化学実験室を飛び出し、全速力に近い速度で里悠を追う。 意外にも里悠は足が早いらしく、廊下のずっと先にその姿はあった。 「クソッ…」 俺は短くそう吐き捨て、より腕を大きく振って更に速度をあげた。 ……何故俺はこんなにも必死になって里悠を追いかけているんだろう。 走りながらそんな事を思っていた。 青木の言うように、たかがオモチャに俺の素行を知られたところで痛くも痒くもないはずだ。 面倒なことを言ってくるようなら切れば済む話だし、例えもし誰かにこの姿をバラされたとしても俺には何の不都合もない。 別にこの姿を直隠しにしてきたわけではなく、面倒くさいという理由で同じ生徒とは関係を持たないようにしていたから、たまたまバレていないだけの話。 硬派で優等生な姿も、周りの奴らが勝手に創り上げた虚像に過ぎない。 俺はただ、みんなが望む姿を演じていただけだ…子供の頃からずっと。 だから、バレたところで何の問題もない。 下劣で軟派な男なんだとレッテルを貼られようが別に何とも思わない。 その通りだという自覚があるから。 俺は、里悠を掴まえて弁解するために必死に追いかけているわけじゃない。 じゃあ、何故?―――― ――――……彼女には特別な感情を抱いているとでも? つまりは、そういうこと…だよな。 どんどん縮まる里悠との距離。 いくら意外に里悠の足が速かったとしても、その速度は俺に比べればたかが知れている。 もう腕を伸ばせば捕らえられるという所まで距離を縮めると、 「待てよ、里悠!」 その言葉と共に俺は里悠の腕をぐいっと掴んだ。 勢いを抑えられた里悠の足が止まる。 若干上がった息を整えるように、俺の口からひとつ大きな息が漏れた。 「待てって…」 俺の言葉にゆっくりと里悠がこちらに顔を向けてくる。 その瞳は真っ赤に染まり、顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。 それでも尚も溢れ出す涙を堪えるように、里悠は口を真一文字に閉める。 暫し無言のまま視線が絡み合う。 次に里悠から言われるだろう言葉は大体想像がついた。 それにどう返すか思考を張り巡らせていた俺は、里悠の口から零れた意外な台詞に言葉を失った。 「ごめんなさいっ!…ごめんなさい、ごめんなさい…」 「え……」 すぐには理解が出来なかった。 何故、里悠の口からそのような言葉が出てくるのか。 本来ならば、それは俺が言うべきはずの言葉… なのに、何故里悠が? 何も言えず、ただ見ているだけの俺に里悠は掴まれていない方の手で自分の顔を覆った。 「ごめんなさい…まさか蒼斗先輩が来るなんて思ってもいなくて。 今日の放課後青木先生に、あなたに忠告しておきたい事があるからって言われてあそこに呼ばれて…全然意味がわからなかったけれど、行かなくちゃいけない気がして…知らなかったんです!蒼斗先輩が来るなんて…すいません!」 「里悠…?」 「ごめんなさい…ごめんなさい。 私、何も聞いていません…何も見ていません。 だから…だからっ」 「里悠…里悠、待てって! おまっ、何言ってんだよ。なんで、お前が謝るんだって」 気が動転しているのか、俺の声など全く聞こえていないように、里悠は何度も、ごめんなさい。と繰り返す。 俺はその姿にどう対処していいのかわからず、暫く行動に移すことができなかった。 「ごめんなさい…本当に知らなかったんです…見たことも聞いたことも全部忘れます…誰にも言いません…だからっ…嫌いにならないで…捨てるなんて言わないで…私、先輩に言われた事なら何でもしますから…先輩のマスコットでいたいんです…だから、捨てるなんて言わないで…」 思い浮かんだものをそのまますぐに口にしているような里悠の言葉。 