ヤケに早く目覚めた朝。 久し振りの休日なのに…。と、少し悔しさを感じながらも、カーテンの隙間から差し込む朝の日差しと小鳥のさえずりに、掛け布団を抱きこんで再び眠りにつこうとした目が自然に開く。 天気よさそうだなぁ… 勿体無いなぁ… 布団…干そうかな。 うーん、と伸びをして、ヨシ。と気合を入れると、ガバッと勢いをつけて起き上がる。 まずはじめにカーテンをあけて、朝陽を全身に浴びて脳を覚ます。 そして窓をあけ、吹き込んでくる爽やかな風を思いっきり深呼吸をして吸い込み、もう一度、両腕を天井に伸ばして伸びをする。 「あ〜っ…気持ちいい…」 なんとなく、自然と顔が綻ぶ。 仕事のときはそれだけで頭がいっぱいで、せわしなく過ぎていく時の流れも、休日の今日は青空を流れる雲のように、ゆっくりと進んでいるようで不思議だ。 大学を卒業して、地元のアパレルメーカーに就職して、この辺りでは一番大きなショッピングモールの中にある店に配属されて働くようになってもうすぐ3年。 売り上げも上々、やりがいもある。業績を買われて本部の役員からそろそろ店長を任せようかと思う。とも言われている。 結構充実した日々だと思う。 ただ不満があるとすれば、少々休みが少ないこと。 季節の変わり目のバーゲンシーズンが近づくと、週1の休みなんて当たり前。 酷いときは7連勤とか9連勤とか…14連勤だったこともある。 しかも12時間のフルタイム労働。 かなりやつれて死に掛けて、それをカバーするための化粧品の消耗も、笑顔を造るための筋肉の張り具合も凄まじい。 それでもこうして続けられるのは、この仕事が好きだからなんだと思う。 そうしてこの仕事にのめり込んで、忘れかけている存在がある。 高校時代から付き合っている、同級生の安西智成(あんざいともなり)。 彼は今も、肩書きは私の恋人。 だけど、私の中でも恋人なのかと聞かれると、正直最近は返事に困る。 智成のほうも大学を卒業してから結構有名な企業に就職して、今は転勤で他県で働いている。 所謂、遠距離恋愛ってヤツ。 彼の転勤が決まったときに、一度結婚の話が持ち上がったんだけど、その頃私もこの仕事に慣れ始めたときで、まだ「結婚」の2文字に囚われたくなかった。 智成もそれを理解してくれて、俺が戻るまで浮気すんなよ?という言葉を残して転勤先へと引っ越して行った。 はじめのうちはお互いの行動を監視するかのように、毎日と言っていいほど連絡をとりあっていたし、彼が長期休暇で戻ってきたときは無理してでも会っていた。 だけどお互いに仕事に慣れ、色々任されるようになると必然と連絡をとりあう時間が削られるようになった。 彼とのすれ違いが多くなった。 智成が連休で戻ってこれる時期は、私はセールで振り回されて、私が連休をとれる時期は、智成が逆に忙しい。 最近では新しいプロジェクトの担当に抜擢されたらしく、更に忙しくなって連休でも帰ってこない。 だからもう、半年ほど智成と会っていない。 声も、2ヶ月?…3ヶ月?…最後いつ聞いたか忘れるぐらいに聞いていない。 昔の私ならこんな事が続けば、他に女が出来たんじゃ…。って、夜も眠れないくらい悩んでいただろう。 だけど、それならそれで仕方ないかも…。と、思い始めている私は…。 よいしょっ。という掛け声と共に、ベランダの手すりに敷布団をバサッと引っ掛ける。 パン、パンッ。と、2.3度軽く叩いて慣らしてから、ふぅ。と、そこに寄りかかり青く晴れ渡る空を見上げた。 ゆっくりと、視界の中で右から左へと真っ白な雲が流れて行く。 私、智成のことまだ好きなのかな… それを眺めながら、ポツリとそんな言葉が脳裏を過る。 最近は会えなくても平気になった、声が聞けなくても不安にならなくなった。 私の中の智成の存在が、段々薄れてきている気がする。 そう思っても切ない気持ちにならなくなった。 日々の仕事が忙しすぎて、そこまで頭がまわらないというのもある。 