夏燈
02



 モデルをやっていた。
 半年前まで、のことだ。

 ハイスクールに上がって間もない頃、インテリアコーディネーターをしていた父の仕事で人が足りず、仕方なく背景のように父の作り上げたインテリアの中に佇み、写真を撮られた。
 それがどうにも他のカメラマンやキャスティングディレクターの目に留まったらしく、声が掛かったのは雑誌が発売されて直ぐのことだった。
 早い成長期で、骨の成長に肉が追いついていかないような、そんな気持ち悪い痩せ方をしていたのだが、それが個性的だったらしい。
モデルというのは必ずしも美形が選ばれる訳ではないし、自分はどちらかと言えばそういうよくわからない“個性”というのを評価されていたようだった。
 だから、学校ではスポーツが出来る男子程はモテなかった。かといって苛められるとか友達ができないということもなく、成績も良かったからニューヨークの大学に進学できた。
 ――代わりに、学校以外では色々あったけど
 思い出したくないことを思い出しそうになって頭を横に振る。前髪が目にあたって小さく声を出した。
 ――かっこわるい

 そう、自分は出来た人間ではないと、思い出す度に自分を否定してしまう。
 恵まれた環境に居たのに、そこから逃げ出してしまうただの臆病者のわがままだ。
 逃げ出した先でやりたい事も見つけられず、途方に暮れて日がな一日を無為に過ごす。
 あくせく働く人から見たら、悪態を吐かれたってしょうがない。日本にはただでさえそういう人が多いって聞くのに。
 ――いや、だからこそ、僕は
 ここで、やりたい事を考えようと思ったんじゃなかったか。
 
 家電量販店の店頭に並ぶ最新のデジタル一眼レフを一瞥してから、透馬は改札へ向かった。



 
 
 上野は、透馬が東京に来たときに必ず訪れるスポットの1つだ。
 美術館・博物館・科学館に動物園。1人で居てもよくて、自分が決して主役にならない場所ばかりだ。
 少しのお金を払えばいつまででも居られるし、夏は冷たい空気を吸いに博物館に行くことが多かった。
 ――こういうのを勉強するなら
 やっぱり日本の大学に編入するべきなんだろうな、と日本画を前にして思う。細長い表具の中にあるのは、幽霊の絵だ。細い線が淡く紙に滲んで、遠くから見た時は本当にそこに誰かが居るんじゃないかと背筋がぞっとしたものだ。そう感じる部分は日本人らしくて、嫌いじゃない。
 ――絵や写真を見るのが好き
 というよりは、絵でも写真でも綺麗にまとめられた空間が好きだった。
 そこに自分がいなくても完成されている空間が好きだったのだ。
 だから、自分が映った写真を、どうしても好きにはなれなかった。
 自分をどうしても邪魔だと思ってしまうのだ。映った景色ではなくて、どうしても人は人を見てしまうから。
 父親が、良いと言ってくれたからやった。
 父親の作品が好きで、その中で好きにしてくれて構わないと言われたのが嬉しかった。
 ――そこから先は…
 どうしてあの時逃げなかったのだろうか。苦手だったのなら、嫌いだったのなら断ればよかっただけの話だ。何故あんなにずるずるとやってしまったのだろうか。

 幽霊の顔が、ふっと笑ったように見えて透馬はハッとして顔を上げた。

 その表情の意図が解らない幽霊は、こちらをぼうっと見つめている。
 まるでさっきの自分のようだと青ざめた顔で思って、透馬は1人しかいない展示室を後にした。
 気付けば、廊下に差し込む光はオレンジ色になっていた。そんなに長い間ぼーっとしていたのかと思うと、いまさらながらに冷房で身体が冷え込んでいたことに気付いて身震いする。
 人の居ない博物館の手すりはひんやりと冷たく、ここに人がいることを拒んでいるかのようだった。
 いつの間にか流れていた閉館のメロディにせかされるように出口へ歩きながら、透馬は小さく長くため息をつく。

 ――変われると、きっと好きになれると

 そんな希望を持つのはそろそろやめた方がいいんだろうか。
 好きになれないのなら、ならなくてもいいけれどその代わり別の方法を探さなければならない。
 個を消したまま仕事をするのは、きっと日本では簡単なはずだ。
 したいことなど今は浮かばず、とにかく自分の中に入り込んでる毒を少しずつ抜いていくような、そんな日々を望んでいるけど、日本だったら何とかなりそうな気もしている。
 ――そしたら、あんな凄い絵をみても、どんなに綺麗な写真を見ても
 心が動く事が無くなれば、自分は失敗なんてしないはずなのだ。