そんな里悠を前にして、何とも言えない気分になってくる。 胸を締め付けられるような、切ないような…罪悪感のようなこの気持ち。 こんな気分になったのは初めてだった。 俺は無意識にかき抱くように里悠の体を抱き寄せると、まわした腕に力を込めた。 「落ち着け、里悠。 俺はお前を捨てたりなんかしないから…とにかく落ち着け、な?」 俺の胸に顔を埋め、泣きじゃくる里悠を落ち着かせるようにその腕に更に力を込める。 本当は、もっと別の言葉をぶつけたいだろうに… 普通ならば、俺は罵られて当然のはずなのに。 里悠はそれを抑え込んでまで、こんな俺の傍に居たいと言う。 どこまでコイツは… なんでそんなにもこんな俺の傍に居たいと願う? 喜ぶべきはずの里悠の言葉に、俺は戸惑いを隠せなかった。 学校よりもどこか静かな場所に変えたほうがいいだろうと、里悠が少し落ち着くのを待ってから、俺はある施設へと場所を変えた。 そこはいつもの工場よりも近くにあり、制服であっても堂々と入れるこの街一番の寂れたラブホテル。 街のはずれにあり、設備も整っていなくて、華やかさなど微塵も感じられない今にも潰れそうな外観をしているけれど、低料金だという事と、中は意外と綺麗で清潔感を保たれていることから、ここら辺の学生の間ではちょっとした穴場だと人気があるらしい。 何よりも、制服であっても何のお咎めもなしに使わせてもらえるのが学生にとっては有難いこと。 噂だけ聞いていて、一度もここを使ったことはなかったけれど、噂どおり正面から堂々と制服で入っても誰が出てくるわけでもなく、すんなりと部屋に入ることが出来た。 もしかしたら、俺たちのような学生のお陰でこのホテルが持っているのかもしれないと、ふとそんな事が頭を過った。 多少のシステムは違えど、慣れた手付きで部屋を選び中に進んで行く俺の後を、里悠は何も言わずについてくる。 この場所がどういう場所なのか…いつもならそれをネタに里悠をからかうところだけど、当然のことながら今日は無言のまま俺も部屋に向かって歩いていた。 四畳半ほどの狭い部屋の中には、ベッドとテレビその下に小さな冷蔵庫があって、脇には二人掛け用の小さなソファが設置されている。 ちょうどビジネスホテルのシングルタイプの部屋にダブルベッドがある…そんな感じだ。 あとは風呂とトイレ。 必要最低限しか用意されていないけれど、それでも学生にとって目的を果たす為にはこれでも充分だろう。 外観とは裏腹に中は意外と綺麗だし、これなら女のほうも文句を言わずに使えると思う。 初めてこのホテルに足を踏み入れたけれど、学生の間で人気があるというのが納得できた。 「少しは落ち着いたか?」 ソファに腰掛け、じっと無言で床を見ている里悠に冷蔵庫から取り出したスポーツドリンクを手渡す。 それを受け取った里悠は、目は腫れていたけれど涙はもう止まったらしく、コクンと小さく頷いた。 俺も自分用に取り出したスポーツドリンクを一口飲み、ベッドの縁に腰掛けると軽く一つ息を吐く。 シーンと静まり返った室内。 エアコンの噴出し口から流れ出る風の音だけが、空しくこの部屋に響いていた。 きっと、俺から話をしない限り、里悠は何も言ってこないだろう。 少し前までの俺なら、それならそれで都合よくこの先も適当にこの関係を続けていたかもしれない。 しかし、俺にはもうそんな事は出来ないような気がした。 何から切り出せばいいのか… ペットボトルのキャップを閉めて、また一つ息を吐く。 それから、俺は徐に口を開いた。 また里悠を泣かせることになるとわかっていながら。 