序幕(一)




 美しい音色が聴こえる。
 良く耳を澄ましてみれば、それはピアノの音なのだった。高く低く、奏でられる音色。
 聞き覚えの無い曲だった。どこか懐かしく、胸を締め付けられるような――切ない旋律。
 ……瞼が、重い。
 ふわふわと意識が揺らいだ。
 何もかも放り出して音の世界に身を委ねてしまいたくなる。
 自分がどこにいるのか、誰なのか……忘れそうになる。そう。忘れ、……忘れて。そうしてしまえば私は――――



。居眠りするならもう少し目立たないようにやれ」



 ぱこーん、と頭に軽い衝撃が走った。
 思わずはっと目が開いた。
 見慣れた教室の風景が目に飛び込んでくる。クラスメイトがみんな、噴き出す寸前のような顔をして此方を見ていた。どうやらまた授業中に、うとうとしてしまったらしかった。
 隣りに人の気配がする。
 恐る恐る振り仰ぐと、教師は丸めた教科書を片手にを見下ろしていた。いかめしく口を引き結んでいるが、銀縁眼鏡の奥の目はいたずらっぽく笑っている。

「あと5分だけだから、チャイムが鳴るまで廊下に立っていなさい。――まさか立ったまま寝たりは出来ないだろうからな」

 冗談めかした言い方に、教室は爆笑の渦に包まれた。



「いやあ、今日のシンちゃんは冴えてるね。まさかさんにツッコミ入れるとは思わなかった」
 千石は授業が終わるなり、亜久津の方へと身体の向きを変えた。どうやら話したくてあれからずっとうずうずしていたらしい。
「ね、笑っちゃうだろ。シンちゃんボケキャラだと思ってたんだけどさ、案外ツッコミの才能もあるかもね」
「フン。漫才じゃねーだろ、あんなもんは」
「あれ? 亜久津にはウケなかったかい。さんのきょとんとした顔、最高だったんだけどなあ」
「ちっとも笑えねえな」
 ばっさり切り捨てて、亜久津はそっぽを向いた。だいたい亜久津の席はの真後ろだ。がどんな表情だったかなんて分かるはずもない。まあ寝起きの顔くらい既に知ってはいるのだが。
「……ただいま」
 そこへ当の本人、が戻って来た。自分の座席に腰を下ろして大きく溜め息をつく。さっそく千石が声を掛けた。
「お帰り、さん。どう? 廊下では良く眠れた?」
「……千石、皮肉言うなんて酷い。私、真剣に反省してるんだから」
「まぁまぁ、お笑いで済んで良かったじゃん。国語のマツキョーなんかだったら大変でしょ。きっと『放課後に反省文、二十枚ですッ』だよ?」
「どの先生の授業でも一緒よ。居眠りしちゃうなんて、もう最悪。期末テストも近いのに、夜は良く眠れないし、こんな状態じゃ――」
「ま、さっさと諦めるんだな」
「亜久津ー、その言い方はないって。だいたいアレだろ? 亜久津が労わってあげないから、さんが寝不足になってだな」
 言い終わらない内に亜久津が蹴りを入れ、千石はカエルが潰れたような奇声を上げた。追い討ちをかけるようにの消しゴムが額の真ん中にヒットする。
「……ひ、酷いなあ。ちょっとギャグかましただけなのにサ」
「自己管理くらいしっかりしてます。下ネタ禁止。次言ったら絶交だからね」
「先生も同感だな。――千石、そのくらいにしておけ。女の子にそういう事を言うのはマナー違反だぞ」
 背後から突然聞こえてきた声に、千石は泣きまねを止めた。いつの間にかさっきの教師がそこで苦笑いしていた。
 は顔色を変えてガタンと立ち上がった。
「に、新垣先生」
「げっ、シンちゃん。いつから居たの? 背ぇ高い癖に存在感薄いから分からなかった」
「千石はいつも一言余計だなあ。も、人に物をぶつけたりするもんじゃないぞ。いくら消しゴムでも目に入ったりしたら危ないからな」
「先生――あの、今の話は、その」
