君の為の食育






【4.あと】(前編)








――話は少し前に戻る。


園田が温泉行きを了承してくれた事は、正直言って驚きだった。ダメもとでも提案してみるもんだ、と俺は意気揚々と園田にキスしてから温泉街へと車を走らせた。
…いくらダメもとの提案だったとしても、万が一の事も考えて手を回しておいてよかった。
俺のちょっとマメな部分が今回大いに役立ったというやつだ。



着いた先はちょっと古ぼけた温泉宿で、それでも旅館然とした佇まいは失われていない所だった。
「…いつの間にこんな所を」
流石に黙って助手席に乗っていた園田も、車から降りてそんなツッコミをした。
「知り合いの宿なんだよ」
「本当か?」
「マジで」
本当だ。俺は恋人に嘘はつかない。っつーか、あんまり人に嘘をついたことはない。
盆シーズンにこんな所でも宿が取れてたのは(泊まるかどうかも解らなかったのに、だ)、ひとえに俺の知り合いがやってるからに他ならない。ここは家族で経営してる旅館で、そこの跡継ぎが俺と同じ専門学校にちょっとだけ通ってたのだ。
「よう岩崎!」
「おー鍵山」
俺が専門学校時代の事を少し思い出しながら玄関へ行くと、待ってましたとばかりに随分オヤジくさくなった鍵山が迎えてくれた。オヤジくさいとはいっても俺と同じ年なんだが、なんつーか貫禄がちょっとついたというか。
「本当に来たんだなお前。あ、いらっしゃいませ!」
「どうも、お世話になります」
「な、言った通りだろ」
肘で少し小突きながら言えば、園田は「まあな」と少し驚いたように言った。こういう驚き顔は可愛いから好きだ。
「来たからには世話になるぞ、よろしくな」
「おう、滅多なご馳走は食わせてやれねぇけどな、さっき岩魚釣ってきたし美味いもんはできるぞ。ま、荷物置いたら風呂でも入ってゆっくりしとけや」
からからと笑いながら鍵山は部屋まで案内してくれた。道すがらに風呂の説明もしてくれて、すっかり跡取り然としてやがるな、と内心思う。こういう古い旅館は経営難で継ぐのが辛い、とよく聞いていたが、どうやら覚悟を決めたらしくて俺はそれが嬉しかった。
鍵山が部屋から出て行って、窓際の一人掛けのソファの横に2人分の荷物を置くと、所在なさげに周りを見ている園田の方を振り返る。あまりこういう所には来た事がないんだろうか。祖父さん祖母さんに育てられたなら結構温泉旅行とかしてそうなもんだけどな。
「風呂でも入るか」
「えっ、あ、ああ」
もうちょっとだけ見ていたかった気もするが、時間が惜しいので声を掛けると、園田はあからさまに驚いた。…さっきから驚きすぎだ、お前は。
「なーにキョドってんだお前」
思わず笑ってしまうと、園田は不機嫌そうに眉根を寄せた。惚れた欲目かもしれねえけど、こういう時の顔も結構いい。
「いきなり声を掛けるほうが悪い。ほら、行くならいくぞ」
「はいよ」


と、勢いよく部屋をでた割には、園田は服を脱ぐのをためらった。まあ当然といっちゃ当然の行動かもしれないが、恋人である以上にまず男同士なのだ、風呂は同じ男湯だ。警戒されるとまるで自分が猛獣にでもなったような気分になる。
「…別に何もしねえって。流石に」
さっさとTシャツやらジーンズやら身につけてたものを全部脱いでしまった俺は、背中を向けてゆっくりシャツのボタンを外してるらしい園田に声を掛けた。園田が忌々しそうに顔を向けてくる。
「…解ってるよ」
その躊躇いがちな口調に俺は思わず笑った。園田をからかいたくなるのはこういう時だ。
「脱がしてやろうか?」
「遠慮する」
ぱっと顔をそらされる。そのまま潔くシャツを脱ぐ園田の背中を見て俺はへえ、と思わずため息混じりに呟いてしまった。園田の背中をまじまじと見詰めたことがなかったからだ。男の割には白くて、怪我とは無縁の滑らかな肌。右の肩甲骨の下にホクロがあるのも興味深い。
――あそこにキスしてやったら悦ぶかな。
そんな俺の思惑に気付いたのか気付いてないのか、園田はちらっとこっちを見て口を開いた。
「…背中くらいだったら流してやるから先に入ってろ」
「…楽しみにしとく」
結構な進展度だ。俺は期待して風呂に入ることにした。