だけど、それだけなんだろうか… 慣れ始めてる?…智成のいない生活に。 満足してしまっているんだろうか…この忙しい毎日に。 だとしたら、智成の存在って一体…… もしかして、智成も私と同じようなことを思っているんじゃないだろうか。 ふと、そんな気がした。 私は、はぁ。と、軽くため息を漏らし、掛け布団なども干し終えてからサンダルを脱いで部屋に戻る。 壁掛け時計に目をやると、まだ時刻は朝の7時をまわったところ。 洗濯を終えて、簡単に部屋の掃除を済ませても、それから1時間ほどしか経っていない。 せっかくだし…クローゼットの中も整理しちゃおうかな。 ショップ店員ゆえにハンパじゃない服の量。 処分しても処分しても、気付けば納まりきらないほどに増えている。 ちょうど切り替え時期だしまた増えるから、前のデザインのものは処分しよう。と、クローゼットをあけ広げ、まだ使えるものと使えないものをわけていく。 ついでにその中にある小物類も手際よく振り分けて整理しながら。 そんなことに暫く時間を費やして、ふと目に止まったクローゼットの奥にあるCDの束が入っているクリアケース。 それを手に取り蓋をあけて、中身を一枚ずつ確認していく。 細かいヒビや割れ目が目立つ、少し年代を感じるCDケース。 洋楽だったり邦楽だったり…ジャンルは様々で統一性がないアルバムが数枚。 あー…コレ。智成が学生時代から集めていたCDの中でも、特にお気に入りのベストコレクションだ。 よく2人でいるときに、これらを流して聞いていたっけ。 全然興味がなかった私も、智成に感化されて気に入って。 おねだりしたらくれたんだよねぇ。 「俺の超お気に入りベストコレクション!香澄(かすみ)にやるよ。嬉しいだろぉ〜」 そう言って。 ……懐かしいなぁ。 ふふっ。と、思わず笑みが漏れる。 タイトルを見ただけで、音楽が頭に流れるほど繰り返し聞いた曲の数々。 曲を思い出すと、不思議とその頃の情景が次々と鮮明に脳裏に浮かんでくる。 智成に告白して、実は俺も好きだったんだってお互いに顔を赤らめながら付き合いはじめた日のことや。 はじめて手を繋いで帰った日は、2人して緊張しちゃって掌が汗だくになっていたり。 遊園地に遊びに行ったとき、電車の中で片方ずつイヤホンをつけてこの曲聴いたなぁ、とか。 喧嘩した日はこの曲聴きながら泣いたよね、とか。 仲直りした日に、実は俺もこの曲聴いて泣いてた、なんて冗談を言ってくる智成と笑ったりして。 抱きしめられた時の、智成の温もりだったり匂いだったり、初めてキスをした時の甘酸っぱい気持ちも思い出したりなんかして。 あの頃からの智成との思い出が、CDを一つ手にとるたびに走馬灯のように次々と脳裏を過っていく。 そして最後の1枚を手に取ったとき、思わずクリアケースを床に置いて見入ってしまった。 忘れかけていた記憶が、これを手にしたことで一気にフラッシュバックする。 そう、これは私にとって特別な意味を持つもの。 智成の部屋でこのアルバムを聞きながら、特別な日だから記念に。って、言って、ジャケットなんて無視して彼がケースにマジックで書いた、落書きと日付が今もここに残っている。 何度か拒んで、やっと意を決して覚悟を決めた日。 覚悟はしたけど、やっぱり怖くてしかたなくて。 智成は、いつまででも待つから無理するな?って、優しく頭を撫でてくれた。 そう…優しいんだ、智成って。すごく優しい。 いつだって私のことを最優先に考えてくれて、自分だって何もかもが初めてだったくせに、私を不安にさせまいと余裕ぶったりして。 温かくて大好きだった…智成のこと。 彼の傍にいると凄く安心できて、大好きだった。 だから、初めて彼と心も身体も一つになれた日に流していたこのアルバムは、私にとって忘れられない特別なもの。 智成も、俺たちの一番大切な思い出の品だよな?ってこれを見るたびに言っていた。 