山を下り終えたのは、夜が白じむ少し前のことだった。
村人たちは、まず獣道から探すようであったから
義子は福笑いの手を引いて、道ならぬ道を、細心の注意を払って進んだ。
途中、村人たちの気配や、松明の赤を感じることがあったけれど
どうにか見つからず、福笑いも
義子も、山を下ることができたのだった。
日が昇る前の世界は、酷く黒い。
夜天の星明りのみが頼りのこの時代の夜は
現代のそれが昼のように感じるほどだ。
星明りが消えゆく、日が昇る前の一瞬は、なおさら。
空を見上げて、はぁと息を吐くと、吐息は白く濁って空にかき消えた。
「下りられた、の」
「うん」
安堵の滲んだ声で呟く福笑いに、
義子は頷きを返す。
遥か年上の相手に返す相槌に、うんはないと、
義子は心の中では思うが
今の自分は、彼が山の中で突然会った、小汚い子供なのだ。
返事は、それなりに無礼な方が、むしろ疑わしくない。
小賢しい思考でそう考えて、
義子は福笑いを促して先に進む。
山を下ったとはいえ、村人が同じように下ってこないとは限らないからだ。
同じ事を考えているのか、やや速足気味に福笑いも、また歩く。
すぐわきに街道が見えるが、そちらを歩かないのもまた、同様の理由だ。
追手を警戒して、
義子たちは街道わきにある木々の茂みをひたすら進む。
「それにしても、そち」
「うん?」
話しかけられて、横に並びながら福笑いを見上げると
彼は白塗りの剥げかけた顔で、こちらを見下ろしている。
「そちは何故、あのような山の中におったのか、の」
「捨てられた」
当然の疑問だ。
だから、返答もすでに準備をしてある。
既に用意していた答えを口に出すと、捨てられたのかの、と福笑いが首を傾げた。
の。を、どうしても語尾に付けたいらしい、福笑いの口調は気が抜ける。
だが、怪しまれてぶった切られない為の問答であるから
きりりと密かに気を引き締めて、
義子はこくんと首を縦に振った。
「そう、捨てられた。五郎って男に、連れて歩かれてたけど
三月前ぐらいに、あの山の中に入って、寝て。
で、朝起きたらいきなり居なかった」
「五郎と言う男は、人買いか何かかの?」
「分かんない。物ごころがついた時には、もう連れて歩かれてたから
多分、違うと思うけど」
逆にこちらが聞きたいのだという態度で、言ってやると
「では、そちは三月もの間、どうやって生きていたのかの?」
福笑いは、
義子のやせ細った体を検分しながら言った。
大人の庇護もなく、村で保護されていたわけでもなく
どうして十歳程度の子供が生き永らえられたのか。
男の続く質問に、いい加減口の中が渇いていた
義子は
ただ黙って、そのあたりに生えた草を指さした。
「あれ、食べてた」
………無言で福笑いは
義子を見た。
その瞳はまさに、信じられないものを見るような眼で
仕方がないので、
義子はてててと草に走り寄り
草を地面から抜いてもぐっと食べる。
「あんまり美味しくない」
「当たり前だの、美味しかったら驚くぞよ」
本当に草を食べるとは驚いた。
福笑いの漏らした感想は、まあ間違っちゃいない。
その辺に生えている雑草を、躊躇わず食べる人間は、驚きに値すると思う。
自分を冷静に評価しつつ、おなかも減っていたので
尚ももぐもぐ草を食べていると、福笑いが歩を進めながら
義子を今までとは違った目で見た。
何が違うのかは分からないが、ともかく違う。
警戒して、二歩さりげなく離れると、福笑いが顎に手をやった。
「そちはごきかぶりのようじゃの」
「………ごき?」
言葉の指すものが分からなくて、
義子ははてなと不思議そうな顔をするだけに終わったが
ごきかぶりとは、ゴキブリのことである。
いくら草を平然と食べたからと言って、女の子にそれは酷いが
福笑いとしてはむしろ褒め言葉として発したようで、呆れた根性だのと何回も頷いている。
その言い草に、
義子は顔をひきつらせたが、失礼だと物申すわけにもいかない。
仕方ないので、ただ、気にしていない風を装ってひたすらに歩く。
「して、そちはなにか希望はあるのかの」
「希望?」
暫くそうしていると、福笑いに話しかけられた。
しかし、何を言われているのかが分からなくて
義子がぱちぱちと瞬くと、福笑いは呆れたような顔をする。
「そち、案内すると言った時、ご飯と寝床を要求しておったではないか」
「あぁ………えぇと、とくにない。
ただ、食べられて寝られれば、それで」
「欲のないことじゃな。もう少し高望みしても
そちの年頃なら罰も当たるまいに」
…と、言われても。