「青木が言っていたこと、本当だから」 「え…」 「俺は平気で旦那がいる女とも寝るし、特定の彼女なんていないから誘われて気分が乗れば誰とでも寝る。 お前が惚れたっていう男は、こんなヤツだよ」 「先輩…」 「お前にマスコット契約を持ちかけたのも、ちょっとした思い付きの遊びのつもりだった…」 「………っ…」 里悠の瞳から、またポロリと涙の粒が零れたのが視界の隅に映った。 俺はそれを直視することが出来ず、ペットボトルを持つ手に力が入る。 どんなに取り繕っても、今までの俺を隠し通せるわけじゃない。 かと言って本当の事を言えば、里悠が傷つくのもわかっている。 いや、もう既に漠然とでもこの契約がはじまった頃から俺の素行が里悠にはわかっていただろう。 それが今、俺が口にした事でハッキリとしたものに変わった……青ざめたように見える里悠の表情を見れば聞かずともそれが窺い知れる。 言わなければ良かったかもしれない。 遊びのつもりではじめたなんて酷な言葉。 だけど、俺の口から言わなければと思った。 自分が本気になりかけているからこそ、こんな俺とは決別させる為に… 「やめておけ…こんな俺なんて…」 「………っ!?」 「お前もわかったろ?俺がどんな男かって事が。 俺は遊びのつもりでお前の処女を奪おうとした。 色々教え込んだのも、何にも知らない無垢なお前の反応が新鮮で面白かったから…そんな事を平気で出来るんだよ。俺は、里悠が思っている以上に最低な男だ。だから、お前のような真っ直ぐで従順なヤツに、俺みたいな男は不釣合いなんだよ」 「そんなっ…」 里悠の表情がみるみる頼りないものに変わっていく。 まるでダンボール箱の片隅で小さく鳴いている捨てられた子犬のように。 そうさせたのは俺のクセに、思わず駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られた。 俺はそれを持っていたペットボトルを握り締めることで何とか堪え、ぎゅっと硬く目を閉じる。 ここで里悠を繋ぎとめるような甘い言葉を囁けば、コイツは喜んで俺の傍にいるだろう。 俺の気持ちが傾きはじめているんだと知れば尚更に。 だけどそれじゃあまりにも勝手が良すぎる話。 こうする方が、里悠の為にもきっといい… 「里悠…俺に処女を食われる前にお前が俺を捨てろ。こんな関係やめてやるって、お前から切れ…」 「せんぱい…」 里悠を視界から外すように、視線を逸らして言葉を吐き出す。 胸が張り裂けそうなほどに痛んだ気がした。 ――――初めて抱(いだ)いた恋心をあなたの素行が災いして砕かれちゃうんですもんね。 その通りになったぜ、青木。 初めて抱いたものを伝える事も出来ず、己のせいで大切なものを失う。 数倍も傷つけたであろう里悠を思い、俺はこの先ずっと罪悪感に苛まれる。 当然の報いか… 自嘲気味な笑いが俺の口から漏れた時、里悠の消え入りそうな声が耳に届いた。 「めいわく…ですか?」 「え……」 「私が先輩のマスコットでいること…迷惑…ですか?」 「迷惑って…おまえ…」 戸惑う俺に視線を向けて、里悠はゆっくりと立ち上がる。 その目は涙で真っ赤に染まっていたけれど、何かを覚悟したようにも、ふっ切れたようにも見えた。 「私は蒼斗先輩の傍にいたい…たとえ複数の中の一人だとしても…」 「里悠…」 「最初から先輩のただ一人の特別な存在になれるなんて思っていません…私は先輩のマスコットってだけでも充分に幸せなんです…」 ポツリポツリと言葉を零しながら、里悠はゆっくりと俺のもとへとやってくる。 そして目の前に立つと一つ息を吐き出してから、ややはっきりとした声で言葉を繋げた。 