―――――――――――――――奏でられた旋律に言葉を 中編
もういい加減にしてくんないかなあ、と呆れたように呟いたのは、この薄い水色で統一された家具で埋め尽くされた部屋の主だった。
呆れた表情で顔を顰め、デスクチェアに座って脚を組んでいるのは、麻隆の甥であるアキラだ。光と書いてアキラと読む。
彼は【SignA】というバンドのボーカリストであり、プロデューサーである麻隆の担当で麻隆の事務所に所属している。形式で言えば、麻隆の部下でもあったりする。
「あのさあ、なーんで俺の家転がり込んで雲隠れしてんの、伯父さん」
もう何日目だよ、と呆れた声をアキラが出すのも無理はない。
麻隆はいきなり連日のオフを取り、挙句誰にも言わずに殆ど雲隠れの状態でアキラの家に転がり込んだ。
そうして数日、麻隆はこの家から一歩も出ていない。
「……もう少ししたら、出て行く」
「もう少しもう少しって、伯父さん毎日それじゃん? もう3日経ったんですけど、これのどこがもう少しだよ?」
あんたは時間感覚まで一般人とかけ離れてるのかといわれて、珍しく麻隆はうなだれる。らしくない自覚はとっくの昔に、それこそこんな事をしだしたはじめからあって、だがどうしても踏ん切りがつかずぐずぐずしているのだ。
原因はわかりきっている。自分と、あの白い彼の関係のせいだ。
「……あのさあ、告る勇気なくて家に閉じこもるのは別に文句言わないけど、なんで閉じこもる先が俺の家なのさ?」
「お前の所なら誰も何も言わないだろ」
「言いませんよ。俺口堅いし? 伯父さんにはお世話になりっぱなしだから入れてあげたけどさあ、いい加減俺も見ててイライラしてくんだけど」
いつまでたってもうじうじうじうじ、全くらしくない伯父を見ていると、アキラはイライラするらしい。
それもそうかとは思う。
昔からアキラには、麻隆の『カッコイイ部分』しか見せていなかった。有名で実力のあるプロデューサー、なんでもできる伯父さん。
さぞや幻滅した事だろうが、そこはそれ、繋がった血の為せるわざなのか、アキラはさして気にした様子もなく接してくれていた、ように見えたのだが。
「今更伯父さんがウブい恋心発動しようが? 一々それに思い悩んでいようが? それは俺には関係ないし、つかむしろ面白いけどさ。でも面白いのって見てる場合の話なんだよね。わが身に降りかかってくると結構ウザい」
普段麻隆がばっさばっさと色々言うおかえしなのか、それともこれは単にアキラが自分に似ているだけなのか。
結構ぐさぐさっと突き刺さる事を言われ、麻隆は思わず「う」と呻いた。
「大体さー、ガキの初恋じゃあるまいし、なんでそんな一々ビビってんの。天下の水城麻隆が」
「それは今関係ないだろう」
「あるっつの。何万人て観客目の前にして平然としてるのに何でひとり相手にビビってんのさ。もっとズバっと行きゃいいのに」
それができれば今ここには居ないのだが、そんな反論をしたところで言い返されるに決まっている。
沈黙していれば、大体さあ、と呟きながらアキラが立ち上がって麻隆の横にやってきた。その足元にある紙を拾い上げる。
「3日家に篭ってこんな事してるよりさっさと言っちゃった方が楽だと思うんですけど。特に俺が」
はい、と渡された紙には五線譜。そしてそこにはびっしりと書き込みがある。篭っている間に書き上げた何枚ものそれは、全て彼のためのものだ。
トチ狂っているという言葉が多分当てはまるのだろう。
こんな事は人生初で、正直どうしていいのか麻隆にはわからない。始まりが始まりだっただけに、尚更だ。
「……あー……うん、わかった」
じっと楽譜に視線を注いでいた麻隆の様子に、何を思ったのかいきなりアキラはうんうんと頷いて、また椅子に戻る。
「何がだ」
「伯父さんが結構マジなのはわかったよ。んで、どこにいんの、そいつ」
にたあ、と笑って見せるアキラの表情は何度か見たことがある。
小さな頃に悪戯を仕掛けている時であるとか、何か怪しい事を思いついた瞬間だとか、そんな時に浮かべるそれだ。