三か月と少し、草と屋根のない寝床で暮らしてきた
義子にとっては
あったかいご飯と屋根のある寝床が確保できれば言うことない。
いや、というかだ。
ご飯と寝床は無期限なのか、期限付きなのか。
出来れば無期限が良いのだけど。
そして働き口もついでに紹介してくれればもっと良い。
何かに巻き込まれて、与えられた寝床やご飯を失っても
生きていかれるようにと、福笑いの言い分通り高望みをしようとした
義子だが
それは福笑いに頭を押さえられたことによって、叶わなかった。
「っ?!」
「声をあげるでないの、娘」
身を低くして、何かに警戒する福笑い。
その答えは、耳に届く蹄の音が示した。
………何かが近づいてくる。おそらく、馬。
初めて聞く生の蹄の音に、心臓をはねさせながら
福笑いと同じように息をひそめていると、茶色い体を走らせて馬が道を去ってゆく。
その馬上に乗っていたのは、鎧甲冑の男だ。
まさに侍というようなその姿に、随分と遠くに来たのだと
義子は改めて認識した。
…本当に、随分と遠くまで。
日常にあり得ないものを見たことで、深く沈みこみそうになる気持ちを
なんとか
義子が支えていると、福笑いが
義子の頭を押さえていた手をのけて
街道へと踊りでる。
「泰朝!」
「殿!」
福笑いの呼びかけに、馬上の男が馬の巨体を見事操り
道を瞬く間に反転して戻り、福笑いの前へと駆けよった。
「………殿?」
一方
義子はと言えば、男が発した福笑いへの呼び名に対して
深く眉間にしわを寄せていたのだった。
…福笑いなのに、殿?
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義子が福笑いとともに山を駆け下りてから、もうすぐ一月が経とうとしていた。
今年は例年よりも、より一層寒いらしく、身を切るような寒さに
毎日
義子は自分が生き永らえていることを奇跡に思う。
さて。
彼女が現在どこでどうしているのかというと、今川義元のもとで、彼の義娘をやっている。
今川義元といえば、駿河、遠江、三河一帯を治めた大大名。
その義娘になるということは、即ち
義子は姫になったということだった。
野宿生活の浮浪児から姫。
どういう展開だろうと
義子は思うが、仕方がない。
これもまた現実なのだ。
そして
義子が何故姫になったかというと、あの福笑いに「今日から娘として暮らすといいの」
と言われたからで。
そう、何の運命の悪戯か、
義子の案内したあの福笑いこそが、大大名、今川義元公なのであった。
全く見えない、と今でも
義子は彼に対して思うが
あの福笑いが大名、駿河、遠江、三河の主であるのは歴然とした事実として
義子の前に横たわっている。
認めないわけにはいかない。
だから、彼の養女になった
義子は、今川の姫だ。
次にどうして福笑いが、
義子を養女などにしたのか。
これに関しては、義元公に直接聞いたわけでないので
義子の推測でしかないが、理由はなんとなく分かっていた。
戦に負けたところを救われた恩返しなどではない。
理由は、彼の息子、今川家跡取りの今川氏真にある。
「入りますよ、氏真様」
「あー
義子か。お入り」
許しを得たので、部屋へと足を踏み入れると
今川の跡取りである、今川氏真は、だらしなく仰向けで寝そべっていた。
………これだ。
あの福笑いもあれであぁだが、この跡取り息子もこれでこうだ。
そして、この氏真の態度こそが、
義子が養女に迎え入れられた理由であると
義子は半ば確信を持っていた。
それは、何故か。
「…氏真様、また、兵法の授業をおさぼりなさいましたね。
指南役が怒ってらっしゃいましたよ」
「
義子は、すっかり物言いが可愛くなくなってしまったなぁ。
来たころの
義子は、礼儀作法もなってなくて、動物のようであったのに」
「仕込まれましたから。で、さぼりましたね」
引き取られた当初は、怪しまれないよう
義元と会った時のまま、礼儀知らずな物言いをしていた
義子だが
それを放っておくほど、今川の人間は寛容でなかった。
すぐさま礼儀作法の指南役として、武家から奉公に上がっている侍女頭がつき
みっちりと礼儀作法を仕込まれたのだ。
そうは言っても、元々演技であったから、さほど怒られることはなかったのだけれど。
むしろ筋が良いと褒められた。
当たり前だ、無礼さは演技なのだ。
怒られまくったりしたら、矜持に傷がつく。
…ともかくとして、礼儀作法を教えられ身につけたふりをして
晴れて、
義子はこうやって子供らしくない可愛くない物言いをしているわけだが