「遊びでもいい…オモチャでもいいんです。 迷惑でないのなら、先輩の傍にいさせてください」 「おまえ…なんでそこまで…」 「先輩のことが好きだからです」 はっきりと聞こえたその言葉に、トクンと一つ脈が打つ。 俺はペットボトルを握り締めたまま、今一度しっかりと里悠を見た。 「蒼斗先輩が好きだから…大好きだから。 どんな形でも傍にいたいんです」 「………りゆ…」 「どんな姿を見せられても、この気持ちが変わることはなかった。 ううん…むしろずっとずっと好きになっていました。 だから、先輩の傍にいたい…ただそれだけでいいんです。邪魔もしません…気持ちを返してくれなんて我侭も言いません。今までのように気が向いた時にかまってもらえるだけで、私は充分幸せなんです」 「……………」 里悠の言葉に開きかけた口が空気だけを飲みこみ、そこから言葉を吐き出す事が出来なかった。 いや…どう返していいのかわからないと言ったほうが正しいかもしれない。 俺の中ではもう、里悠はただのマスコットではなくなっている。 ただ一人の特別な存在だと言っていいほどに、俺の中の里悠は大きなものになっていると気付いてしまった。 だけど、それを素直に伝える事が俺には出来なかった。 里悠の思いがあまりにも真っ直ぐで純粋で……。 俺にはそれを受け取る資格がない。 何も答えない俺に不安そうな表情を浮かべていたけれど、里悠は何を思ったのか真っ赤に頬を染めながら、突然俺の目の前で制服を脱ぎ始めた。 ハラリとブラウスが床に落ちる。 ストンとスカートが滑り落ちる。 里悠らしい柄入りの綿のブラジャーのホックに手をかけ、それをも床にパサリと落とした。 思いもよらない里悠の行動に、柄にもなく自分の心臓がバクバクと暴れだす。 「おまっ…何やってっ!? 今日はそんなつもりでここに連れてきたわけじゃねえよ」 「まだ…先輩に私のチェリーを食べてもらっていません。 もしも先輩のマスコットでいられないのなら、せめて最後の特権として私のハジメテを貰ってください…」 「里悠…」 躊躇いがちに下着をおろし、恥ずかしそうに真っ赤な顔をして俯きながら、全裸で俺の前に立つ。 そして一筋の涙を頬に伝わせて、悲しげな声で里悠は言った。 「私から先輩を捨てるなんて、絶対に出来ません…だから、いらないならいらないってハッキリと突き放して…」 里悠はそう言って一歩距離を縮めると、体を屈めて唇を重ねてくる。 今まで脱げと言っても、一度だって恥ずかしがって全裸になろうとはしなかったのに、自発的に全てを脱ぎ捨てたという事は、里悠にとって相当の勇気を要したはず。 今だってかなり恥ずかしいはずだ…俺の肩にかけた手が微かに震えているのが伝わってくる。 そこまで里悠を追い詰めているのかと思うと、俄かに胸が苦しくなる。 そして同時に熱くもなった。 俺こそいらないなんて…絶対に言えない…。 自分の唇に感じる柔らかい里悠の唇の感触。 人工的な香りではなく、ふわっと甘く優しい香りが鼻腔を擽る。 それらを感じた瞬間、一気に体に熱が帯びたのがわかった。 慣らされていたのは俺のほうかもしれない… 他の誰でもない、里悠でしかならない自分の体の火照りを感じながら、そんなことが頭を過ぎる。 唇に伝わる心地良さを感じつつ、内側からこみ上げてくる衝動に押されるように、いつしか里悠の体を抱き寄せ自ら貪るような激しいキスに切り替えていた。 「里悠っ…」 「んっ…ふっ…先輩っ…」 より深く舌を絡ませようと、自分の舌が里悠の口内奥深くへ滑り込む。 それに必死に答えようとする里悠の姿がとてつもなく愛しく思えた。 はじめはまともにキスさえ出来なかった里悠。 