「とうま」

「っわ」

 What、と声が出そうになってきょろきょろと周りを見渡す。階段の下を見下ろせば、そこには角掛がいた。
「角掛さん」
「何、観光?」
 それともこっちに住んでんだっけ、と言いながら角掛が手招きする。閉館の音楽が鳴っているのにも関わらず、そこにはちょっとした人だかりができていた。
 ――撮影だ
 持っている荷物と、何よりそこに居る人たちの雰囲気が、写真や映像を作る人達に特有のもので直ぐに解った。
 少し懐かしいと思ってしまった自分に恥ずかしくなりながら、角掛の所に向かう。
「夏休みだから日本に」
「そっか。俺は仕事だ」
「みたいですね」
 気付けば閉館の音楽も止んでしまっていた。普通一般人が皆出た後にこういう撮影はするものだと思っていたが、きっと透馬は撮影の関係者かと思われていたのだろう。
「見てけよ、おじさんの話相手してくれ」
「おじさんって、角掛さん何歳ですか」
「お前の親父さんよか年下位じゃないか」
 ネットで調べてもよく解らなかった事を聞くと、まあまあ、とばかりに肩を押される。見知らぬ人の目が一気に集まって身体が一気に強張った。
「角掛さん、ナンパ?」
「モデルのナンパはしないって言ってたじゃないですか」
 照明のセットをしている人達が声を掛けてくる。どうやらスタッフとは仲がいいらしい。
 ――にしてもナンパとか
 どこの国でもこの手の職種の人間は言う事が言う事だよな、と思いながら愛想笑いも浮かべられずにいると、ぽんぽんと肩を優しく叩かれる。
「バーカ、いいだろ一人くらい見学増やしても」
「え、モデルさんじゃないんですか」
 やっぱりそう見られるのだろう、と困った顔で首を横に振った。
「違います、えーと」
「俺は撮りたいけどな、今日の主賓はまだかね」
「メイク中です。角掛さん途中見る人?」
「見ない人」
 軽快な会話を交わしながら、角掛は機材をひょいひょいとすり抜けるようにしてどこかへ消えてしまった。付いて行くに行けずぽつん、となる。
 ――撮りたいって
 まだ諦めていなかったのか、それとも初めからそのつもりで連絡を交換したのか。自分にはそんな魅力はないと思っているのに、なんでそう思いを巡らしてしまうのか、ちょっと自己嫌悪に陥りそうになる。
「すんません、勘違いして」
 照明装置の組み立てが終わったらしいスタッフの1人が笑いかけてくる。そういう人懐こい笑みにはなんとなく心が絆される気がして、透馬も笑顔を返せた。
「僕もごめんなさい、あの、邪魔だったら帰るので」
「角掛さんが良いっつうなら良いんすよ。お弟子さんとかですか」
「いえ…」
「こら何ナンパしてんだお前も。透馬こっち。色々見せてやるよ」
 ぺしっとスタッフを叩いて戻ってきた角掛の首からはカメラが下がっている。断る理由もないので、スタッフに会釈をしてから角掛についていった。
「帰りたかったら帰ってもいいぞ」
「そんなことないです」
「そっか。今日は雑誌の撮影でなー、こういうのでも食ってて」
 ここはよく撮影場所になるんだ、と特徴のある手すりを指先でつっとなぞる。
「じゃあ慣れた現場なんですね」
「まぁなぁ。毎回同じような絵を撮る訳にもいかんし、毎回違うもん撮ってる様なもんだな」
 遠くから“〜〜さん入ります”とモデルだか女優だか解らない名前が呼ばれて、わっと拍手が鳴る。
「スタジオじゃねえんだからそこまでしてやらんでもいいだろ」
 そうぼそっと呟きながら、角掛は早速カメラのファインダー越しに彼女を見て、一回シャッターを切る。
「決めた。透馬、俺の横ずっと付いとけよ」
 ここな、と斜め後ろの辺りを指される。
「えええ、いや、無理ですよ」
「無理じゃねえだろ」
「だって、影とか」
「俺を舐めるなよー、んなもんどうだってなる」
 お前の、と笑いながら角掛は透馬の眉間を指で触れる。つんと脳の方まで刺激が来る感じがして目を細めればゆっくり指が離された。
「目で見たもんの感想を後で聞きたい」
「…僕で良いんですか」
「良いよ。どうせ他の連中はお前をモデルか弟子か何かだと思うんだから」
 職権濫用って言われるだろうけどな、と言いながら角掛は歩きだした。
「ほら」
「……知りませんよ、僕」
 どうなっても、と透馬は言われた通り少しだけ後ろを歩く。
 今日の被写体の彼女に挨拶をして、彼女にも「モデル、増やすんですか?」と聞かれた。角掛も角掛で「写真の出来次第で」と嘯くもんだから透馬は少し生きた心地がしなくなる。

