夏燈
01
その男は、灰色掛かった夜の路地で、一人物憂く煙草を喫っていた。 ――うわ 一瞬、足が止まってしまった。 あんまりにも、決まりすぎた構図だったからだ。 【夏燈】 小原透馬(おばら・とうま)は、惣菜屋の袋を提げ家路をのんびり歩いていた。 人通りの少ない印刷所や倉庫の多い路地を通っている。だが、さして近道という訳ではなかった。 透馬がその道を選んだ理由は、人通りが少ないというその一点に限っていた。 ――人の目の、余りない所 それが歩く時の基本条件だ。 散歩は好きだし買い物も好きだが、一人になれるならばなるべくそこを歩くことにしている。 人目を避ける、というのは人によっては自意識過剰に聞こえるかもしれない。だが、自分が心配する以上に、透馬は人目を惹くタイプの人間だった。 透馬は純粋な日本人ではない。 本名は、小原・スカイラー・透馬だ。母親が東欧系のアメリカ人で、今迄ずっとニューヨークに住んでいた。 お世辞ではなくすらっと伸びた長く細い手足、東欧と極東の混じった印象的な瞳は、片目を隠すかのような髪型にも関わらず、すれ違う人が思わずじっと見つめずにはいられない…らしい。 その人から向けられる一瞬の視線、その連続が、透馬には心地よくなかった。 透馬自身は自分を美形とも何とも思っていない。格好いいねと言われると「どこが?」と素で聞き返してしまう。それが嫌味だと日本の友達に笑われた。 いっそアメリカに居た方が目立たないのかもしれないが、違う国に逃げたくなるような出来事があって、父親の母国である日本に大学の長期休暇を利用して遊びに来ていた。実際毎年夏休みの半分は出来る限り日本で暮らしていたし、日本の生活が苦だと思ったこともない。逃げるには格好の場所だった。 ――まあ、見られるけど。アメリカよりすげーみられるけど 視線が苦手なのは、相手がどの人種でも変わりはしない。日本人は人と余り目を合わせないと言うけれど、逆に陰から見ることに長けているらしい。 その視線が気になる、というのはアメリカ人的には余り解らない感覚のようで、気にする方がおかしいと一蹴されてしまうのだが、日本人に話すとなんとなく解ってもらえることが多い。 それに、日本人はこっそり見てくることはあっても、喋りかけてくることは余りない。そういう場所にいかない限り、いや、そういう所に言っても話しかけられることは稀だった。自分のが余りにも雰囲気のある見た目をしているから声をかけられにくいのだということなど、透馬は全く考えた事はない。 ――アメリカは広いから、別の州に移るっていう手もあったけど アメリカと全く違う人達、建物、そういうものの中で暮らしたかった。本当は2年位留学したかったのだが、日本で特にしたいことも無かったのでまだ決意していない。 ぶらぶらと路地裏を散策するように歩く。一度通った道は忘れないタチだから、よくこうして日暮れ時は色々な路地を入る事にしていた。 勿論、人に会うとぎょっとした顔をされる。だが、ぺこりと会釈をしてすれ違えば何も問題はないのだと父親から教わっていたから、凝視される前にそそくさと通り過ぎるようにしていた。 ――でも こういう異邦人な感覚が面白くもあるのかもしれない。 アメリカ、とくに透馬の居たニューヨークは、誰が居てもおかしくない。東京のド真ん中も似たような感じがあるが、ホームではない。街に無視される感覚、街から、人から切り離された感覚が好きだった。 ――帰ったらマンガの続きでも読みながらスミノフと、買ったの食べて こんなに暑い日だから、誰も居ない家で自堕落に過ごしてやろう、と思っていた。 5階建程の古いビルが並ぶ、のんびりと褪せていく路地を歩く。もう一本角を過ぎれば川があって、そこを越えれば家がある。 日も暮れたし、涼しい風も吹いてきた。 そろそろ散策も終わりだろうと、足取りを帰宅モードにする。サンダルの、足の底が昼間の熱を吸い取って熱くなってきていた。 ――あ、人だ 丁度分かれ道を左に選択した所で、人影を見つけた。まずったか、とも思ったが今更引き返すのも億劫でとりあえず歩くことにしたのだ。 そうして近づいて見たら、えらく絵になる光景に出合ってしまったのだ。 自販機が二台並んでいる、その明かりで顔がよく見えた。 ――イケメンっていうか、なんていうか 思わず短く息を吸ってしまう。ハッとしたのだ。 暑いのにスーツの上着を羽織っている。夏物の薄手のものなのか、時折吹いてる風にさらりと裾が揺れていた。 短い黒い髪に、東洋人らしいはっきりした眉、その下の目鼻は俳優みたいに整っている。有名な俳優に似ている気がするのに、名前が出てこなかった。 多分足を止めたのは一瞬のはずなのに、煙草を喫っていた男はこちらに気付いてしまった。訳もない、その場には透馬と男しかいない。 「…なんだ?」 「え、あ」 煙草を自販機脇の吸い殻入れに捨てて、男はこっちを見た。目を細めると目じりに少しの皺が見える。それに気付く位距離が近かった事に今更気付いて、透馬は数歩後ずさった。一車線の道路の向かい側まで距離を取ってしまう。 「す、すみません」 その低い声も見た目通りで、感心しそうになる一歩手前で怒られたということに気付き、頭を下げた。 「あぁ、日本語解るのか。キツい言い方して悪かった」 ネクタイを緩め、自販機の上に置いてあった缶を飲み干す。その喉元まで男らしさというものを感じてしまい、できることなら今直ぐここから逃げ出したくなった。 ――いや、逃げ出せるだろ僕の足 普段なら謝った瞬間に走りだす所なのに、今日は動かなかった。男の一挙一同を目が逃すまいと動いているのだ。 男も、じっとこっちを見ている。磔にされたような気分になっているのに、いつものような冷や汗も油汗も出てはこなかった。 「…お前、時間あるか?」 「え?…はい…?」 一瞬何を言われているのか解らず、予定なんかなかったから頷いてしまった。 男は満足そうに目を細めて、缶を捨てる。 「ちょっと付き合ってくれよ。何、別に詐欺でもぼったくりでもねえから」 そう言って親指で建物をさす。中に入れ、ということなのだろう。 「はぁ…」 手に持っている惣菜に保冷剤を入れてもらっていなかったことを思い出したが、別に良いか、と思った。 それだけ、彼が魅力的だったともいえる。 或いは、まるで別世界に紛れこんでしまったかのような気になってしまっていて、断るという選択肢がなかったと言うべきかもしれない。 「よしきた」 そう言って男は足元の鞄を手に取り、ずかずかとビルに入っていった。 「あの――…」 ビルは古そうなのに日が当らないせいか、それとも古い冷房がガンガンに効いているのか、建物はひんやりと冷たかった。「冷えるのを待ってたんだ」と男は言う。この建物の関係者には違いないのだろう。 「あぁ、俺は角掛(つのかけ)。外人さんには発音しにくいか?」 外人さん、という響きにはちょっと思う所があって、階段の下からちょっとむきになった。 「ハーフです。つのかけさん、どういう字なんです?」 「そりゃすまん。牛の角のツノに引っ掛けるのカケだ。お兄ちゃん漢字かけんの?それとも実は日本育ち?」 あのタレントみたいな、と笑いながら角掛は階段を上る。 「えーと、僕は小原透馬です」 「日本人みたいな名前だな」 「全部漢字です」 だから漢字書けます、というと笑われた。 からかわれているのかそれとも本気で感心されているのかよく解らない。日本語の抑揚のない感じが、冷たいとか感情がこもってないとか言われるせいだろうか。 「へー、オバラとか向こうにもある苗字かと思ったけど、トーマもさあ」 「どっちでも呼びやすいようにって、親が」 「成程ねえ」 ――案外よく喋る人なんだな、この人 いや、お喋りでなければそもそも自分に話しかけたりはしないだろう。 久しぶりに年上の人間に話しかけられて緊張はマックスだったのに、いつの間にかきちんとした会話になっている。