ひとつひとつの反応が新鮮で面白くて、ついつい構ってしまいたくなる子犬のようなヤツ。 だけど、気づけば見違えるほど“女”になっていて、俺を惑わせるほどの存在になっていた。 いつの間にか俺のほうが夢中になっていた… こんな予定じゃなかったのに。 キスを交わしながら里悠の体をベッドに押し倒し、その上にのしかかる。 それでも互いの唇を吸いあう激しいキスは続き、次第にあがりはじめた息がより体を熱くする。 じんわりと自分の額に汗が滲み出す。 俺は無意識に自分のシャツを脱ぎ捨て、里悠の柔肌に自身の肌を重ね合わせていた。 里悠とマスコット契約を交わしてから、初めて肌と肌を重ね合わせる。 その直に触れる肌の温もりに、更に内側から熱が込み上げてきた。 なんだ…この高揚感は。 里悠を一方的な形で弄っていた時とはまた違った肌の痺れが俺を襲う。 もっと触れたい…もっと感じたいと、焦燥感に似た思いが俺をかき立てた。 白く透き通るような里悠の肌に、唇と舌を丹念に這わせる。 汗ばんだ里悠の肌がそれに反応して、うねるように妖艶に波打つ。 もう、慣れてしまったはずの女のカラダ。 なのに、こんな僅かなことにも身体が熱く反応してしまうのは何故だろう。 俺はいつもより強引に、それでもいつもより数倍優しく、里悠の身体の隅々にまで舌や唇で刺激を与えた。 ピンと硬く張った里悠の胸の蕾を口に含ませ舌先で転がしてやると、ビクッと里悠の体が反応を示し甘い吐息交じりの声が漏れる。 「里悠…もっとその声聞かせろよ…」 熱い息を吹きかけるように、俺は里悠の耳朶を甘噛みしながらそう囁く。 今までは、里悠に煽られても何とか余裕を保てていた。 なのに、今の俺はその余裕すらない… まるで初めて女のカラダを知った時のように、何も考えられず夢中になっている。 いや…初めて知ったときより数倍も体が熱く火照り、気分が高ぶっていた。 コイツが欲しい… 初めて強くそう思った。 今まで何人もの女と関係を持ってきたけれど、一度たりともそんなことを思ったことはなかったのに。 欲しくて欲しくて堪らなくて、その思いが更に俺の気分を高ぶらせた。 その衝動に突き動かされるように、もどかしげにズボンとトランクスを同時に脱ぎ捨て、自然と自分の指が蜜で潤いきった里悠の秘部に伸びる。 溶けそうなほどに熱の篭ったナカは、俺を待ち望んでいるかのように指を心地よく締め付けてきた。 「里悠…」 「あっ…んっ…あぁっ…先輩っ…んんっ…」 ギュッと里悠の体を片腕で抱きしめ、唇を奪い取りながら秘部では内壁を擦るように指を動かす。 重なりあった唇と刺激を与える秘部から、チュクッ、クチュッと、同時に卑猥な水音が漏れた。 唇に、肌に指先に感じる里悠の温もり。 耳に届く里悠の甘く切ない喘ぎ声。 その全てが俺を煽り、理性も思考回路も何もかも全部奪い去っていく。 ただひとつの願望を残して―――― 「……お前のナカに入れたい…」 それは無意識だったように思う。 里悠の首元に顔を埋めながら、俺はそんな言葉を掠れた声で呟いていた。 限界だったのかもしれない。 思わず口にしてしまうほど、その思いが膨らみすぎてしまって。 俺は里悠に刺激を与えつつゆっくりと顔をあげ、そのままベッドボードへ視線と共に片手を伸ばす。 その先にある小さな四角い袋が視界に映ったとき、僅かにだけ理性が戻って待ったをかけた。 ダメだ…出来ない… 何故かその思いに囚われ伸ばした手を握り締めたときだった。 「んっ…せんぱい…蒼斗っ…先輩っ…」 甘美な吐息交じりの里悠の声に、ふと視線をそちらに向ける。 そこには与えられる刺激を感じながらも、切なそうに涙を流す里悠の姿があった。 