園田も俺も結構な大人だから、流石に俺の友人の旅館の風呂場で興奮して…という事態にはならなかった。園田が少しでもその気を見せれば俺の理性も崩れたかもしれないが、残念な事にあの医者は俺の背中を祖父にでもしてやるように洗ってくれただけだった。年季が入っているのかもしれないその動作はやっぱり気持ちよかったわけだが。
それでも、『背中、広いな』とぼそりといわれたときにはちょっとだけ腰に来た。ちょっとだけだぞ、ちょっとだけ。あいつが小児科医で子供の背中や、あとは祖父さん祖母さんの背中を世話してきたから比べて言ってるだけだって事くらい俺だってわきまえてる。園田は意外な所に鋭いが変な所で鈍いからきっとそんな所だろう。
俺はつらつら熱い風呂に入って煮えたぎりそうな欲望を諌める。ま、ほら、大人だから?火照った顔の園田を見ても自制くらいできる、できる、できる。………




「ったく、いい大人がのぼせるなよ」
声のするほうを見上げると、園田が笑いながら水を寄越してきた。細い体つきの割には浴衣が異様に似合っていて何だか色っぽいと思う前に腹がたった。
そう、俺はちょっと考えすぎて頭に血が上ったらしい。普通に上がって浴衣を羽織ったまではいいが、そこからどうにも足元がおぼつかなかった。ラーメン屋失格だ。
起き上がり、園田から水をもらってぐっと飲む。一気に飲まないとやってらんねえ。
「俺は俺なりに気を使って…」
「何?」
思わずボソッと出てしまった言葉を園田は見逃さなかった。聡いヤツは好きだがこういう時はバツが悪い。
「俺は俺なりに気を使ってお前に触らねぇようにしてたんだよ。それがこのザマだ」
「なっ」
といってももう殆ど回復しているんだけどな。座椅子に背を凭れて手で顔を仰ぐ。
「ガキっつっちゃガキみてぇだよな、その自覚はある」
「諒二」
2人きりの時は律儀に名前で呼んでくれる園田が何だか恥ずかしそうに眉根を寄せている。迷惑なら迷惑だっていやいいんだ。
「でもな、やっぱ一緒に居たらキスもしたくなるし抱きしめたくなるしもっとそれ以上だってしたくなんだよ。それを我慢したくれぇで笑われたくねぇな」
ガキっぽく拗ねてるってことは解ってた。だけど何だかひけなかった。きっとまだ頭がのぼせてやがるんだろう、そう思って深く息をした。すると、園田が俺の横に腰を下ろした。そして、呆気にとられた俺に顔を近づけて、口を開く。
「…すまん」
なんて殊勝な言葉だろう、と思ったのも束の間、園田は俺にキスをした。しかも唇にだ。流石にこの展開には俺も驚いて目を見開いたが、眼を伏せて長めの睫毛を震わせる園田にはバレなかったらしい。
「…んっ…」
思わず舌先で閉じられた唇をノックする。歯列を割られる感覚に感じたのか、園田は小さく声を上げて眼を開ける。しかし、俺と眼が合った瞬間にまたゆっくりと視線を戻した。そんな余裕を与えているのがもったいなくて、俺は半ば強引に上顎への愛撫を始めた。円を描くように上顎、歯茎、舌を舌で愛する。
「…っふ…ぁ…」
角度を変えようとして舌を解放するたびにそんな声が漏れる。控えめだが隠せない欲情の色を、俺はその声で確かめる。
晩飯まではまだ時間があるから、一発本番…
と、思っている所に廊下から声が掛かった。鍵山だ。園田はゆっくりと唇と体を離す。慌てていないだけこいつは大人だ、と俺は内心感心した。


焼き魚やら茄子と冬瓜の煮付けだのが並べられて、仕方なく俺は「色気より食い気」を優先せざるをえなくなった。正直鍵山の飯は美味かったが。
でも鍵山が「園田さんのぼせたのか?」とか聞いてきて、俺は思わず白い飯を噴く所だった。