Let go. -6




「来る」

 数秒の時間を経た時、名取の静かな一言が響いた。彼は張り詰めた表情で紙を刺した棒を地面に突き立て、小さな声で呪文を詠唱し始めた。
 息を呑む。その場に居る人も妖も、皆が皆神経を研ぎ澄ませ、耳と眼を限界まで尖らせる。ざわざわと風が木々を揺らす音さえもうるさく感じる程だ。ほんの数瞬、一秒にも満たないような時間が数時間にも感じる。気を失ってしまいそうな緊張感の中、名取が呟く声が子どもたちの意識を繋ぐ。
 限界まで糸が張り詰めた瞬間、それは来た。

「行け!」

 ばしんと強い音を立てて名取の手に持った棒が弾かれた。呆気なく折れた枝の上を黒い妖がよぎる。妖を避けて地面に伏せた名取の上、棒により強制的に方向転換させられた妖が空を舞う。陣の真ん中に落ちた。
 途端、陣の文様たちが意志を持って妖に伸びた。後を追っていた名取の式たちが左右に逃げる。黒い紐のようになった文様が妖を絡め取った。
 ぐるりと紐が絡まり、音を立てて妖は引きずられた。壷目掛けて勢い良く流される。

「離すなよ、お前ら!」

 猫が叫んで三人の前に立った。恐怖心に抗い、子どもたちは眼をこじ開けて妖を見た。後ろで体勢を立て直して駆け寄ろうとする名取が視界の端に映る。
 土埃が舞い上がった。ドン、と強い衝撃と共に光が放たれ、妖が壷に収まる。

「蓋!」

 名取の声より一瞬早く、タキが壷に栓をした。衝撃で揺れていた壷の動きが収まる。ほんの一瞬の騒動が終わり、しんと森中が静まり返った。
 その場に居た人も妖も全員口をつぐむ。壷を囲んで、全員が緊張を解けないまま座り込んだ。
 ゆっくり寄ってきた名取が壷を拾う。もう一度蓋を押し込み、ぺしぺしと叩いて耳を近付ける。
 しばらく内部の音を聞いてから、ふっと息をつき名取は笑った。

「大丈夫だね。はい、終了」

 名取がそう告げた途端、全員の気が抜けた。みんな揃って大きく息をついてぺしゃりと地面に転がった。

「疲れたわ……」
「おれも……」
「危うく食われる所だったな、田沼の小僧」
「うん……ほんと死ぬかと思ったよ、おれ」
「助かって良かったねえ」

 場数を踏んでいるせいか何故か余裕のある名取は別として、人も妖も揃って草原に転がり青い顔でぜいぜいと息を継いでいる。見上げた空は既に茜色を通り越して青くなり始めていた。

「……夏目は、いつも、こんな事してるのか?」

 しばしの沈黙の後、田沼の声が小さく響いた。ひどく柔らかい声に心臓が痛むようで、夏目はぎゅっとシャツの裾を握り締めた。

「いつもじゃ、ないよ」
「ほんとに?」
「いつもじゃない。たまに、名取さんに巻き込まれたりするけど……」
「あはは、ごめんね」
「笑い事じゃないです……でも、名取さんが持ってくる事ばっかりじゃないし、名取さんが悪いわけじゃないし、いつもじゃないし」
「うん」
「心配、するような、ことは」
「でも、危ない目に遭ったでしょう、今日」

 タキの声が突き刺さる。とても優しいけれど、核心をつく響きに息が詰まる。

「確かに、私たちじゃ頼りないんだろうけど……でも、今日は」
「少しは力になれたか?」

 息を継ぐように、穏やかに伝える二人の言葉が染みるようだ。じっと浅い呼吸を繰り返し、夏目は手を握り締めた。

「……うん。ありがとう」

 精一杯の声でそう告げる。
 二人が安堵したように笑いを零した。

「そっかー」
「良かった。足手まといじゃなくて」

 柔らかい声がして、夏目は首を回して隣に転がる二人を見た。
 ゆっくり笑い合う声がする。優しさに満ちた音が暖かい。それはきっと、本当の、彼らの本音だった。

「いい友達を持ったねえ、夏目」
「……はい」

 じっと子どもたちの会話を聞いていた名取がぽんぽんと優しく夏目の頭を撫でた。その笑顔はいつもの胡散臭い笑顔ではなく、とても優しい。
 白い猫は何も言わずにただ夏目に擦り寄っていた。猫の温もりが身に染みる。
 今、夏目の眼に見えているものは全て本当の優しさなのだろう。心から大事に思うから、その人のために、怒って、泣いて、笑う。
 自身が今まで振り撒いていた優しさがいかに偽善的で偽物なのかを思い知る。
 ほわりと暖かい感情が沸き起こる。誰かを、友達を大事にするって、きっとこういう事なんだろう。
 忘れないでいたい。小さな温もりを積み重ねて、きっと少しずつ他人を理解して行く。友達や、家族と呼べる関係を築き上げて行く、その小さな課程のひとつひとつが大事なんだ。
 仰向けに寝転がったままの夏目の眼から、ひとすじ涙が落ちる。転がったままの友人たちはそれに気付かず、ただ傍らに座った名取が何もなかったかのような自然な仕草で頬に触れ、涙を払うのを感じた。

「さて、転がっていても仕方ない。早く降りないと真っ暗になっちゃうよ」
「あ、それやばい。遭難するぞ」
「え、ほんと? 田沼くん」
「ほんとに遭難した人いるんだってさ。急ごうぜ、ほら夏目も起きろ」

 促され夏目も起き上がる。涙はもう止まっていた。全員揃ってばさばさと服についた埃や草を払う。
 見上げた空は暗くなり始めていた。夜が近い。

「よーし帰ろうか。みんな晩ご飯食べるだろう?」
「食べますけど」
「お腹すいたね、そういえば」
「走り回ったもんな、おれも腹減った」
「私もだ。エネルギー切れしておる!」
「そうだろうねえ。家の人に連絡して、平気そうならみんな一緒に行こうか。君たちのおかげで仕事が片付いたようなものだし、奢るよ。何食べたい?」
「「「肉!!」」」

 三人分の声が静かな山に合唱する。
 そこにいる人と妖は揃って顔を見合わせて吹き出した。



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2009/03/21