永禄3年、冬の最中。
今川氏真はやる気がない。
今や
義子もよーく知る、周知の事実だが、彼は彼で国の後継であるので
後継として、受けるべき勉学の時間というものが存在する。
が、しかし。
もう一度繰り返すが、今川氏真にはやる気がなく
その彼が、大人しく勉学に励むはずもない。
何せ彼には、国の後継としてのやる気と、熱意と、根性と。
精神論、と呼ばれるものに必要な全てが抜け落ち、欠けていた。
「……………で、あるからには、ですね、
義子姫」
「えぇ、皆まで言わずとも、分かっております」
そうして、氏真のためにと今川義元公に迎え入れられた
義子が
勉学に励まない、つまりは授業を自主的休暇にする氏真を
引っ張って来いと、教師勢に頼まれるのは、自明の理であった。
ここからも見て分かるように、
義子の扱いは、今川の養女・姫というよりか
氏真のお付きのようなものだ。
どうせこの扱いであるなら、養女にわざわざ迎え入れなくても良かったのでは。
そう
義子は思うのだが、今川義元公曰く、そうもいかないらしい。
『適当に無礼を働いても良い身分を与えただけだの。
これがただの使用人ではそうはいかぬの、の』
ところでまろと蹴鞠をせぬかの?
続いた言葉は切り捨てて、
義子はそういうものかと義元公から聞いた時には納得をした。
武士・公家・農民。
身分というのは、もとは現代に生きていた
義子にとっては馴染みのないものだが
ここで暮らす以上は、強く意識をしておいた方が良いのだろう。
周りを見て、出過ぎないようにしなければ。
そう心に決めつつ、ふらふらと何処かをさまよっている氏真を探していると
彼が庭先でしゃがみこんでいるのが目に入った。
「氏真様!」
「ん、
義子か。大きな声を出さないでくれないか。驚く」
振り向いた氏真の顔は、今日も相変わらず暢気だ。
「………今日は、和歌の詠み方の習いだったはずですが
このようなところで何をしてらっしゃるのですか?」
「あぁ、それな。そうか。今日はそう言えば和歌だったか」
和歌・武芸ごとは、兵法などに比べれば、比較的出席率が高い習いごとだ。
今日はどうしてさぼったかな。
顎に手を当て、そうか今日は和歌だったかと、授業内容すら頭から飛ばしていたらしい氏真が
呟くのを聞きながら彼の言い訳を待っていると
「にゃぁ」
小さな、か細い猫の鳴き声が、氏真の後ろからした。
ぱちりと、それに
義子が目を瞬かせる。
猫?
氏真の後ろを体を横にずらして覗きこめば、なるほど
白と黒の三毛の子猫が、ごろごろと土の上に寝そべっている。
「…今日のさぼりは猫が原因ですか」
「可愛いだろう、私は猫は割と好きでね」
猫にかまけて授業をすっとばかしたのかと、半眼で言う自分に
悪びれずにふふっと微笑む氏真は、大層厚顔だと
義子は思う。
この状況下でそれが言えるか。
それとも立場が下であるがゆえに、
義子がそう強くは物を言えないのを知ってのことか。
しかし、
義子の後者の疑念はすぐに霧散することになった。
「さて、うん。でも
義子が呼びに来たということは
私を連れて来いと命令されてのことだね?」
「はぁ、いつも通りです」
「では、仕方がないから行ってあげようか。
小さな生き物に苦労をかけるのは忍びない」
氏真が言葉と共に立ち上がる。
かと思うと、ぽんっと頭に手が置かれて、優しい手つきで撫でられた。
先ほどの猫といい何といい、今川氏真は小さな生き物が好きな性質であるらしい。
…子供が好きであるなら、体が縮んでいて良かった。
氏真に好かれるのなら、生活がやりやすくなる。
自分の身が縮んでいることに深く感謝しながら
義子は
そうしていただけると助かりますと、小さく頷いた。
「まぁ兵法ならどこまでもさぼることも考えるのだけど
和歌ではねぇ。私も好きな部類であることだし」
「兵法も、おさぼりにならないで頂けると助かります」
「
義子は小さいのに口うるさい。立派な姑になれるよ」
「今のところ予定がございませんので」
つつがなくかわす技術は、現代に居た頃、会社勤めをしていたときに学んだものだ。
かわす態度は全く子供らしくないが、知るものか。
氏真が可愛くない…としょんぼりして呟くのも知らない知らない。
この人がまともであるなら、自分の気苦労も減るのだけど。
あっちにこっちにと毎日、くらげのごとく彷徨う氏真に
振りまわされている
義子的には、少しぐらい態度が可愛くないのは許していただきたい。
勉強が行われる氏真の私室へと向かいながら、氏真が前に。
義子が少し後ろをついて行く格好で歩いていると、ふと氏真が
義子の方を振り返る。
「ところでだね、
義子」
「なんでしょう、氏真様」
「お前は何故、横に来ないのかな」
ちょいちょいと、指で横を示されるが。
無言で
義子は立ち止り、氏真を見つめた。
「…………何故です」
問うたのはそのようなことを言われるとは思わなかったからだ。
少し後ろは、使用人の位置。
それを崩せといわれるなどと、
義子は考えてもみなかった。