「里悠…なに泣いて…」 「…………っ…」 里悠は俺の声に咄嗟にその涙を隠すように、自分の両腕で顔を覆って首を横に振る。 俺はその腕を掴んで顔から引き剥がすと、覗き込むように上から里悠を見下ろした。 「里悠?」 「…………」 里悠は硬く口を閉じ、尚もなんでもないという風に首を大きく横に振る。 その度に涙が溢れ出し、里悠の頬を伝って流れ落ちた。 「なんで泣いてんのか、言わなきゃわかんねえだろ」 「ぅっ……」 「里悠?」 なだめるような声をかけて、親指の腹で目元を拭ってやる。 溢れ出す涙を堪えようと必死なのか、里悠はすぐに口を開くことが出来ず眉がハの字に垂れた。 「……傍にっ…いたい…やっぱり、最後っ…なんて…いやっ…です…」 搾り出すような、途切れ途切れの里悠のその言葉に、今まさに自分が怖気づいてしまった理由を突きつけられた気がして心臓が鷲掴みにされたようにグッと痛んだ。 ――――最後、お前のチェリーを食ってやるよ ――――せめて最後の特権として私のハジメテを貰ってください いつだって、奪おうと思えば簡単に奪えた里悠の処女。 なのに俺は何かと理由をつけてこれまで先延ばしにしてきた。 初めの頃は、単に処女は面倒くさいからという理由でしかなかった。 だけど途中からは、その“最後”という言葉が邪魔して俺は前に進むことが出来なかったんだ。 里悠の処女を奪うときがこのマスコット契約の終わるとき。 すなわち里悠の処女を奪ったが最後、この関係が終わる…俺はそうなることが怖かったのか? 里悠を失いたくなかったから。 コイツに傍にいて欲しかったから。 だから今も手を出せなかった… 俺は里悠の言葉に何も返すことが出来なかった。 ただ真っ直ぐに見つめることしか出来なかった。 「先輩との関係を…終わらせたくない…ハジメテを最後にしたくないです…蒼斗先輩の…傍にいたいんです…」 今にも消え入りそうな里悠の声を聞きながら、ようやく搾り出せた自分の言葉。 「なら、いろよ」 「え…」 「聞こえなかったか?傍にいろって言ったんだ。 俺は、俺から捨てるつもりはないと言ったはずだ…お前がこんな俺の傍にいたいと言うのなら飽きるまで傍にいればいい。 お前が望むなら何度だって抱いてやる…ハジメテを最後になんてしてやらねぇから」 「せんぱい…」 とことんまで俺は捻くれていると自身で思った。 素直に言えば済むことを、里悠の言葉を借りて遠まわしにしか言うことが出来ないなんて。 傍にいて欲しいのは俺だって一緒なのに… 最後にしたくない思いは、きっと俺のほうが強いのに… お前を失いたくないんだと、何故俺は素直に言ってやれないんだ? 里悠の思いが綺麗で真っ直ぐすぎるから? それを受け入れる資格が俺にはないから? なら俺はどうすれば……そう考えるようになっていた。 「あの…本当に…いいんですか?傍にいても…」 「あぁ。 ただし、鼻ったれには興味がねえから、今すぐその泣きっ面をどうにかしろよ…」 ――――これ以上、お前の泣き顔を見るのは辛いんだ。 その言葉をぐっと飲み込み、憎まれ口で終わらせる。 里悠はそんな俺の言葉に従うように、慌ててティッシュに手を伸ばし鼻をかむ。 その里悠の姿を見ながら、俺はある決心を胸に抱いた。 もう、遊びは終わらせる。 その為の存在も俺にはもう必要ない。 俺に必要なのはただ一人… そのただ一人の思いを受け入れる資格を得る為に、俺が出来ることといえば…。 「里悠…今日はもういいから、服を着ろ。 特権はまた今度にしてやる」 「え…えぇっ?!!」 「……………」 あまりの驚きように一瞬言葉を失ったけれど、今一度、いいから早く服を着ろ。