青木との関係を断ち切ってから二週間ほどが過ぎた。 その間何事もなく、青木から接触してくることもなくて、プライドの高いあいつにしてはヤケに綺麗サッパリ諦めてくれたもんだと俺の脳裏からその存在が消えつつあった。 他の女とも少し前から連絡を取っていない。 電話がかかってきても取ってすらいない。 そう…俺は無意識的に一人の女に絞り始めていたらしい。 どこまでも従順でひたむきで、真っ直ぐに気持ちをぶつけてくる健気な子犬に。 その証拠に今まで“たびたび”だったものが“頻繁”に呼び出すようになって、随分俺の中での里悠の存在が変わったように思う。 少しずつ俺が変わり始めている… 少しずつ俺たちの関係が変わろうとしはじめている… 一体俺はどこへ向かって歩きはじめてしまったのだろうか。 「あっ、あのね先輩…今日、家庭科の実習でパウンドケーキを焼いたんです。 それで、ちょうど連絡をもらっていたし蒼斗先輩にも食べて欲しいなぁって思って…一口サイズでちょっとしかないんですけど…よかったら食べてください」 いつもの工場2階にある、元事務所として使われていた部屋。 そこで頬を紅く染めながら、少し照れくさそうに里悠は不透明な入れ物を差し出してくる。 俺はそれを受け取り蓋をあけてみる。 途端にふわっと甘い香りが漂ってきた。 「へぇ…パウンドケーキねぇ。 食えんの?コレ。 お前が作ったんだろ?」 「わっ、ひどっ。 ちゃっ、ちゃんと食べられますよ!私も食べたし…ちゃんとおいしかったです!」 必死に力説してくるその姿が面白くて、思わずククッと笑いが零れる。 そして同時に意地悪めいた言葉が漏れていた。 「ふーん。美味しいって太鼓判押すわけだ? なら、俺が不味いって思ったらどうすんだよ、お前」 「え…そ、それは…」 こんな反応が返ってくるとは思ってもいなかったらしい里悠は、途端に不安げな表情になって口ごもる。 そんな姿に俺の口の端がニヤリとあがった。 「不味かったらお前お仕置きな。 ノーパン、ノーブラで帰るつもりしとけよ」 「げっ! なっ、なんでそうなるんですかっ!! この間の一掃清掃の日も結局パンツ返してもらえなかったし…恥ずかしかったんですよ?めっちゃくちゃ恥ずかしかったんですよ、あの日!」 「だから? 俺の知ったこっちゃねえよ。お前が俺の気に入らないことをするのが悪いんだろうが。 それに、何?一丁前に口答えするわけ? ほぉ。偉くなったもんだなぁ、俺のマスコットは」 「あぅっ…すいません」 若干不服そうに口を尖らせながらも、結局はこうして逆らおうとしない里悠。 俺の言ったことを忠実に守ろうとする姿勢が真っ直ぐすぎるというかなんというか。 どこまで従順なんだか…って、俺が言うのもなんだけど。 「…で?どうでもいいけど、俺にケーキだけ食えってか?」 「え…」 「ちょっと気を利かせて甘いものにはコーヒーでも…って、なんないわけ?」 「あっ!そっそうですよね。えと…コーヒーですね!確か、この間インスタントのを買ったから… あった!!すっ、すぐ用意しますから!あの、コンロお借りしますね!!」 里悠は慌てて簡易コンロの前に立ち、いそいそと準備をし始める。 その様子をなんとなしに眺めながら待っていると、ほどなくして独特の香ばしい匂いが俺の元に届いた。 差し出されたカップを受け取り一口飲んでみる。 自分の教えた通りの味に満足げな笑みが漏れた。 「コーヒー濃い目のクリープ入りで砂糖がいらないっての、一度しか言ってねえけど覚えてたのか?」 「はいっ!もちろん!! 先輩に関することは絶対に忘れちゃいけないって思って」 「ふ〜ん。 あっそ」 尻尾を千切れんばかりに振っていそうな里悠の嬉しそうな声に対して、俺はそんな気のない返事を返し、またコーヒーを一口すする。 内心悦びのような感覚があることを隠すように。 「さて、と…じゃあ、お前は脱ぐ用意しとけよ?」 「なっ?! たっ食べてからにしてくださいよぉっ!!」 「クククッ。 えらく自信満々なんだな。へ〜ぇ。そんなに上手く焼けたわけだ? 楽しみ楽しみ」 意地悪く笑いながら俺がパウンドケーキを手に取ると、ゴクン。と里悠が喉を鳴らすのがわかった。 