しかし一方の氏真はといえば、ただ柔らかく微笑むのみ。
「なぜ、と言われてもね。並んでも許されるからだよ。
お前は私の義妹だろうに」
「後ろで結構です」
「嫌だなぁ。私が。小さな生き物を見たいのだよ。
後ろに居られては見えないじゃないか。
それとも、猫を私から奪っておいて、自分も逃げるつもりかい?」
人間の生存本能に基づく三大欲は限りなく薄いくせに
そういうことには、氏真は積極的であるらしい。
その欲求は食欲と睡眠欲と、それから生存本能に回してくれないだろうか。
思いつつも、
義子は後ろに下がったままでいる。
この位置を崩すつもりは、命令でもされなければ、無い。
そして、今のは命令で無くお願いだ。
周囲の扱いがお付きに対するものなのだから、
義子の行動はそれに準ずるべきだ。
それが自己保身につながると、知っているから
義子は横には並ばない。
誘ったまま待つ氏真と、動かない
義子。
そのままきっかり三十秒。
待っていた氏真は、てこでも動かない
義子にため息を零した。
そして、零したため息を拾うように息を吸った氏真の言葉は、
義子に優しい。
「もう少しね、お前。我儘を言っても、父上は許すと思うよ。
なにせお前は父上の、いや今川の恩人だ」
「ただの、性分ですよ、性分。あとは言う我儘が思いつきません」
確かに
義子は今川義元の命の恩人である。
それは認める。
桶狭間で敗れた義元を生かしたのは、
義子の山抜けの案内のおかげと言っても過言ではない。
が、しかし。それとこれとは話が別だ。
義子は将来ここから放りだされたりしない為に、
少しでも今川義元、ひいては今川家臣団の心証を良くしておきたい。
そのためには我儘などもってのほかだ。
家臣団の中には、明らかに拾われたぽっと出の
義子を気にいらぬという顔で見る者もいるというに。
大体、我儘といっても何を言えというのだ。
綺麗な着物は興味がない。
綺麗な装飾品は、多分もらった傍から興味がないから無くすだろう。
だから、我儘は言わないのでなく、言えないのだ。
言うような我儘が、本当に
義子には無い。
「十分に良くしていただいてますから、要求するようなことが何もないのです。
ご飯と、寝床は過分すぎるものをいただいておりますので」
「ご飯と寝床で良いのかい、
義子は」
「それ以外には、あまり興味が」
答えは本当。
ご飯と寝床があれば、それ以外はどうでもいい。
現代に居たころには、テレビやあれやこれやの娯楽品があふれていたけど
ここにはそれが無い。
現代になじむ
義子からすると、興味を持つものの選択肢の幅が、この時代は異様に狭かった。
帰れないのが分かっているから、帰りたい、などとは思わないけれども。
そういえばあの漫画どうなったかなぁと、どうしようもないことを考えていると
氏真はそんな
義子をみてふぅむと唸り声を上げる。
しかしその間に
義子の頭を掴んで、自分の横に持ってくるのだから
この人ときたら。
実際、かなり強引な氏真に、無理やり横に並ばされ、今度は
義子がため息をこぼす。
しかも、氏真は更に、横に並ばせた
義子の手をぎゅっと握ってくるのだからまた、もう。
冬の気温にさらされた手同士が触れ合うと、ひんやりと冷たい。
その温度を感じながら、
義子は振りほどくこともできず
歩みを再開した氏真に、ただついて歩く。
「…氏真様は、小さな生き物がお好きですね」
「まぁね。だから、父上がお前をつれてきたときも、すぐに受け入れたのだろう。
私は最初から歓迎的であったろう?」
「はい。それは」
義子を養女にするといった時の、今川の様子は大抵が否定的なものであった。
当然だろう。
海の物とも山の物ともつかぬ子供を拾ってきて、よりによって今川の娘に迎え入れるなど。
命の恩人にしても過分が過ぎる。
けれど、否定的な人間がすべてといっていい中
養女にするといった張本人である今川義元、そして、その息子の氏真だけは
義子に対して、肯定的であった。
それがまさか、小さな生き物可愛い!からくるものだとは
その時は及びもつかなかったが。
「………その小さいものに対する欲求、生存本能とかに回してくだされば助かりますのに」
「言うね、
義子。でも諦めなさい。私にそれは望まないでもらいたい」
ざっくりと切り捨てられた、
義子の小さな声での要望は
さほど難しいものでは無いはずなのだけど。
この人もよくよく理解できない。
そう、
義子は思う。
義子にとって、生きる、死なないというのは根本にあることで
今もこうして、自己保身を図りながら、必死に生きようとしている。
けれども目の前のこの人は、本当に、それがどうでもよくて。
どうしたらこういう風に育つのだろうか。
ぼんやりと、氏真の整った容貌を見上げると、氏真はその視線に気がついたようで
にこりと目を細めた。
「それにしても、
義子。お前は生きることには貪欲だが
それ以外に興味がなさすぎる。
丁度、私の真逆、であるね」
「そうですね。氏真様は、生きる以外のことには興味をお持ちですから」