途中で喋れなくならないかと心配していたのは全くの杞憂で、なぜこんなに上手くやれているのか不思議ですらあった。 階段をもう5階分は上がっただろうか、そろそろ最上階のはずだ。 「悪いな、ここまで上らせちまって」 「いえ…」 「1人じゃどうしても上る気にならなくてな、…こういう所、雰囲気は嫌いじゃないんだが」 「…?」 言葉が濁った角掛にこっちまで不安になってくる。もしかしてこの先に何かよくない物があるのだろうか。 最上階の階段を上がりきる。廊下をカツ、と鳴らして角掛は振り返った。 「怖いんだよ」 「!」 「いや、何も出ないのは知ってるんだけどな!」 「え、幽霊ですか?!」 「だから出ねぇって!お前俺を不安にさせんなよ、あ、もしかしてあれか、お前が実は…」 「人間です!角掛さんこそ」 「俺だって人間だよ、ここには写真撮りに来てんだからな」 百戦錬磨で人だって殺せそうな顔ができる角掛は、そう言いながら鞄を壁際に置いておもむろにカメラを取りだした。 「…くそ、やっぱり反射板が要るかな」 ――うわ、凄くいいカメラだ 鞄がやけに角ばっているなあとか、なんの仕事なんだろうなあ、とか思っていたが、その本格的な仕様に透馬は確信した。 「…photographer」 「そうそう、フォトグラファー。反射板必要なったら手伝ってくれ」 そう言って角掛は手前のドアを開け、電気を点ける。 なんてことのない廃ビルの一角かと思ったそこには、年季の入ったオフィスが残されていた。ファイルが整然と並べられたキャビネットに、雑然と置かれた書類。 「現役のオフィスだよ、窓から見えて気になってたら許可が下りてな」 上着を脱いでおもむろに椅子の背に掛ける。途端にスーツの上着がタイムスリップしたかのように景観にマッチした。 「…角掛さんは」 「ん?最初から我儘言いっぱなしで申し訳ないんだが、ちょっとだけ黙っててくれるか」 「……」 オフィスのスタンドの明かりをつけて、角掛はカメラを構えた。表情が変わる。 ――あ これは、見た事のある顔だった。 例えば父親の仕事を間近で見た時に似ている。角掛の周りの空気が、集中で固められる瞬間。 決して、邪魔をしてはいけない瞬間だ。 ――フォトグラファーなんて、なんで 初めて目が合った時に気付かなかったのだろう、と思う。 見て、それを写真におさめることを仕事としている人の目はどこか独特だ。 ――…一番知りあいたくない人だ いつでもカメラを持ち歩いている人なんて、今の世の中ごまんといる。日本は特に携帯のカメラ機能が良くできているから、なんでもかんでも写真になって残ってしまう。 透馬は邪魔にならない程度に、隅っこの落ちそうで落ちない書類の山から一枚を手に取った。日付が平成元年になっている。本当に仕事場として使われているのだろうか。それとも、今は別の場所で仕事をしていて、ここには書類だけを置いているのだろうか。少しの埃だけじゃ判別が出来なかった。 ――ビルの人が立会いとかすればいいのに 機密文書があったらどうするんだろう、とつらつら考えていると、不意にシャッター音が途切れている事に気がついた。 「…」 ふ、と角掛の方を見る。 カメラがおもむろに向けられていた。 「――!!」 ガタン、と椅子の足を蹴って棚の後ろに逃げ込んだ。 舌打ちが聞こえる。 「何だ、兄ちゃんカメラはNGか」 「ええええエヌジーってなに!」 「ダメってことだ」 「だめですだめ、だめ」 つかつかと近寄られて、棚の後ろから引っ張り出される。カメラは構えられていない。 「恐怖症みてえだな」 舌打ちが聞こえて怒っているのかと思ったが、どうもそうではないらしい。笑顔が見れてほっとした。 「こういういかにも日本の昔の職場、って所でお前みたいなのがいると、ギャップがいいなあって思ったんだよ」 悪気はないんだ、と言って角掛は観葉植物の葉を撫でた。 