――――――――――――――― 涙と君と  前編





 その日が最悪の一日になるだなんて、その時は全く想像もしていなかった。
 いつもと同じ、仕事をして帰る。そんな一日になるはずだったのだ。




 ぎしぎしとベッドの軋む音が耳に届く。
 荒い息と自分の喘ぎ声と衣擦れの音。それは貴裕にとっては耳に馴染む『仕事』の音だ。
「あ……ぁ」
 見上げた視線の先にある顔は、ここ数日の仕事相手であり、私生活のパートナーでもある浩隆のもの。眉根を寄せて、少しだけつらそうに、吐き出す息は艶かしく色っぽいとしか言い様のない表情を見せながら、貴裕の上で彼は今懸命に腰を揺らしている。
 AV男優、それが彼らの職業を示す言葉だ。
 男同士であるのを見れば一目瞭然であるが、今この場所はゲイポルノの撮影所だ。
「先生、気持ちいい? ほらここ」
 囁く声に唆されて、気持ちいいと答える。
 つい先日までは突っぱねていなければならなかったのだが、撮影が進んだ今の貴裕の役割は、最初と真逆になっている。
 軽くストーリー仕立てになっているらしい今回のAVの撮影は、数日に分けて行われている。大体は一日で済ませる事が多いこの業界では珍しい事だ。
 企画を担当したのは、彼らの所属事務所の所長。
 この企画のコンセプトは『女子にもウケるAV』だそうで、昨今のボーイズラブブームとやらに乗ってしまえと言うものだ。
 売れるかどうかは別として、所長が気合を入れまくっていることは確かで、それなりの予算も組まれているらしい。
 予算云々に関しては、貴裕の関与するところではないから真偽のほどはわからないが。
 そして本日は撮影三日目。もう少しでクライマックスに入る。
 現在の撮影内容は、貴裕演じる教師が強制的な関係だったそれを受け入れて、さんざん拒んでいたセックスを自らねだるようになるシーン。
 学校を模したセットばかりだったのが、今回はベッドの上だ。なんとなく変な感じがすると思いながら貴裕はぼんやりと考える。
(……演技いらないから、楽だな)
 これまでは拒まないといけなかったから結構大変だったと思う。
 何しろ貴裕は浩隆のセックスに恐ろしく弱いのだ。
 恋人というだけでなく、浩隆とは体の相性がおそろしくいいようだ。
 何をされても感じるというのは彼に対してだけで、それは恋人としては誇らしくも思えるのだけれど、いざ仕事となると厄介でしかない。
 拒まなくてはならない時に、口を滑らせて気持ち良いと訴えてしまった事もあるから、本当に厄介だった。
「……あ、あ、あ……も、っと」
 それを今回はしなくていいから、本日の撮影は本当に楽だ。
 気持ち良いと思ったら我慢しなくていいのは助かる。
 首に腕を回して、きつく抱きしめてもいいのは嬉しい。
「そこ、ねぇ、そこ……も、もっと」
「ん? これ? ねえ先生、これいい?」
 ぐりぐりと体の奥のいい場所を的確に抉られて、貴裕は背中を反らせながら悲鳴を上げた。仰け反った背中を撫で、腰を回されたそこからはひっきりなしにぐちゃぐちゃと音がしている。
「んっ、い、いい……あっ、そこ、そこぉっ」
 無理やりされていた反動で恐ろしいぐらいに乱れる、という注文をつけられていたから、自然喘ぎ声は大きくなり、貴裕は露骨な単語を口にする。
 大きい、硬い、奥、いっぱい、気持ち良い、もっと、もっと。
 中に入っているものがなんだとか、それがどうなっているとか、促されるままに口に出して、体の奥に入り込んだそれを締め付ける。
 あまりの快感に足先が丸まってシーツの上をすべり、指を絡めるようにして繋いだその手に爪を立てる。
「センセ痛いよ。そんなにイイの?」
「んっ、ああっああっ、い、いい……いいっ」
 凄くいいとうわごとのように呟きながら、貴裕は腰を淫らに揺り動かす。
「や……たすけ、や……ああっ!」
「何を助けてほしいの? 先生腰振ってるよ? ねえほら」
 俺動いてないのにどうして動くんだろうねと言われて、知らないと答える。中を擦り上げる屹立は硬く熱く、だがそれだけでは足りないと貴裕の中は何度もそれを締め付け、吸い込むような動きを見せる。
「俺のことスキなんだろ? ほら、もっと動いて、いくって言って?」
「あっあっあっ、や……いく、あっ、も、もうっ……!」
「中出すよ? いっぱい」
「あ、ああっ……ぁん、あっあっ、だし、あっ……中っ……」
「いっぱい中に下さいって言ったらしてあげる。ほら」
 こっちもしようねと告げた後に、浩隆の手はふたりの間で揺れている貴裕の性器に触れてくる。
「なか……あ、な……か、くださっ……」
「いっぱい?」
「んっんっ……ぁ……いっぱ、いっぱい……んぁっ! 中……っ!」
「いいよ、いっぱいしてあげる」
 ほらここでしょうと言いながら抉られたそこは、貴裕が最も弱い部分で、どうやったらいいのかを熟知している浩隆の動きにすぐに負けてしまう。
 びくびくと震えながら誘い込むように中が動き、痙攣じみた動きが酷くなる事にこみ上げてくる感覚がある。
 脊髄を辿るようにして這い上がってくるそれに抗うのは難しい。
 背中を反らせながら、貴裕は酷いぐらいの絶頂感を味わった。
「……っあ!」
 僅かな声しかでないほどのそれに、浩隆を含むそこが意図しない淫猥な動きを繰り返した。その動きに耐えられなくなったらしい貴裕のそれも、貴裕の中で熱いものを吐き出して果てる。
「あ、いく……っ!」
「……んん!」
 ばっと広がったそれに耐えられず、貴裕は吐き出されるその感覚にまた達した。痙攣する体は収まらず、頬を流れ落ちる涙を掌で宥めてもらってやっと呼吸が落ち着いた。
「気持ちよかったね、先生」
 大好きだよ、と笑って口付けられて目を閉じる。
 仕上がりのAVの中では、ここに小さく溜息のような独白が入る予定だ。
(……もうだめだ、だったかな)
 あってなきが如しの台本の内容を思い出しながら、まだ熱の去らない息を吐き出した。今日はまだあと少しだけ撮影が残っている。
(この後はヒロの方が大変かな……)
 後のことを考えてそう思いながら、眠いなあと貴裕は思った。







