね」
さらりと言った言葉は、今川氏真には似つかわしく無く
それだから
義子は言葉も無くぽかりと口を開けた。
侵攻してくるものは、皆嫌い。
面倒だから、という言葉があればまた反応も違ったが
義子はてっきり、氏真は今川の家臣・領土に執着など無いと思っていたから驚く。
そして、氏真はその
義子の驚きの理由をきっちりと見抜いたようで
「おやなんだい、その顔は。
私はね、自分ごとに執着が無いだけで、今川の家臣たちやら何やらを
好いていないわけでもないのだよ?」
「そのようですね、失礼を言いました」
深々と頭を下げる。
その頭を下げる深さは、見くびり過ぎていたという
義子の謝罪の気持ちの表れだが
氏真は鷹揚に笑ってそれを許した。
「言っては無いだろう。怒るつもりはないから安心なさい。
しかし、あれだ。
義子はまた随分と猫を被っている気がするねぇ」
「………………そういうわけでも」
妙に鋭いことを言う氏真に、
義子は否定をしようとする。
猫はかぶっている確かに。
しかし、
義子が被っている猫を脱いで出てくるのは
命綱たる今川親子への容赦ない突っ込みなので、脱ぐ気は無いのだ。
それども、そんな
義子に追撃を掛けるように部屋に現れる者がある。
「あると思うの」
「父上」
「義元様」
部屋のふすまを音も無く開け、入ってきたのは今川義元公その人であった。
さすがに氏真と二人驚いていると、義元は氏真の横に腰かけ
いつものように朗らかな笑みで言う。
「麻呂は
義子は猫を被っておると思うの。
人を山ほど見てきた麻呂が言うのだから間違いない、の」
「いえ…あの……」
「ほら、父上もこう言っておられる」
どう言えばこの場を切り抜けられるのかもわからぬまま
もごもごと言葉を口の中で発す
義子に、父の同意を得た氏真が明るく言うた。
義子はそんな彼の様子に苛立ちを覚えて、隠しながらも米神をひくつかせる。
…猫を被っているのを脱いで、出てくる言葉は
明らかな非礼になるから言いたくは無いのだ!馬鹿者!!
言えれば、随分と楽になる言葉だが、これこそ非礼だ。
生きるためにはおべっかが使いたいし、そのために本音を
封印しているというのに、この人たちは。
止めてほしい。
困って眉をはの字に寄せると、眉間に皺をよせないのと
氏真に眉間を押される。
そうすると、義元も義元で面白そうに、よせないの!と言いながら
ずびしっと
義子の眉間を押す。
「わっ」
すると、
義子はその勢いでうっかりと後ろに倒れ込んだ。
どさりと音を立てて畳に倒れた
義子に、氏真と義元は二人して顔を見合わせた後
愉しげにふっふっと笑う。
「娘がおる生活は華やかになってやはり良いの。
嶺松院は出家してしもうたから寂しいの」
「そうですねぇ。
義子面白いでしょう、父上。
餌は貰うけどなつかない猫みたいで」
「そうだの。面白いの。もう少し麻呂も構うことにするの!」
自分たちのせいで、倒れ込んだ人間を起しもせず
談笑する二人。
その二人の和やかな様子に、とても戦前とは思えないなと思いつつ
義子は仕方なく自力で身を起した。
すると、
「えい」
「の!」
「ぶっ」
今度は額を押されて、またも
義子は無様に倒れこむ。
「………なにするんですか、あなた方」
「いや、ちょっと面白かったから、ついね。手が」
「右に同じだの」
顔面をうつ寸前、とっさについた手で体を支えながら
低く問うた
義子に二人が返す声は揃って明るい。
…どうしよう、心底うざいよこの人ら…。
許されるなら、まじでうざい、と畳に拳をうちつけたい
義子。
けれど、命綱的にそれも出来ず、彼女はただぷるぷると怒りに打ち震えるのみであった。
「…
義子、だから猫被ってるのではないの?と私が聞いたのに
強情張るから何も言えないのだよ」
「…………被ってません。何も言いたいことは有りません。全然ないです」
「…強情だの、驚くほどに強情だの。これだから草を食んで生きてられるんじゃの」
そうして、やがてそのような和やかな時は終わり、氏真はやがて戦場へと出立をする。
その氏真と、彼に従う家臣団一同を見送って、
義子は空を見上げた。
春の空は青く高く。
嵐など来ないように澄み切っていた。
永禄四年、
義子が猫を被るのを止めるにも、武田を駿河から追い返すにも
ここから、半月弱の時を要する。
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