 撮影は非常に静かな、それでいて優しい雰囲気で行われた。スタッフも息の合った人間達ばかりのようで、モデルの女性もしっとりとした視線をカメラに向けてくる。
 角掛が孤高のカメラマンではないことは、ネットで調べて知っていた。
 出会った時の様な古い建物を撮ったりしているのは彼の趣味の一角のようなもので、実際はビルの夜景だとか、広告用の写真を多く手掛けているらしい。
 サイトに掲載されていた写真はどれも光のタッチが独特で、屋内の写真はどれもどこか空間にシャープさとマットさを感じる。
 ファッションや雑誌用のアーティスト写真も手掛けることがあるようで、既存の建物をそのまま活かした空間作りが上手いとどこかに書いてあった。昨今人物を接写するのが良くある手法ではあったが、空間と人の調和にかけては現代の日本では中々横に出る人間はいないのだそうだ。小物を余り使わない代わりに何が彼をそこまで特徴づけているのだろうと思ったが、やはり光にありそうだな、と今日のスタッフの準備具合を見ながらぼうっと考える。 

「よし、透馬ちょっと階段登って上から彼女見て」
「え」
「大丈夫だ、撮らないから」
 どうやら、女性の視点が中々良い所に定まらないのが気になっているようだった。透馬は撮られないなら、というのとずっと横にいるのも何だかなと思っていたのですたすたと階段を登り、手すりに手をおいて、じっと階段に座り込む女性を見た。
 ――うわ、すごい眼力
 彼女にも、角掛は『見て』としか指示をしなかったのに、その瞳は鋭い意志を持っていた。相手の視線の強さに思わず目を逸らしそうになったが、落ち着いて見てみれば彼女の目は、透馬の心にまで突き刺さってはこなかった。
 結局彼女は自分ではなく自分の向こうにある何かを見ているのだと思ったら何だか出来るような気がして、思わず手すりに頬杖をついて見降ろす。
 ――僕を見ている訳じゃない
 自分も彼女の内側まで見つめられる訳はない。だからまだ冷静で居られた。何より相手はプロなのだ。今迄何度だって相手したことのあるプロの一人。それだけ。
 ――ほんと、それだけ
 ――どうせ彼女の表情も、身体も、フレームの中におさまらない部分は切り取られて捨てられる
 彼女自身が捨てられるのは一体いつなんだろう。
「透馬ー、ドSだなその顔は」
「駄目?」
 自然にするりと甘えたような声が出て、自分で驚いたのも束の間、角掛が笑いながら女性に「駄目かな」と聞いた。
「いいえ」
 凛とした声だった。硬質かつ品のある声がこの建物にはよく合っている。透馬は自分が一番ここには適していない人間なんだろうなと、やはり冷めた目で彼女を見つめた。彼女の目に少しの燃えるものと、何か切ない表情が見えて少しだけ微笑む。
 その瞬間、シャッターの音がひと際大きく響いた気がした。