そして一口かじると更に身を乗り出して反応を窺ってくる。 その眼差しはかなり真剣で、微妙に俺の顔が引き攣った。 ………つか、どんだけ気にしてんだよ。 だけど、そこまで気にされると俺もついつい意地悪を言いたくなるわけで 「マズっ…」 開口一番、そんな風に口が動いていた。 「え……う、嘘ぉ。 不味かった…ですか…」 しゅんと肩を落として心底落胆したように見える里悠。 余程の自信作だったのか、それとも俺の喜ぶ顔が見たかったのか…どちらにせよ、悪い反応は返ってこないだろうと思っていたことが窺い知れた。 少々生地のキメが荒くて若干俺的には甘く感じるパウンドケーキ。 でも、正直言って悪くはない。 むしろ、もう少し量があっても…と、思う俺がいた。 俺は気落ちして俯いてしまった里悠を尻目にコーヒーを一口飲んでから、里悠の頭を軽くクシャクシャッと撫でてやった。 「なんてな」 「え?」 「ま、お前にしちゃ上出来なんじゃね?」 「ほっホントに? 不味く…ないですか?」 「あぁ、飛び切り美味くもねえけどな。 嫌いじゃないよ」 そう言って残りの分を口に放り込むと、隣りに座った里悠の口から大きな安堵のため息が漏れた。 「よかったぁ〜。蒼斗先輩にそう言ってもらえたらいいなぁって思いながら作ってたから…すごく嬉しいです」 心底ホッとしたように息を吐き出した里悠。 そしてそのまま向けられた微笑みに暫し俺の視線が止まった。 ついこの間まで中学生が抜けきらないようなガキ臭い顔をしていたくせに、今自分の前で微笑んでいる里悠はどこか“女”を匂わせる色気を持っている。 色々“特権”として里悠の身体を弄っている時、普段見せることのない“女の顔”をすることは度々目にするようになったから気付いていたけれど、素に近い状態でも色気を持ち始めたなんて…と、少しばかり意表をつかれてしまった。 コイツ…いつの間にこんな… 「あの…先輩?」 ジッと見られていることが気になったのか、里悠が不思議そうに首を傾げる。 俺はその声にハッと我に返り、自分が里悠に見入ってしまっていたことに気付かされた。 その僅かな動揺を悟られないようにと俺は背中をソファに預けニヤリとした笑みを作って見せた。 さて…どうやって誤魔化すか。 つと飛ばした指先にその答えはすぐに出た。 「里悠…パウンドケーキのお陰で俺の指がベタついてんだけど」 「あ゛っ!そうだ…フォーク! ひゃーっ!すっすいませんっ…そこまで気がまわらず…」 「そう思うならお前が綺麗にしろよ」 「はい?」 意味が分からないというような表情を浮かべた里悠に対し、今度は本物の意地悪めいた笑みが俺の顔に表れた。 里悠を苛める為の材料ならすぐにでもかき集められるから面白い。 次の反応をあらかた予想しながら、俺は汚れていない方の腕をソファの背に引っ掛ける。 そして、パウンドケーキによってベタついたほうの指先を里悠の前に差し出した。 「舐めて綺麗にしろよ」 「え゛っ…私が…ですか?」 「お前の他に誰かこの部屋にいんの?」 「ですよね…いない、ですよね…」 「で。俺が言ったことは絶…」 「わーっ! わかってます!やります、やりますっ!!」 なんとなく、やればいいんでしょ!的な口調が気になりはしたけれど、当の本人は至って真面目に言っているのが伝わってきたから敢えてツッコミはしなかった。 里悠は俺の方に体を向けて座り直し、若干頬を紅く染めてその手を取る。 そして少し俯き加減に、そっと俺の人差し指を躊躇いがちに口に含ませた。 “クソ”がつくほど従順な里悠。 俺が言ったことは絶対で、決して逆らおうとはしない。 そんな里悠を満足げに見ている俺は間違いなくサディストの血が流れているんだろう。 ねっとりと、絡みつくような里悠の熱い舌が俺の指先を撫でる。 唇が指の付け根から先まで這って、最後チュッ。と小さい音を立てて一旦離れる。 また指を口に含み舌で舐めまわし、吸い取るように唇を這わせる。 その一連の動作を里悠は人差し指と親指交互に行った。 最初の頃は硬直してしまうほどガチガチだったけれど、随分舌使いが上手くなったと思う。 指先に感じる刺激に触発されて、じわじわと自分の体が熱くなってくるのがわかる。 