今川義元、桶狭間にて織田信長に敗北!!
この報は各地を大いに揺るがせた。
今川義元と言えば、飛ぶ鳥を落とす勢いの大大名。
東海一の弓取りの異名すら持つ男が、うつけと呼ばれた男に負けた。
それは、新しい時代の幕開けを告げる出来事であったが
そうはとらない、とれない人物が数多く居た。
特に、今川義元の力を間近で見てきた者たちに、その傾向は強く見られた。
今川義元、その才、その力。
凄まじいものがあると認めつつも、幾度も戦い、そして同盟を結んだ者たちである。





武田領、躑躅ヶ崎館。
武田信玄の居城であるその一室にて、対峙しているのは
主、武田信玄と、その部下、真田幸村であった。
「……此度の桶狭間、どうみるかね、幸村」
「驕り以外に要因は無いかと」
「……ふむ。おこともそう見るか」
「寡兵が幾万もの大勢を打ち破る。
個人の武勇に出来ることなど、限られております。
それがもしもなされるならば、相手方がよほどの油断をしておる時かと」
「おことがそれを言うのも、あれだがのぅ。
じゃが、正論じゃろうよ」
ふっふっっと、笑い声を洩らす信玄の表情は見えない。
仮面で隠されているが故。
けれども、真田幸村は、その仮面の下の表情をつぶさに読み取り目を伏せた。
お館様は、和やかに笑っているように見せかけ、何事かを考えていらっしゃる。
元々、今川・北条と同盟関係を結んでいたのは信濃攻めのためだった。
ただし信濃は既に平定を済ませており、それでも尚も同盟関係を結んでいるのは
上杉との抗争があるがためのこと。

が、しかし。

今川に太原雪斎なし。

かつて今川に居た、現武田所属の軍師山本勘助曰く。
「今川は雪斎に頼り過ぎている。彼がいなくなった後は、どうなることか」
所属していた場所を危ぶむ彼の言は、現実のものとなった。
今川は大勢を率い、寡兵に負け。
雪斎なくば、今川恐れるに足りずを証明したのである。

「さて、どうするかね」
言いながら、主の中で心は既に定まっているに違いない。
幸村は深く頭をたれながら、私はただお館様についてゆくだけです。
と、信頼のこもり過ぎた言葉を返した。














北条、小田原城。
こちらの城にて対峙するのは、北条氏康と風魔小太郎。
が、しかし。
こちらの雰囲気は武田のそれとは少しばかり違っていた。
ゆったりと、窓辺に座り込み風魔小太郎の前にある氏康は
ふぅとキセルから煙を吸い込む。
「…負けやがったか、あのド阿呆め」
「くく、どうするのだ、氏康」
「武田は、どう動くと見る、と聞くまでもないな。
あの胡散臭い野郎は、胡散臭い野郎として動くだろうよ」
「では、北条はいかがする」
「無しだ。現状続行で進める。俺は、気にくわねぇ」
ぷはぁ。
音を立てて、紫煙を吐きだすその仕草に混じるのは
苛立ちと呆れと、それから少しの心配だ。
今川義元は、北条氏康の妻の兄。
つまりは氏康にとって、義元は義兄である。
そうして、その兄ときたら、妹の顔にそっくりで、どうしても氏康は
義元相手には心を砕かずにはいられない。
「全く、うちのかみさんそっくりの顔っていうのも
やりにくい原因の一つだぜ」
「それだけが、原因か?」
面白がる風な目をして問う小太郎は、氏康にとっては義元同様やりにくい相手でもある。
今更聞くまでもあるまいに、言わせたがる所のある、存外に子供っぽい忍びに
氏康は言葉を選んで、語る。
「今川との同盟関係を結んだままにしておくのはな、風魔。
武田信玄が同盟を破棄するってことは、こっちにも被害が及ぶ可能性があるってことだ。
あの胡散臭い野郎は兎にも角にも、王道を貫く一点において
確実に信用ならねぇ。
が、あの義兄はその真逆を行く。
ならば、北条を守るためにはどちらと手をつないだままで居るのが良いか。
子供でも分かる話だろうよ」
「く。我は混沌があればよいが。うぬは抱えるものが多すぎる。
大変なことだ」
「ふん。いいんだよ、俺は」
ちっともそう思っていないだろうことを言う忍びに
鼻を鳴らして、またキセルを氏康は咥えた。
まったく。この忍びときたら。
北条が大切で、一番で、必ず守ると、常日頃から氏康に言わせたがる節がある。
まったくもって、ド阿呆が。
思った言葉には出さず、ただ氏康は今川の方角を見て、ゆっくりと、ため息をついた。












そして、最後に。
今川義元を見事打ち破った者である、織田信長の居城にて。
「………義元は、未だ死なず。で、あるか」
居室で一指し舞った後、織田信長は独り静かに零した。
彼の声を聞く者は誰も居ない。
その光景は、まるで彼の孤独さを象徴しているようでもあったが
信長は、気にせずくっと口の端を上げる。
彼は、大層愉快であった。
「天を信長を生かしたが、同時に義元をも、また生かした。
では、天は何を欲すか」
手に持った扇を開く。
月の光を反射した扇は鈍く光り、室内の中、仄かに浮かび上がる。
絶望的であった状況からの戦勝に沸き立つ織田。
恩義ある今川を裏切る徳川の苦悩。
上洛間違いなしと言われた今川の敗北による他国の混乱。
全てを時代は飲み込み、濁流となる。
それが清流となるのは、いつか。
するのは誰か。
扇を再び閉じて、信長が発した言葉は
「生きるも人の業。やはり此れが天の望み、か」
珍しく愉しげな声を聞く者は、やはり無く。
彼は孤独のままに歩みを進め、部屋の外へと、消えた。












三者三様の答えが出揃い、今川の方針の転換と合わせ
時代はさざ波のように揺れることとなる。
現在は、永禄3年。冬の中頃の話だ。