 次の話の流れはとても嫌なものだ。
 なんせ別の女を抱いている最中の浩隆を貴裕が目撃して、逃げた挙句にまた犯されて、もうだめだと貴裕演じる『先生』の精神状態がおかしくなっておしまい、なのだ。
(こんなんが本当に売れるのか……?)
 ターゲットは女の子だと言うが、果たしてこんなどろどろのバッドエンドが売れるのだろうかと首を傾げざるを得ない。
 どうなんだろうと思いながら溜息をつき、缶コーヒーを飲みながら貴裕は休憩室の壁に背を預けて目を閉じた。
(……そう言えば見るの初めてだな)
 浩隆はよく貴裕のAVを見たり撮影現場を見たりしているが、貴裕が別の相手と仕事をしている浩隆の現場を見るのは殆ど初めてに近い。
 出演作品を見たことがない訳ではないが、やっぱり現場を直接見るのとでは色々違うだろうなと考えてしまう。
 相手が別の人だったなら平然とできただろうが、今回の相手は私生活においてもパートナーの浩隆だ。普段の態度がどうであれ、好きな事には変わりがないからどうしても考える。
(仕事だ。仕事)
 それこそはじめのときから『しょうがない』と思っていた事なのだ。
 浩隆が別の女を抱こうが男を抱こうが、仕事なのだからしょうがないと納得したはずだ。
(うん、納得は、してる)
 だから大丈夫と何にともなく自分の中でうなずいて、貴裕は缶コーヒーを飲み干した。
「それにしても」
 タフだな。とそんな感想が漏れた。絶倫て言われた事あるなどと前に言っていたが、このハードスケジュールは素直にすごいと思う。
 連続して本番が3回。それをしかも本人あっさりと「できるよ」の一言でOKしたのだ。
「……まあ、できるか」
 日ごろの経験から言っても彼の言葉が嘘でない事はわかる。
 そろそろ減退してきてもいいんじゃないかと、普段の相手をする側としては思うのだけれど、仕事を考えればまあ良いことなのだろう。
「あっついなぁ……」
 休憩室は涼しい。それなのに熱いのは、さっきまでの熱が冷めないからだ。
 もう一回が残っているからシャワールームを使ったのだが、一行に冷めてくれる気配がない。
「だからヒロとは厄介なんだ」
 あんまり浩隆と仕事をしたくないと思う理由はそこなのだ。
 熱がいつまで経っても冷めてくれないから、仕事がしにくい。
 だから彼とのセックスはプライベートだけにとどめておきたいのだが、そうも言っていられない。
「……ほんと、厄介」
 ふう、と息を吐き出した後に、ドアの向こうから声がする。
 撮影が始まるぞと呼びに来たのはカメラマンだった。
「今行く」
 カン、とゴミ箱の中に空になった缶を捨てて立ち上がる。
 浩隆は一足早く撮影中だ。その中に入り込んでいかなければならないのは少々気が重い。
(何も起きないといいけどなぁ)
 そんな事を考えている時点で起きているも同然なのだと、貴裕はわかろうとしなかった。わかっていたけれど、目をつぶって見ないふりをしていた。