だから、ずっと捨てずに今でもこうして残してある。 不意に曲が聴きたくなって、CDをケースから取り出し、コンポの電源をONにする。 ボリュームを適度な音量にあわせて再生を押すと、スピーカーから思い出の曲が流れ始める。 目を閉じてみた。 途端に、ふわっと温かいものに包み込まれた気がした。 覚えてる…今も鮮明に。 初めて一つになれた時の智成の体の重みも、痛みも…ぎこちなく刻まれてたリズムも。 何度も耳元で囁いてくれた、好きだ。って言葉も、智成の温もりも全部覚えてる。 好きだって言葉から、愛してる。に変わって。 大人になるにつれて体つきや顔つきが変わっても、気持ちだけは変わらなかった。 ――――今でも…? そう、自分に問いかけてみる。 ……うん。そうだね… やっぱり答えは一つしか思い浮かばない。 今でも変わってないよ。 やっぱり私は、今でも智成が大好き。 好きだよ、智成…やっぱり智成が大好きだよ。 いくら仕事が忙しくて、やりがいがあって充実してても、心までは満たしてくれない。 こうして仕事を頑張ってこれたのも、日々が充実しているように思えたのも、智成に会って充電できていたから。 智成の声で癒されて、智成の温もりで元気を取り戻せていた。 だから頑張っていられたの。 それなのに忙しさにかまけて、そんな大切なことを忘れてしまって。 好きかどうかも分からないだなんて… ねえ、智成… 今、すごく智成の声が聞きたい。 会って思いっきり抱きしめて欲しい。 CDケースに書かれた智成独特の文字から、視線を壁掛け時計に移す。 時刻はお昼の12時を少しまわったところ。 運がよければお昼休みとぶつかるかもしれない。 出てくれるかどうかわからないけれど…とにかく少しでも彼の声が聞きたくて。 いてもたってもいられなくて、私はカバンから携帯を取り出す。 …と、同時に鳴り出す特定の相手を示す携帯の着信音。 えっ!?な、なんでっ? びっくりして危うく落しそうになりながら、私は慌てて電話に出る。 「もっ…もしもし?!」 『…あ、香澄?あぁー、よかった。ダメもとでかけてみたんだけど…今日休み?』 智成…どうして急に…? こんな時間にかけてきたことなんて一度もなかったのに。 「う、うん…セール明けで久々の休みなの。智成こそ、どうしたの?こんな時間に…今日休み?」 久々に聞く智成の声。 その声に胸の奥が締め付けられて、体が震え、声までも震えているように思う。 激しく高鳴る鼓動を抑えるように、私はギュッと胸元を握り締めた。 まるで、付き合いはじめた頃に戻ったみたいにドキドキする。そんな事を思いながら。 『いや…取引先へ移動中の車ん中。すっげー腹減ったからコンビニでパン買って食ってるとこ』 「そう…なんだ。相変わらず忙しそうね?」 『もー、忙しすぎてゲロ吐きそうだって…』 「やっ、ちょっと…きたないぃぃ〜〜」 相変わらずのおどけた口調で言ってくる智成の言葉に、少し笑みを零しながら返事を返す。 まだ、心臓はバクバク言ってるけれど。 胸元を握り締めたままの恰好だけど。 多分、私も相変わらずの反応だと思う。 やっぱりいいな…この感じ。 『あははっ!悪い、悪い。いやまあ、マジで。忙しすぎてお前の声、暫く聞けてねえな〜って思ってさ』 「智成…」 『だし、すっげー無性に聞きたくなったんだ…香澄の声…』 少しトーンダウンした声。 智成が真顔に変わったのが窺い知れる。 『今さ、営業車でまわってんだけど、CDとか積めなくてラジオしか聞けねんだけどさ…俺の超お気に入りのベストコレクションの中の一つが、特集でずっとさっきから流れてんだよね。それ聴いてたらさ…いてもたってもいらんなくなって。ダメもとでかけてみた』 覚えてる?ハジメテの時に聴いてた思い出の曲。ほら、俺が落書きしたヤツ。と、懐かしそうに智成が言う。 嘘…智成も同じように思い出の曲を聴いてたの? それで私と同じように声が聞きたくなって…? 