里悠の赤い舌がチラッと見えるたびに、自分の指がそれを絡めとろうと無意識に動く。 里悠は、俺を誘うように時折潤んだ視線を投げかけながら、それでも恥ずかしいのかすぐにそれを下に逸らす。 俺はそんな里悠に視線を向けながら、自然とソファにかけていた腕が伸びて里悠の頬に指先が触れていた。 「指を綺麗にした次は何をしようか、里悠…お前ならどうする? たまにはお前から行動してこいよ」 何故こんな言葉を口にしたのかわからない。 もしかしたら、試してみたくなったのかもしれない。 俺が思う行動をコイツもするだろうか、と。 俺の言葉を受けて少し躊躇ったような素振りを見せた里悠だったけれど、すぐに身を寄せて唇を重ねてきた。 チュッ、チュッ。と、軽い音を立ててお互いの唇を啄ばむようにそれが動く。 そこから舌先が触れ合い、絡み合うような深いキスへと移り変わっていった。 里悠とするキスは嫌いじゃない。 いや、むしろ気に入っているんだろう。 元々唇を重ねるという行為をあまりするほうではなかった俺だけど、何故か里悠が相手だと自ら求めてしまう傾向にある。 今回もそうだった。 きっと俺も次はこうするだろうと思った。 だから、なんとなく満足感を覚え気分も良くなってくる。 ……悪くない。 コイツとするキスは悪くない。 コイツとこうして戯れる時間も悪くない。 そう、思い始めている俺は里悠にハマリつつあるのだろうか…。 《今日の放課後、誰もいなくなった頃に化学実験室に来てちょうだい。話があるの》 ある日突然、青木から携帯にそんなメールが入った。 もちろん、俺は行くつもりなんてなかった。 どうせそこへ赴いたところで、話の内容なんてわかりきっているからだ。 俺の中では完全に終わった関係。 今更話すことなど何もない。 だけど、二通目に来たメールの内容で少々事態が変わってきた。 《来なければ、あなたの可愛がっている子に全部ばらすわよ》 ……可愛がっている子。 俺の中で思い当たる人間は今のところ一人しかいない。 しかし、バレないようにと細心の注意を払ってアイツとは接しているつもりだ。 バレてはいないはず… なのに、少し胸騒ぎがする。 ここニ週間ほど全くコンタクトを取ってこなかった青木が、突然よこしてきたメールの内容がこれだったからかもしれない。 青木のヤツ…なに考えてやがるんだ。 誰もいなくなった頃を見計らって、俺は一人指定された場所に向かう。 薄暗くなりつつある廊下を歩き、化学実験室に入ると薬品の混ざった臭いが鼻を掠めていった。 「ふふっ。やっぱり来た。 久し振りね、蒼斗」 もう既に待っていたらしい青木は、いつものように身体のラインがはっきりとわかるようなタイトな黒のスーツで身を纏い、教壇にもたれるようにして立っている。 長く伸びたサラサラのストレートヘアをかき上げる青木の唇には、相変わらず真紅の口紅が塗られていて、それがまた彼女の端麗さを際立たせていた。 「言ったはずだ…俺の名前を気安く呼ぶなと」 俺はポケットに手を突っ込み、鋭い視線を向けながらゆっくりと距離を縮める。 それに一切動揺を見せることはなく、不敵な笑みを浮かべたまま青木は俺が近づいてくるまで視線を動かさなかった。 「あら、随分な態度ね。 少し前まで深い深い男と女の関係だったのに?何度も抱いた女をそんな風に冷たくあしらうわけ?」 「もう、あんたとの関係は終わったんだ。 俺に関わってくるなって言ったよな」 そう、冷たく言い放つ俺に臆することなく、青木は更に自分でも距離を縮めてくると、俺の首の後ろに腕をまわしてきた。 その風に乗って、フッと、青木がつけている甘ったるい香水の香りが鼻を刺激してくる。 久し振りの人工的な香りに俄かに俺の眉間にシワが寄った。 「それはあなたが一方的に終わらせただけでしょう? 私はまだ終わってないわ」 「そんなの知るかよ。 それより、バラすって…一体誰の事を言ってるんだよ」 「ふふっ。気になる? でも、まだ教えてあげない。こちらの話が終わってからよ」 「俺はあんたと話すことなんて何もない。 いくら誘ってきても、俺は二度と乗るつもりもない。 こんな事をしても無駄だぜ?