ひやりと冷たい汗が背中を流れたように感じる。嫌な予感を感じながら、麻隆は情けないと思いつつ、ほんの少しだけいざって逃げようとした。
はぁ、と悠が溜息をついたのは、いつもの高架下でだった。
がたんごとんと電車が通り過ぎるそこには、やはりあまり人はこない。時折通りすぎていく人を横目に、ギターの弦を弾いて、だがいつものように歌う気にはなれなかった。
それもこれも、急に現れなくなったあの人のおかげだ。
「……今日で、一週間? もっとかな」
はじめのうちは何日目かと指折り数えてみたりしていた。
だがそれも虚しくなるだけだと数日でやめた。
歌い続けていたこの場所で歌う気をなくして、それでもここに来る事をやめるのだけはできなかった。
周りから見れば、結構凄い関係だとは思うのだが、不思議と嫌ではなかった。何よりあの人は歌を聴いてくれた。
『歌を聴いてくれる人』がいなくなるのが嫌なのか『あの人』がいなくなるのが嫌なのか、どちらなのかの判別はつかなかったけれど、とにかくそれだけは嫌で、悠はこの場所で待ち続けている。
カツンカツンと聞こえる靴音に、嫌と言うほど反応して顔を上げて、歩いてくるのが別人でうつむいてと、それを何度繰り返しただろうか。
なんだかそれももう虚しくなって、今日はもう帰ろうかと思ったその時だ。
「お、いたいた!」
どこかで聞いた事があるような声がして顔を上げると、黒髪の、多分自分と同じくらいの年齢だろうサングラスをかけた男が近づいてきていた。
赤と黒のボーダーの入ったTシャツを着た彼は、明らかに自分の方へと歩いてくる。どこかで見たことがあるようなないような、と悠が首をかしげていたら、サングラスを外してにこりと彼が笑う。
「どーもー、初めまして。アキラです」
「……は、はぁ……初めまして。白井悠、です」
にこっと笑いながら挨拶されて、思わず悠も返してしまう。いきなり本名を名乗るのもいかがなものかと、後々思うのだが、反射で出てしまったものはどうしようもなかった。
「ユウくんね。うん、真っ白でキレイだねー、これなら伯父さんがきょどるのもわからなくはないかなあ」
じろじろと悠の事を上から下まで眺めた男は、そんな事を呟きながら笑っている。一体なんなんだと思い、悠もアキラと名乗った男の顔をまじまじと見つめて、見つめて。
「……あ」
ひとつ、思い当たる事があって思わず目を見開いて声を上げてしまった。
あまりテレビを見る事のない悠でも、この顔を見たことがあるはずだ。
ワイドショーや朝のニュース番組で結構な頻度で取り上げられるバンドのヴォーカリストなのだから。
「……え? あ? え?」
なんでそんな有名人がこんなところに、しかも明らかに自分目当てで来ているのかがわからず悠は混乱して目を白黒させる。
どういう事だと頭をぐるぐるさせていたら、どうもそれを悟ったらしいアキラが「あらら」と頭を掻いていた。
「あちゃー……ごめん悪かった。いきなり顔見せん方がよかったね」
ごめんなさい、と言いながらアキラは再びサングラスをかける。
とりあえずこれでどう? と笑ったのだが、知ってしまった事には変わりなく、依然として悠の頭の中はぐるぐるしたままだ。
「あー、えーっと……とりあえず、落ち着こう。深呼吸深呼吸」
すーはー、と何度も目の前でアキラが繰り返すのを見て、自分も同じ事をしてみる。そうするといくらか落ち着いて、でもやっぱり落ち着かなかった。
「うし、第九わかる? 年末によくやってるアレ。歌詞わかんなくていいから」
「え? は、はあ……」
「せーので歌おう。せーの!」
何がなんだかわからないうちに、ジーパンのポケットに手をつっこんだアキラは歌い始めてしまう。しかも完璧なドイツ語で。
「はい歌う歌う」
呆けて何もせずに居たらそんな事を言われて、歌詞なんてわからないからとりあえず「あ」で歌う事にした。