目頭がじわっと熱くなり、喉の奥が痛くなる。 『ごめんな、香澄。俺、仕事にかまけてお前のこと……』 「私もっ…ごめん!」 智成の声に被せるように発した言葉に、…え?と、戸惑い気味の彼の声が聞こえてくる。 「私…毎日充実してて、それなりに今の生活にも満足してて…それって、仕事が順調にいってるからだと思ってた。毎日忙しくて、店長の話も出ててさ。今の私って智成がいなくても別に平気じゃんっ。て、思ったりして…」 『かす…み?』 「自分の気持ち…見失いかけてた。大切なもの、危うく失うところだった。私もね、偶然聴いてたの…今、その曲を…。私たちが、一番大切にしようねって言ってたあの思い出のアルバムを…」 心地よい音量で流れる曲。 それを耳にしながらコンポ前に立てかけた、落書き付のCDケースを再び手に取る。 「…色々思い出してた、智成とのこと。それで思ったの…こうして仕事を頑張れるのも、毎日が充実しているように思えるのも、智成の存在があるからなんだって。いつも支えてくれて、応援してくれて、ずっと私を愛してくれている智成がいるからこそ、仕事に打ち込むことができている。それなのに、私ったら智成への気持ちを忘れて…私…わたしっ…ごめっ…」 『香澄…泣くなよ。謝らなくてもいい…俺だってそれなら同罪なんだ。仕事にやりがいを感じて、大きなプロジェクトも任せてもらえるようになってさ。正直、ここ数ヶ月俺の頭の中は仕事のことでいっぱいで、香澄の存在が薄くなってた…いつでもお前を迎えられるようにって頑張ってたはずなのにさ。香澄に対する気持ちさえも自信が持てなくなりつつあった…』 「智成…」 『だけど、そうじゃねえだろっ?って、今さっき気付いた。昔の俺に怒鳴られた気分だったよ…お前、一生懸けて香澄を護っていくんじゃなかったのかよっ!て。香澄、ごめんな?大切なことを忘れそうになって…俺は今でも香澄を愛してるよ。あの頃と変わらず…いや、それ以上にお前を愛してる』 「ともっ…」 私は、溢れる涙をそのままにCDケースをギュッと胸に抱きしめ、声を殺して泣いた。 ごめんね…智成、本当にごめんね… 私も智成を愛してるから… 忘れかけてたあなたへの気持ち。 偶然にも今日、2人して思い出の曲に触れることになったのは きっと、過去の私たちが教えにきてくれたんだね。 大事な事…忘れないで、って。 『今度の週末…お前に会いにいくよ。朝一から押しかけてやるから、なんとか休みとれよ?まあ…無理にとは言わねえけどさ…』 「やだっ」 『……え?』 「仕事が終わってすぐに来てくれなきゃイヤ…」 『クスクス。わかった…仕事が終わったら即行で車をぶっ飛ばしていく。ただし、覚悟しとけよ?そのままベッドへ直行、朝まで寝かせてやらねえから』 「クスクス…智成が先に寝ちゃったりして?」 『眠れるわけねえだろ?溜まりに溜まってんのにさ…満足するまで、ぜってー眠らん!』 「もう、何言ってんのよ…バカ」 鼻声交じりの笑いを含んだ、呆れたような私の声に、智成も同じように笑う。 そして、暫く間を置いてから優しく囁いてきた。 『…香澄?』 「…ん?」 『週末、待ってろな?』 「ん…待ってる。頑張って早く帰って来てね?」 『あぁ…頑張るよ』 お互いに見失いかけてた、大切な気持ち。 それに気付かせてくれたのは、大切にしてきた思い出。 私たちが一つになれた日の思い出が、離れそうになった2人の気持ちを再び繋ぎとめてくれた。 仕事でもなんでも頑張れるのは、愛してくれる存在、大切にしたい存在がいるからこそ。 私たちは、もう二度と自分の気持ちを見失ったりなんかしない。 だって、私たちには大切な思い出という宝物が形としてここにあるから。 マジックで落書きと日付が書き込まれているCDケースをコンポの前に立てかけ、私は心の中でそっと囁いた ――――…ありがとう。って。 + + Fin + + |