それが、この義兄は気にいらぬらしい。
ぷいっと顔をそむける氏真。
彼は、確か数えで十四のはずだけど。
元服も済ませているというのに、子供っぽい仕草を見せる氏真に、
義子は呆れた顔をする。
氏真はその
義子の表情を見て、だってつまらないだろうと、本当に呑気な声を出した。
「つまらない。何がです」
「目新しいものが来たと思ったのに、すぐ他と同じになったのだ。
それは、面白くあるまい?」
「面白い面白くないでなく。ともかく、氏真様。
どうして兵法の授業をおさぼりになったのです。
代わりに私が指南役に見つかって八当たられたではありませんか」
「あー、それね」
氏真様が来ないのです!とぷりぷり怒っていた指南役に見つかって
半ば怒鳴られるようにして、
義子は愚痴をこぼされた。
氏真を探してくるからと言って逃げたけれど
愚痴を聞かされた恨みつらみをこめて、口をとがらせ腰に手を当て威嚇する。
すると、反省でもすればまだ可愛げもあるというのに
氏真ときたら、仰向けに寝ていたのを寝返りを打ってうつ伏せになり
そのままだらしなく弛緩する。
「なんかね。兵法とか、私は無理だよ。行って、指南役にそう伝えておいておくれ、
義子」
「………なんですか、無理って」
「無理は、無理だ。あのな、戦というものはどうにも苦手なのだよ、私は。
だから兵法は無理だ、向いていない」
のほほんと、氏真は言い放ったが、その内容は洒落になっていない。
戦国時代に生きる、国の跡取り息子が、戦が苦手と堂々と言ってどうする。
おいおいと思う
義子をよそに、畳に顔をつけて氏真は続ける。
「戦をやるとな、こう、頑張って生きなければならぬだろう。
私は今川の跡取りだし、死んではならぬ身だ。
ゆえに、戦をやるとなれば、絶対に死ねぬ。
けれどなー、そいうの私には無理だ。頑張って生きるとか難しい」
「…無理って。無理って。人間だれしも死にたくないものでは…」
「あーそれ。良く言われるんだが、なんかそういう本能が薄いのだ、私。
食べ物も食べなくても平気だし。睡眠もそう必要でないし。
…………まぁ、そういうわけで、私は兵法とかいい。
遠慮しておく。向いてないんだから仕方がないな、うん。
困ったものだ」
「何を他人事のように話しておられるのです。
あなたのことですよ、氏 真 様 !」
それなー。ですませるんじゃない。
なんなんだ、その他人事のような物言いは。
思わず怒鳴る
義子だが、その無礼も気にせず氏真は
よりにもよって、全くね。と頷く。
その反応に頭がくらくらとして、
義子はたまらずその場にしゃがみこんだ。
………今ので、分かっただろうか。
今川氏真という人間は、
義子の対極に居る。
生きる!と全身で主張している
義子と正反対に、
氏真は生存本能が薄くて、生きる意志が、半端なく感じられない。
おまけにそれだけならまだしも、氏真は
彼の言った通りに、特に食欲も睡眠欲も無く。肉欲もなく。
日々、くらげのようにふらんふらんと生きている。
多分今川の跡取り息子じゃなかったら、生きていかれなかったに違いない。
しかも、それだけなら跡取りに向かぬ凡愚として
寺にやった三男でも呼び戻せばいいようなものだが
氏真は、大変に、性質が悪いことに、人心掌握の才を比類なく持ち合わせていた。
日々ふらふら生きていようと、くらげのようだろうと
戦が苦手と言い放ってしまっても、それでもなんとなく彼の力になりたいと
そういうことを周囲に思わせる何かが、今川氏真にはあった。
それだから、父、今川義元は、氏真を切り捨てることもできず
なんとか矯正しようと日々努力を重ねており。
そして、その努力のうちの一つが、おそらくとして
義子なのである。
生きることにどん欲で、草すら躊躇わず食し
ごきかぶりに例えられるほど生き汚い彼女を傍に置くことで
なんとか氏真の生存本能を呼び覚まそうとしている。
「………まぁでも、多分、そんな努力も無駄だろうけど」
小さくつぶやいた声は、幸いにして氏真には拾われなかったようで
彼はこれまた呑気に、それにしても暇なら蹴鞠でもするかい?と
義子に誘いをかけた。
……兵法の授業をさぼるなと、呼びに来た人間に対して
蹴鞠を誘うか?普通。
…そんなだからあんた、後世でファンタジスタ呼ばわりされるんだ。
思った言葉は胸の内に秘め、代わりに
義子は深い深い深ーい、ため息を一つ零した。
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