 廊下の先にある部屋に浩隆は居る。
 そこからここまで、声が届かないのがせめてもの救いだと思う。
 撮影が始まって聞こえてくるのなら頭が撮影モードになっているから平気だろうけど、始まる前から聞こえているのは少し辛い。
 そんな今更と思われるかもしれないし、こんな仕事についていて何が独占欲だと笑われても、仕方がないものは仕方がないのだ。
 浩隆が好きだと言う事実は、普段は殆ど表には出そうとしていないが確かに貴裕の中でしっかりと根付いているのだから。
「OK?」
 始めていいかと問われて、一度深呼吸をした後に貴裕は頷いた。
 スタート地点から歩いて部屋の中に入り、外に出て別の部屋まで逃げる。そこまでうまくいけば後はもう何も考えなくていい。浩隆が、助けてくれるから。
 カチン、と始まりの合図がして貴裕は歩く。
 ほんの数秒の距離がもっと遠ければいいのにと思った。近づけば当然漏れてくる声は嫌でも目に入る。
 浩隆が喘がせている女の声など聞きたくなかった。聞けば自分は男なのだと思い知る。女の子のように芸術的な体のラインも、柔らかさも持たない男なのだと思い知らされる。
「……っ」
 何一つ、貴裕には浩隆を繋ぎとめておける自信がないのだ。
 自分が綺麗な女の子だったらよかったのにと思う。いくら仕事で売れていても、男は男だ。綺麗な女の子だったらきっと自信はあっただろうに。
(……撮影、撮影)
 今は仕事中だと言い聞かせて、声の漏れ聞こえるドアに手をかける。
「何してる!」
 ガラリと開いたドアの先には想像に違わないものがある。
 制服姿の浩隆と女優の姿。女優の名前はなんだっけ。確か名の売れている人だった気がする。
 はだけた制服、見える白い肌。絡む脚、スカートに隠れているけれど、そこがどうなっているかなんて想像しなくてもわかる。
「……っ」
 息を呑んだのは演技だったのかそれとも反射だったのか自分でも判断がつかない。
 そして気だるそうに振り向いた浩隆の表情に、打ちのめされた。
「ああ……見つかっちゃった」
 にやりと笑う浩隆の口から出てきた台詞に、もうどうしようもなかった。
 艶を含む笑みなど見慣れているけれど、完全に自分を見下しているその視線は見慣れない。どちらも含む視線はきつく鋭い。
 この後貴裕は一言叫んで逃げ出さなければならなかった。だが。
「……っ!」
 ぼたぼたと零れ落ちるそれに、浩隆の視線が変わる。
 何が起きているかなんて自分が一番よくわかっている。声が出なかった。どうしていいのかもわからなかった。ただ涙が零れた。何も考えてなどいなかったはずなのに。
「……センセ?」
 貴裕、と呼ぼうとした浩隆が一瞬慌てた後に問い掛けてくる。
 その声すら涙を誘い、余計涙はひどくなった。
「……あっ」
 小さく声を上げた女優の声ではっとなる。
 そして貴裕は悲鳴を上げてしまいそうな衝動を堪えて叫んだ。
「……き、たないっ!」
 台本に記されていた台詞を、やっとの思いで叫んで走り出す。
 どこでもいいから逃げてしまいたかった。まさかこんなにショックを受けるとは考えてもいなかったから、貴裕の頭の中は混乱に陥っていた。頼むから誰も追いかけてこないでくれと思うのに、そうもいかない。
 追いかけてくるのは浩隆で、その後貴裕は彼に抱かれなければならない。抵抗しなくてはならない。
(そんなの、無理だ……っ)
 追いかけてくる男にきっと自分は縋りついて泣いてしまうとわかっていた。仕事なんてもうどうでもいいと思ってしまいそうになる。仕事をしなくてはと思う気持ちと、浩隆に縋りついてしまいたい気持ちとの間で混乱して叫んでしまいたい。