プロのヴォーカリストと並んで歌うなんておこがましいと考えつつ、何故か歌わないと怒られるようなのでわかる限りの範囲で歌ったら、にこっと微笑まれてやたらと恥ずかしかった。
「はーいおしまい」
きりのいいところでパン、と手を叩いて宣言されて、やっと終わったと息をつく。
ロックバンドのヴォーカリストが第九を歌うのも驚きだったが、その完璧さときたらすさまじく、アキラの歌はオペラ歌手にもなれそうなほどで、悠はひたすら驚いた。
「落ち着いた?」
問われてこくりとうなずく。いつの間にか混乱は通り過ぎて、目の前のアキラの顔もちゃんと見られるようになっている。なんで、とは思うけれど、彼の話を聞く事ができた。
「ええと、あの様子からすると俺の事は知ってるんだよね?」
「……はぁ……記憶違いじゃなければ」
「うん。多分記憶違いじゃない。じゃ、麻隆さん知ってる? 水城麻隆」
「……っ!」
にこっと、テレビで見るのとは大分印象の違う、子供のような笑みを浮かべたアキラの口から出た名前に、悠は目を見開いた。目が飛び出そうとはこの事だと思うぐらいに驚いて、その様子を見たアキラは「知ってるよね」と、問うのではなく断定する口調で言う。
「あの人俺の伯父さんなんだよ。結構有名なんだけど、知らなかった?」
その問いかけには首を左右にぶんぶん振って答える。麻隆が有名人の伯父であるなどとは知りもしなかった。ついでに、なんだかアキラのいい方では麻隆自身が有名であるかのようにも聞こえるではないか。
「あ、の……麻隆、さんて」
一体どういう人なんだ。
今更のように疑問が沸く。
これまではそんな疑問が沸く間もなく、あんな関係だったからそんな事頭になかった。だが一度沸いてしまった疑問は、コップからあふれ出す水のように悠を支配する。
あの人は、誰。
「……んん? もしかしてあの人の事知らなかった?」
今度はアキラの方が目を丸くする番で、その言葉に悠はこくりと頷くことしかできない。だって本当に知らなかったのだ。何も。
「あー……ああ、うん。こりゃ根が深そうと言うか……ああなんか面倒臭いなあ、首突っ込んだの間違いかな……いやでも」
なんだかぶつくさ言い始めたアキラの、その言葉の意味が全くわからず悠は首をかしげるしかない。
うんうん唸ったアキラは、腕を組んでガードレールに腰掛けた後、何を思ったのか「うん」と頷いて悠へと視線を向けてきた。
「……ま、いいや。あの人さ、今じゃ裏方だけど、結構有名なんだよ」
「そう、なんです……か?」
問い掛けはしたけれど、有名人という言葉に納得できる要素はいくつもあった。
ホテルのスイートルームとしか思えない部屋に住んでいるようだったし、忙しそうにしている姿。偉い人だろうなとは思っていたのだ。
「そうなんです。ちょっと前までは表立って活動もしてたんだけどね。こっちの業界じゃ名前出るだけで騒がれる名プロデューサーって奴なんだよね」
「……はあ」
名前が出るだけで、だとかそう言うのは全然想像がつかないのだが、とにかくかなりの有名人という事だけはわかった。
そんな人がなんでこんな場所で歌っている自分を見つけて、あまつさえ毎回歌を聞いて部屋に誘い込むんだと思いもしたが、それはアキラに聞いてもきっと答えは出ないだろう。
「そんでさ、その伯父さんがひきこもっちゃってねえ」
「……は?」
いやぁ困ったもんだよ、と少しも困ったようには見えないそぶりで言って、アキラはううんと唸っている。
今何と言ったか。ひきこもり? あの、麻隆が。
「びっくりだよねえ。あの自信満々天上天下唯我独尊て感じの人が引きこもるとかねー」
あほみたいだよねえ、と笑いながらアキラは再びサングラスを取る。そうしてその黒くて大きい目でじっと悠を見つめて、にこりと笑った。
「どうもね、そのひきこもりキミのおかげみたいだから責任とってくんない?」
にこっと、キレイな芸能人の微笑みでそんな事を言う。
誰が、何の、どういう。
「……はい?」
とりあえず意味がわからなくて、悠は首をかしげた。
アキラ、出張る。