青木センセ」 「クスクス…乗るつもりはなくても身体は言う事を聞いてくれないんじゃない? あなただって血気盛んなお年頃だものね。こうして触れば…すぐに勃ってくる」 挑発的な視線を投げかけつつ、青木は片方の腕を下げて指先で制服の上から俺のモノを弄り始める。 青木の言葉どおり、刺激を受けて瞬く間に自身に力が漲り出した。 「ほら、もうこんなに勃っちゃった。 先生のナカに入れたくなってきたでしょ?」 少し勝ち誇ったような笑みを乗せて、青木は真紅の口紅が乗った唇を寄せてくる。 俺はそれを寸前のところで顔を背けてかわし、眉間にシワを寄せた状態で言葉を吐き出した。 「それは俺の意志で勃たせるもんじゃねえからな。 触られりゃすぐにおっ勃つだろうし、舐められりゃイクだろうよ。 ただ、入れるかどうかは俺の意志だ。いくら勃ったとしても、あんたとじゃその気になれないと言ったはずだ。意味わかるか?入れたくないんだよ。 俺は、もう二度とあんたを悦ばせるようなことはしない」 余程屈辱的な言葉だったんだろう。 それまで浮かんでいた表情は一変して消え、代わりに歯軋りの音が聞こえそうなほど顔を歪めた青木の表情があった。 青木は腕をおろし、そのまま俺の胸板を軽く打って体を突き放すと苛立たしげに荒く息を吐いた。 「はっ!なんなの、あなた。一体何様? 散々私の身体でいい思いをさせてあげたでしょう? なのになによこれ。随分生意気な口を叩くようになったじゃない」 「そりゃ、どうも。 あんた仕込みだから諦めたら? その身体を使って色々と豊富に経験させてもらったことに関しては素直に感謝してやるよ。ここまで成長できたのもあんたのお陰といえばお陰だし? だからと言って、このままあんたの飼い犬になるつもりは毛頭ない。 もう一度言う。あんたとの関係は終りだ。二度と俺に関わってくんな」 吐き捨てるように言い放ち、踵を返してこの部屋を去ろうと足を一歩踏み出した時だった。 「興味がなくなればすぐに捨てるのね。 そうやって色んな女と関係してはすぐに飽きて捨てるのよ、あなたって男は」 「………は?」 青木のその少し引っかかる言い方に眉間にシワを寄せながら振り返る。 未だ険しい顔をしたままの青木は、髪をかきあげてから腕を組んだ。 「私と関係している間も、あなた一体何人の女と関係を持った?そして何人の女を捨てた? また新しいオモチャを手に入れたみたいだけど、その娘もいつまで持つかしらね」 「なに言って…」 「今まで年上の女ばかり相手にしていたクセに、今度は随分可愛らしい子なのね。しかも、うちの学校の子だなんて。 あんな幼気(いたいけ)な少女を相手にして、また飽きたら捨てるの?あ〜可哀想。今までみたいに男慣れしていない子なのに…あなたに捨てられでもしたらどうなるか…」 「は?誰のことを言ってんだよ」 なんとなく、雲行きが怪しくなってきたのを感じていた。 険しい表情ながらも、どこか何かを企んでいるような青木の顔。 それが気になって仕方なかった。 話の内容からして、おそらく青木は里悠の存在を何らかの方法で知り得たんだろう。 あの二度目に来たメールも、やっぱり里悠を指していたんだと合点がいく。 だけど、メールにしても今にしても、なぜ里悠を引き合いに出してくるのか…それが少し引っかかる。 青木はもう一度髪をかき上げ一旦目を閉じると、再び挑戦的な表情を作りあげてきた。 そして、この部屋全体に響くくらいの大きめの声で言葉を吐き出した。 まるで目の前にいる俺ではなく、他の誰かに言い聞かせるように。 「桜坂蒼斗って男はこんな男よ。 平気で旦那がいる女とも寝るし、平気で何人もの女と関係を持つ。 興味がなくなれば平気で捨てるし、また新たなオモチャを手に入れる。 桜坂蒼斗にとって、女なんてそれぐらいの価値しかないの。 本気になったらお終いよ」 「誰に向かって言ってんだよ」 どうも俺に対して言っているように思えない青木の言葉。 それに訝しげに眉を寄せると、クスリ。と青木は笑って視線を俺を通り越してその奥へと向けた。 ちょうどその方向には、用具置き場に繋がるドアがある。 それにつられて俺も視線を向けると、背後から青木の声がまた響いた。 「わかったでしょ。 あなたがお熱をあげている相手がこんな最低なオトコだってことが。