 もう嫌だ、誰か助けて。





 *   *   *





 大粒の涙をこぼしながら走り去っていった貴裕の姿を、その場に居た全員がぽかんと見送っていた。
 カメラマンだけはプロ根性を見せて彼を追って行ったが、その場に残った全員がどうしたんだと目を丸くしている。
「あのばか」
 小さく呟いたのは浩隆で、女優から離れた彼は服を直して追おうとするも、ふいに腕をつかまれて危うくつんのめって転びそうになりながら振り返った。
「あ、っぶね……誰……って」
 振り返った先に居たのは所長だ。いつの間に来ていたのか知らないが、あらかた今の出来事を見ていたらしく、ちょっと待ちなさいと首を振る。
 腕を引いているのも彼で、周囲のスタッフたちに一端休憩ねと指示を入れている。
「まずったわね。まさかタカちゃんがああなるとは思ってなかった」
「俺もっすよ」
 はぁ、と溜息をついたのはふたり同時。彼らだけが、貴裕に起きた事を理解していた。
「あの子はしっかりしてると思ってたのよ」
「……いや、これまでは大丈夫だったんですけど」
「爆発したってところかしらね」
「……どうでしょう」
 そこのところは俺にもよくわかりませんと苦笑しながらも、浩隆の目には決意のようなものが宿っている。
「ねえ所長」
「なぁに?」
「話の内容、変わっちゃってもいいですか」
「何する気?」
「とりあえず俺、貴裕が一番大事なんで」
 仕事より貴裕優先ですときっぱり告げれば、所長は艶やかに笑う。そして彼は、指先でメガネを直すときっぱり言い放った。
「好きにやりなさい。この世に愛より大事な仕事なんてないわ」
 些か臭い台詞なのに、この人が言うとなぜか納得してしまうのはどうしてだろう。
 天晴れといいたくなるほどの宣言に浩隆は笑みを浮かべて答える。
「じゃ、好きにやらせてもらいます」
 にやぁと笑うその顔に、売れる内容にしてちょうだいねと笑った所長は、指示を出すべく他のスタッフに寄って行った。
 所長の懐の深さに感謝しながら浩隆が視線を向けたのは、貴裕が逃げ込んだ部屋だ。
 今何を貴裕が考えているのかはわからないが、彼が何にショックを受けたのかはわかりきっている。
「かわいいとこ、久しぶりに見たなぁ」
 もうちょっと見てたいかもねと笑いながら、浩隆はそちらへと歩きだす。
 大丈夫だからと手を差し出してやらないといけないと、頭で考えるよりも早く体が動いていた。