「ここは今じゃ働いてるのが2人だそうでな、書類も古今ごったで整頓中なんだそうだ」 だから鍵一つで立会いもなし、と角掛はオフィスをぐるりと見渡した。 「…?」 「で、あと2週間もしたら引き上げます、と。こんな古いとこ誰が借りるか解らんし、きっと取り壊しも検討されるなと」 「…記録ですか」 そのつもりで来たのだろうか。ふとそう思って角掛を見ると、思った以上に穏やかな顔がそこにあった。冗談ではなく、ずき、と胸の奥が痛くなる。 「……ま、そんなとこだ」 「ひ、人はとらなくていいんですか」 「ん?兄ちゃんモデルになってくれるの」 「違くて!ここで働いてる人は、いいんですか」 「あー…」 そういうことね、とこめかみをかく。節くれだった大きな手だな、と思う。 「……建物の歴史と、人の歴史はちょっと違うからな」 「…?どういうことですか?」 「記念写真は苦手なんだ。だから基本、人は撮らない」 ――そんなこといったら 全部記念写真じゃないのか、と言葉がついて出てきそうだったが、これ以上話がこじれるのも嫌だったから折れることにした。ディベートは嫌いじゃないが、空気が読めない訳じゃないのだ。 ――ん? 「…でも、じゃあ何で僕に」 「カメラを向けたかって?兄ちゃんは撮ってみたかったんだ」 それだけ、とあっさり言われて肩の力が一気に抜ける。 「はは、まあ悪かった。帰り何か食うか?おごるぞ」 「良いです…今日は面白い物見せて貰ってありがとうございます…」 あんなに緊張して馬鹿みたいにきょどって、一気に体力を消耗した気分になった。元々そんなに体力がある方でもない。 「面白かったら、また適当に付き合うか」 「え」 「こういうのは俺は1人でやるんだが、ま、暇だったらくればいい」 「…僕撮るのは駄目ですよ」 「はは、厳しいねえ」 大丈夫大丈夫、と言いながらカメラをしまい、代わりに名刺を一枚寄越してくれた。裏面にはちょっと凝ったフォントの英語版がついている。 「透馬」 「!っは、はい?」 いきなり名前で呼ばれて声が裏返りそうになる。 「お前ハーフっつったけど、どこから来たの」 「…ニューヨークです、が」 「じゃ、人脈作りで一つ仲良くしてくれよ。俺もそっちでたまーに仕事するし」 ――ただの建築写真家じゃないの? 改めてこの人の正体が気になりながら、透馬は名刺をまじまじ見詰めた。家に帰ったらネットで調べてみよう。 「よし、帰るぞー」 「あ、はーい」 パチ、と電気が消されて、また階段を降りる。 角掛の鼻歌が階段に響いて、まるでビルに子守唄でも歌っているようだな、と思った。 「じゃ、暇にしてるんだったら電話すりゃとるな?」 「はい」 外に出て携帯電話の番号をせがまれた。諾々と情報を交換する。 「お前もデジカメとか持ってくりゃ、色々撮れて遊べるしさ」 いい話のタネになるぞ、と言われてそれもそうか、と思う。 どうせ暇にしているのだから、少し違う東京観光のつもりでいればいいのだろう。 ぼーっと考えていると、角掛がさっきの自販機でソーダを買って渡してくれた。 「長々と付き合わせて悪かった。気をつけて帰れよ」 キンと冷たい缶を手にして、ぺこりと頭を下げる。顔をあげたら笑顔があって、また胸がざわついた。 ――なんでこんな 格好いいと思ってしまうのだろうか。 答えが出ないまま、透馬は帰路についた。信号待ちをしている間に出てきた路地を見たら、車が一台反対の方へ走っていく。きっと角掛の車なんだろう。 「…カメラ、かあ」 撮られるのが苦手なのに、撮るなんて道理にかなわないと思っていたから、デジカメは持っていなかった。 ――昔はあんなに平気だったのに 夜の風に吹かれながら、久しぶりに思いだしそうになってしまう。何とか別の事を考えようと、持ってたアイポッドをつけて音量を大きくする。 ――あんな、カメラやフラッシュに囲まれたことなんてない ないんだ、あれは夢だ、と言い聞かせて駆け出した。 夏の街灯が、霞んで揺れても透馬は走るのをやめなかった。 |