「聞かなかったことにするから安心しとけ。それより、さっきは具合が悪かった訳じゃないな?」
 は真っ赤になってこくこくと頷いた。教師が破顔する。
「そうか、ならいい。何も訊かないで廊下に追い出したから、少し気になってたんだ。悪かったな」
「いえ、私の方こそ、授業中に済みませんでした。ちょっとピアノの音が聴こえて、気持ち良くてウトウトしてしまって……」
「ピアノ?」
 千石が、あれ、と首を傾げた。
「俺は起きてたけど、そんなの全然聴こえなかったな。さっきの時間はどのクラスも音楽室を使わない筈だし。変だなあ」
「――まあ、そういうこともあるだろう。近所の家かも知れないしな。もあまり気にするな。テスト前なんだから、無茶しないでゆっくり休むんだぞ」
 新垣教師はそう言って、ぽんぽんとの頭に手を置いた。それはさり気ない仕草だったが、亜久津は咄嗟にの腕を引いていた。はよろめくようにして椅子に倒れこむ。
 教師は一瞬ぽかんとしたが、やがて亜久津の鋭い眼光に気付くと手を引っ込めた。
「あー、今のは先生が拙かったかな。じゃあ、まぁ、そういう事で退散するか。千石、後はよろしく頼む」
「はいよっ。シンちゃん、またねー」
 教師が廊下へと消える。亜久津はふっと息を吐いて、ようやくの腕を放した。
「痛っ……何するのよ、仁!」
「うるせぇ。あいつはベタベタ触り過ぎなんだよ」
「単に頭撫でて励ましてくれただけじゃない。先生に失礼よ。仁とのことで会議室に呼び出された時も、伴田先生と一緒に庇ってくれたのに」
「あれは爺の腰巾着だからだろ」
「仁!」
 千石は慌てて止めに入った。全くこの二人、何かあるとすぐ口論になるところは全然変わらないんだから。
「そっ、それよりさー、二人とも! ビッグニュースがあるんだ。聞いてよ」
「どうせ下らねぇ噂話とかだろ?」
「違うよ。肝試しのことなんだけどさ――」
 途端にの表情が曇ったが、千石は構わず明るく続けた。
「今年はほら、全国大会があっただろう? それで遅くなって秋になっちゃったけどさ、今からでも悪くないし。亜久津も最後だし是非参加して欲しいって、南が」
「あぁ? 何のことだ、肝試し?」
 亜久津が話を遮ると、千石は今気付いたように頭を掻いた。
「あ、そうか。亜久津は昨年いなかったもんな。男子テニス部の恒例行事で、肝試しをやるんだ。夜に山吹中七不思議の場所を全部回るんだよ」
「校舎に忍び込んで、でしょう! だから昨年も止めようって言ったじゃない。肝試しなら日中にやればいいのよ」
「いやいや幽霊は夜に出るもんでしょ。それに雰囲気づくりってのも大事だしね。さんも亜久津と付き合い始めて、その辺理解してくれたと思ったんだけどなあ」
「それとこれとは、話が別」
 千石は軽く肩をすくめた。どうする? というように期待を込めて亜久津を見る。亜久津の答えはひとつだった。
「馬鹿馬鹿しいな」
「私もそう思うわ」
「くー、さんまで容赦ないなあ。いいよ、南と後輩に声掛けて回るから」
「ちょっと待って。……本当に今年もやるつもりなの?」
「当たり前だろう? 何、さんもやっぱり参加する気になった?」
「……参加したくはないけど、皆に何かあったら心配だし。仁、やっぱり参加し――ない、よね」
 本当は付いて来て欲しいのがありありと分かる口調だ。亜久津が一旦口にしたことを簡単に翻さないことを知っているだけに、素直には言えないのだろう。
 亜久津は頼まれても断るつもりだったが、それでも何となく居心地が悪い。
「いやあ、良かった。さんにも是非参加して欲しいって思ってたしさ。やっぱり女の子もいた方が盛り上がるからね」
 二人の小さな葛藤を知ってか知らずか、千石はにこにこしながら付け加えた。
「亜久津も気が向いたら参加してくれよ。俺達も待ってるからさ」