 その後少し立ち位置を変えて、暫く女性とは見つめ合ったが、角掛のOKとそこで休んでいろとの声で、ふっと身体から変な力が全部抜けてしまった。
 二階の踊り場、撮影現場から絶対に写り込まない壁際に座り込んで撮影が終わるのを待った。カシャ、カシャと変則的なシャッターの音を子守唄にうとうととしていると、締めを告げる大きな声がして、ああ、終わったのかと目をうっすらと開ける。
「お疲れ様です」
 階下から声が掛かった。彼女の声だ。長い綺麗なドレスを器用に捲くって近くまで来てくれたらしい。恐縮で思わず立ち上がる。
「あ…お疲れ様です」
「失礼ですけど、モデルじゃないんですか」
 いきなりの質問に、思わず眉間に皺が寄ってしまう。どうしてこういう時上手くやり過ごせないのだろうか。
「…違います」
「昔、私雑誌で」
「シー、」
 その先を言われたくなくて、彼女の唇の前に人差し指を立ててしまった。小さい頃、父の仕事場で遊んでた時によくやられたポーズだ。
 一瞬きょとんとした彼女も、すぐにクスっと笑ってくれる。安心して指を離した。
「……とにかく、ありがとうございます。楽しい撮影でしたから…角掛さんの小道具さん?」
「こど…」
 今度は透馬が絶句する。
「モデルじゃないなら、そうでしょ?」
 そう言っていたずらにほほ笑み、彼女は戻っていった。
 ――気付く人、いるんだ
 自分の様な正統派な美形じゃないモデルは、確かに人に名前を覚えられやすいという長所があったが、それは今のモデルじゃない自分には短所でしかなく、思わず溜息がでた。
「お疲れお疲れ。ごめんな、連れ出しちまって」
 暫くしてから、角掛が顔を出した。ゆるく首を横に振る。
「お疲れ様です。角掛さんの小道具さんって呼ばれちゃいました」
「はは、言い得て妙だな。大丈夫、ちゃーんと写真には入ってねえから」
「良かった」
 それはちょっと心配していたことだったが、撮影中は全く気にならなかった事の方が透馬には驚きだった。それを言うとじゃあ今度は透馬の写真も、と言われかねないと思って黙っておく。
「この後編集してデータ送って…まぁ余裕もってやってたからいいか」
 そうぶつくさ呟く角掛を見ながら、こんな夜にも仕事があるのかと関心した。
「お仕事戻るんですか」
「悩んでる。透馬が良けりゃこのまま一度ばっくれたいんだけど」
「ばっくれ…?」
「さぼりたいの。俺も年だからさーこまめに休憩とらないと」
 死んじゃう、と肩をボキボキ鳴らして角掛は階段を下りていく。その軽快さに年齢なんて全然感じないんだけど、と若いはずの自分は逆にとぼとぼと歩いてしまう。
「まー、年だから自分のお仕事には責任取らないといけないんだけどな。おい」
「角掛さん写真明日中っすよ」
「わぁってる。明日昼には持ってく」
「丁度1時半に会議あるんで、そんときにお願いします」
 本当はここで見ていきたいけど、とスタッフや雑誌の関係者なのだろう、エディター風の人間がわらわらと角掛の周りで何か話している。
「いい加減デジタルなんだからここで見てってもいいでしょうに」
「映画監督じゃねえんだから。一人で楽しませろって」
 カメラマンの特権、と少しいやらしく笑っている角掛にどきり、とする。
 ――いいなぁ、男らしいな
 重ねてきた年齢と経験がモノを言うのだろうか。同じ男のはずなのに、随分と違いがある。羨ましく思う位ならば少しは自分も頑張ればいいと思うのに、どうすればあんなふうになれるのかを考えてしまって前に進めない。
「じゃあ先に帰ってさっさとやることやって下さい」
「いつも有難な、じゃあお疲れ様です」
「お疲れ様でーす」
 どうやら無事帰れる算段になったようだ。ハードワークをこなしている角掛の心配をするのは杞憂なのだろうが、それでもやはり仕事を早く上がれたのには安心する。
「あぁ、よかったまだいた」
「勝手に帰れませんよ」
「はは、そりゃそうか」
 博物館を後にする。上野の風は他より少し涼しいが、それでもまだ熱を孕んでいて、じわ、と冷えた身体の内側から暖められる。
「どうすっかな、上野だし適当に日本のノミュニケーション体感するっつーのも良いが」
「ノミュニケーション?」
「飲むコミュニケーション。まあそんなことしなくてもコミュニケーションは図れるけどな」
「わ」
 ぱし、と小さく音を立てて角掛が透馬の手を取った。
「お、冷たいな」
 手を重ねてきた角掛は、心配そうに手の甲を撫でる。その肌の触れ合う感じにぞくりとして身構えてしまう。
「あ……ずっとここにいたから」
「にしちゃ冷え過ぎだ」
 周りには誰も居ないと解っているのに、だだっぴろい博物館の中庭で、きょろきょろと辺りを見てしまう。
「角掛さんは…あつい」
「そうか」
 手や指の皮は透馬のものとは比べ物にならない位厚い。男らしい、色々な経験を重ねたような指が自分の浅はかな肌を撫でて、あろうことか指を絡めてくる。熱が指の間の皮の薄い所からぞわっと登ってきて、手を離したいのに離せない。
 じわりと首筋に汗をかいているのに、指先は痺れたように汗すらかけない。
「……あ」
 角掛の唇が、透馬の手に触れた。
 正しくは掠めた、と言うべきか。ぎりぎり、事故で済むようなほんの少し。
「…嫌なら言ってくれ」
 それは、どれに対して言っているのだろうか。
「……ご、はん。行くんですよね…」
「…ああ、行こうか」
 思いっきり飲むぞ俺は、と言って角掛の手がはらりと解けた。詰めていた息を吐くと、「そんなに怖がるなよ」と笑いの滲んだ声が帰ってくる。
「…怖がってなんか」

 ないです、と言えればよかったのに、吐息が夜の風に攫われて上手く言えない。