今川氏真は、和歌などの芸術に優れ、武芸もただのたしなみとしてならば達人級。
内政に関しても、それなりに学ぶのは、学んでいる。
彼が興味がないのは、戦場で総大将として生き延びるための兵法だとか
生きるために食べることだとか、生きるための睡眠だとか。
前々から分かっていたことだが、本当に
義子の対極に位置するその人は、にこり。
またほんのりと笑い、たどり着いた自分の私室の前で
氏真は繋いでいた手を離して、
義子へと向き直った。
「さて、ついたね、
義子」
「はい、ではいってらっしゃいませ、氏真様」
「うん。行くけれど、その前に
義子。
お前は随分と頭が良い。これは普段の言動を見て私が強く思うところである」
「は…ぁ。ありがとうございます」
突然に始まったお褒めの言葉に、不審さを抱く
義子だが
それでもなんとか頭を下げる。
氏真は
義子の態度に、二・三頷いて、それだから、と、彼女の肩を、軽く叩いた。
それにいやーな予感がして、
義子が彼を見上げると、氏真は大変に良い笑顔で
「で、あるから。
義子、講義を一緒に受けよう」
「……何故?!な、な、何故ですか、氏真様!」
「だって、退屈じゃないか、部屋に他人と二人向かいあって、あれこれ教えられるのは。
面倒くさいし鬱陶しい。
私は常々思っていたのだよ、講義を受けるのは仕方ないとして
苦難を分かち合う人間が欲しいな、と。
そこに現れた小さな妹、しかも頭が良い。可愛い。
一緒に居てもらえれば、私が。面白い。
ならば、一緒に講義を受けてもらえば、少しは退屈じゃなくなるかなぁと思うのは
当然の結論ではないの、お前」
「な、ちょ、え、ま、い、う、しょ」
な……なんですって。
ちょ…ちょっと
え……え、そんなこと行き成り
ま……待って
い……意味が分からない!
う……氏真様
しょ…正気ですかあんた!!
以上が、言語崩壊した
義子が喋りたかった言葉の一覧である。
ようするに、何考えてんだあんた!!と叫べればそれで良かったのであるが
それを行うには、
義子は残念にも賢し過ぎ、言葉を探しているうちに
あれよあれよと氏真に引っ張り込まれ。
可哀そうに、
義子は氏真の言った通りに、その日から彼とともに講義を受けることになってしまったのだった。
せめてもの救いは、出席率が上向いた氏真への礼を
教師陣一同に言われたことぐらいだろうか。
全然っ全くっそんなの救いにもなりゃしないっ!と
義子が心の中で強ーく思ったのは
義子だけの秘密だ。
彼女は自己保身を強く望む子であるので。
今日は、武芸の稽古であった。
座って行う講義だけに付き合わされるのかと思ったら、武芸ごとにまで付き合わされるとは
本当に、なにもかもに氏真は
義子を付き合わせる気だ。
それを痛感しながら、よろよろと
義子は廊下を進む。
「…わ、私の人生って、よくわかんない…」
よろめきながら呟いた
義子の一言は、かなり切実だ。
現代の平和な時代に生きていた時には、刀を持つなど思っていなかったのに。
また、ここに来た時にも思っていなかったというのに
義子は今日初めて刀を持った。
重く鈍く光るそれを持っても、刀自体に対する感慨は浮かばなかったが
このシチュエーションに対する感慨ならよっく湧いた。
もう、意味が分からない。
何故、自分が武芸を習わなければならないのだ。
いや分かっている、氏真がそう望んだからだ。
だから
義子は自己保身的に、はいはいとそれに付き合わなければならない。
義子の現在の命綱は今川親子だ。
彼らに庇護されることによって、
義子は生き延びている。
ならば、彼らの言うことには従うのが筋というもの。
が、し・か・し!
………戦国時代に飛ばされた時には、生きるために必死だった。
草を食み、星の見える場所で寝。
その暮らしから脱出し、今川義元の養女、もとい跡取りの目付役になったときには
これで、なんとか人生安泰だなと思ったのに…。
なのに、これ。
なぜ、私は跡取り息子と一緒に授業を…
こういうのは大学までで終わったと思ったのに…
なぜに…
大人しく自己保身を図っているのに、なぜにこうも上下運動が激しい人生になるのだ…。
義子はただ、生きていきたいだけなのに。
出来れば普通が良いのに。
「カムバック、私の平穏平凡平安…」
呟いたところで、流れが止まらないのは分かっている。
次は、何があるのか、何が待ち受けるのか。
怒涛の勢いで運命に撥ね飛ばされる、
義子を次回襲うものは。
「あれが新しい顔か」
声が空に霧散する。
今川にも忍びは居る。
絶えず城の警護に当たる彼らに気配すら悟らせず
木の枝に立ち、
義子を見つめるのは白塗りの男だ。
人間なのかすら怪しいその男は、子犬ですらなく藁よな。と呟いて
ふっと闇にかき消える。
その声の中に、混じっていたのは紛れもない好奇心で。
哀れ
義子は、この夜安眠妨害を受ける羽目になるのである。
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