どれだけ好きになっても無駄なの。あなたも彼のオモチャの一つに過ぎないの。本気になればなるほど惨めになるのはあなたなのよ…志筑里悠さん?もう、いいわ。出ていらっしゃい」 「……………っ?!」 ギィッ…と、ドアが小さく軋んでその奥からゆっくりと里悠が姿を見せる。 その顔は青白く、今にも泣き出しそうなほどに瞳いっぱいに涙を溜めていた。 「里悠……。 おまっ、何考えてんだよっ!」 俺は体を翻し、ニヤリとした笑みを浮かべている青木の襟元に掴みかかる。 それでもしらっと言い返してくる様(さま)は、形勢逆転を確信したからだろうか。 「クスクス。初めて見せるわね、その表情。本気で怒った? なにって、別に?ありのままのあなたを教えてあげようと思って」 「おっまえ…」 「あははっ!なぁに?たかがオモチャに素性を知られたからって問題ないでしょう? また次の新しいオモチャを探せば済む話なんだし。それとも何かしら…彼女には特別な感情を抱いているとでも?」 ギリギリッと、今度は俺のほうが歯軋りを聞かせるほどに顔が歪む。 それにさもおかしそうに声を立てて笑ってから、スッとそれを引っ込めると少し声のトーンを抑え、囁くように青木は言った。 「あなたも、一番お気に入りのオモチャに捨てられればいいのよ。 あ〜…あなたの場合はもっと惨めかしら?初めて抱(いだ)いた恋心をあなたの素行が災いして砕かれちゃうんですもんね。クスクス…いい気味」 「な、んだと…」 「私を切るくらいだもの。 あなたがあの子に本気になりかけてるんだって調べてすぐにわかったわ。 だからメールであの子を引き合いに出したの。話があるってだけじゃ絶対にあなたは来ないって思った から。 彼女の名前を出して先手を打たれても困るから匂わせるだけのメールにした…でも、あなたはこうしてやってきた。 よっぽど大事なのね、彼女のことが」 「何が目的だ…」 「クスクス…目的? 確かに、スレてもいないし熟れてもいない、超真面目で真っ直ぐなチェリーちゃん。私とは正反対の子ね。 だから本気になっちゃったのかしら? でもね、そんな直向な子をあなたのような男の毒牙にかけてしまうなんてあまりにも可哀想だから、あなたは間違っているのよって教えてあげたのよ…教師としてね?」 「最っ低の教師だな。 テメーのことしか頭にないくせに、なに尤もそうなこと言ってんだよ」 「うふふっ。そうね、今のは嘘ね。 本当の目的は…私が味わった屈辱をあなたも味わえばいいって思ってる。 それには何が一番得策か…考えなくてもすぐに答えが出たわ。 あなたは彼女に捨てられる。最低の男だというレッテルを貼られてね。 それだけじゃない。三年間培ってきた優等生で硬派な桜坂蒼斗は瞬く間に崩れ去り、代わりに軟派で下劣な男なんだと学校中に広まるのよ」 「そんなことをすればあんただって…」 「クスクス…お生憎様。 私、教師をやめることになったの。旦那の転勤先が今度は海外になってね、どうしてもついてきて欲しいって頼み込まれちゃって。 日本の男の子は生意気な子が多くて飽きちゃったから、今度は金髪BOYと楽しもうかなぁって思って。 うふふっ。だから、これは私から蒼斗への置き土産ってことになるかしら」 最高でしょ?と、笑い声交じりに言われて、本気で殴りたい衝動に駆られた。 拳を震わせ、なんとか理性で思いとどまらせていると、目の前の青木は俺を通り越して少し張るように里悠に声をかけた。 ――――私を虚仮(こけ)にするからこうなるのよ。 そう、小さく呟いてから。 「志筑さん、わかった? いくら桜坂君に恋をしても無駄よ。いいように体を弄ばれて捨てられるのがオチなの。 もっと自分の身体を大切にしなさい。もっと幸せになれる恋愛をしなさい。 私の言ってることわかるわね?辛い思いをするのは志筑さん、あなたなのよ?」 青木の言葉を追うように、俺の顔も反射的に里悠に向く。 目が合った瞬間、里悠は唇を噛み締めて弾かれたようにこの部屋を飛び出して行った。 「里悠っ!!」 俺は青木の体を突き放すようにして離れると、里悠の後を追って駆け出した。 背後では、青木の勝ち誇ったような高らかな笑い声が響いていた。 |