と、促すと、首を傾げながらもいそいそと里悠は服を着始めた。 今の俺には、里悠を最後まで抱く資格もない。 今までの自分の行いを考えれば、こんなことをしても何の罪滅ぼしにもならないかもしれないけれど、せめて自身の身の回りのケジメをつけてから…。 それが今俺の思いつく、俺に出来ること。 俺は、志筑里悠…ただ一人の女の為の存在になる。 里悠を最後まで抱くのはそれからでいい。 「こっち側の方をつけて、俺の気持ちが固まったら…その時にお前のハジメテを貰ってやるよ」 「………え?」 制服を着ながらぼそぼそっと言った俺の声が聞き取りにくかったらしく、里悠は腫れぼったい目をこちらに向けて首を傾げてくる。 それに苦笑を漏らしてから、俺の口からは照れ隠しにまた憎まれ口がついて出ていた。 「もっと成長してエロい女になれって言ったんだ。 あー、そうだ。ちょうどいい物がここにあったな」 そう言ってニヤリとした笑みを浮かべながら、俺はベッドボードに用意されている四角い小さな袋を、2つ里悠に手渡した。 「あの…これ…何ですか?」 「何って、コンドーム。 避妊具だよ、知らねえの?」 「えっ?!コッ…はっ?! ひっ避妊具って…なななんで、こんなところにっ!?」 「なんでって…ラブホには当然あるもんだろうが」 「ラブホーっ!? ララ…ラブホって…ラブホテルですか?え、ここラブホテルだったんですか?!」 お前はどこのつもりでついてきたんだよ… 里悠らしいと言えば、里悠らしいけれど。 「まあ、それは置いといてだ…そのゴムを使って俺に少しでも早く処女を貰ってもらえるように、毎晩頑張れってことだ」 「え…なにを?」 「オナニー」 「おっ!?…って、頑張るって言っても…そんなっ…どうやって使うかも…」 「指の代わりに、きゅうりにでもいいからそれを被せてお前のナカに入れりゃいいんだよ。ククッ。まあ、俺のはきゅうりより太いけどな? そうして慣らしておけば、本番スムーズにコトが進む」 冗談半分に言ったことも里悠にとっては過激すぎたのか、目を白黒させながら今にも頭のてっぺんから湯気を出しそうなほど顔を真っ赤に染めあげる。 それに俺は声を立てて笑いながら、この場の変化にふと気づいた。 つい今しがたまでの沈んだ空気はいつの間にかなくなり、いつもの俺たちらしい雰囲気が戻ってきている。 そうなんだよな…里悠といるこんな空間が俺にとっては心地よい。 ここは、俺が最も自然体でいられる場所なんだ。 この場所を誰にも邪魔されたくない。 里悠を誰にも奪われたくないと、初めて自分の中にある独占欲を自覚した。 これまでそれが一番煩わしいと思っていたくせに、だ。 「里悠」 「あ、はい」 「マスコットの条件として追加しておく」 「え、あ…はっはい」 「俺以外の男と馴れ馴れしく話さないこと、むやみやたらに触らせないこと。 それが追加条件だ」 「えっと…あの?」 意味がわからないといったように首を傾げる里悠のもとに歩みよると、俺はクイッとその顎を指先で持ち上げた。 「返事は、“はい”としか受け付けない。 わかってんだろ?」 「えと、はい…わかってます」 随分勝手な言い分だと思ったけれど、言わずにいられなかった俺は相当重症なのだろうか。 本当に理解しているのかどうなのか…それでも素直にそう返事を返し、俺を見上げてくる里悠の唇に俺は自然と自分の唇を重ねていた。 この先、俺たちの関係がどう変わっていくのか、今の俺にはまだわからない。 だけど確実に変わり始めた俺たちの関係。 ――――おまえは…俺のたった一人の特別な存在だ そう、素直に告げられる日がいつか来るだろうか。 俺はそんなことを思いながら、里悠の体を抱きしめた。 |