さて足を踏み入れてみると、げらげら笑い声は聞こえるはやれへたくそだのとヤジが聞こえてくるわで、司狼
が想像していた『ジャズバー』とは、どこか違う空間だった。
「ごめんね、今日は内輪営業みたいなものだから煩くて」
店内の様子を見て呆気にとられてぽかんとした司狼に向かって、永居が眉を下げて笑う。
「あ、いやうるさいとかそういうのじゃないです」
慌てて両手を振りながら答えると、そう? と永居は笑っている。
ベンベンと響き渡るベースにチャチャを入れたり、俺の方が上手いぞーなんて言葉が聞こえてくるから、客席
に座っている人たちの多くは演奏家なのだろう。
眺めてみれば、自前らしい楽器がいくつも壁に寄りかかっていたり、首にかけられていたり、椅子にあったり
テーブルにあったり。
そしてステージの上にアップライトピアノが一台と、キーボード。
「なんか、すごいですね」
弦楽器も管楽器も打楽器も様々なものがそろっていて、ちょっとしたオーケストラもできそうだなぁなんて考
えた。だが店内に響き渡ったのは堅苦しいイメージのあるそれではなく、各々自由気ままに演奏するスタイル。そして新しく始まったのは、遊び心たっぷりの『Take the A train』だ。
(楽器の大合唱、って感じ)
笑い声と共に聞こえはじめたのは、楽しんで弾いているのがよくわかる音だった。
自己主張と自己顕示欲ばかりの音ではなく、ただただ楽しい。そんな場所に司狼は破顔したけれど、すぐに表情を変えた。
「あれ……?」
少しの物足りなさを感じて司狼は首をかしげる。
最初はその感覚がなんだかわからなかったのだが、周囲を見渡してすぐに理解した。
「あの」
「ん? 何かな?」
「……ピアノ、あるのに使ってないんですか?」
物足りなかったのは、金管楽器の音の中にピアノの音が混じっていなかったからだ。
『Take the A train』と言えば、あのころころしたピアノから始まるイメージがあったのにそれがなく、代わりにその部分をサックスが担っていたからだ。
もちろんピアノが入っていなくても何も問題はないのだけれど。
どこか違和感が抜けないまま首をかしげていると、小さくふっと笑った永居が答えた。
「うん。みんな鍵盤楽器は弾けなくてね」
「え? じゃあなんで……」
ピアノの蓋は開いているんだ。
そう問おうとした司狼の隣で、永居がくすりと笑う。
「この曲の歌詞知ってるかな?」
「……え?」
くすくすと笑った永居は、困惑する司狼の隣から離れてステージに向かった。
客席をすり抜ける間に、客からは「おっ」と声が上がる。
どこからか指笛の音まで聞こえて、どうやら常連さんの間で永居は相当な人気者のようだと教えてくれた。
そしてステージにたどり着いた彼が空いているマイクを手に取ると、にやりと笑ったバンドメンバーたちがきりの良い所でイントロに戻す。
『みんないいセンスしてるよね』
マイク越しに、永居はそんな事をつぶやいて笑った。
その言葉に対する答えは楽器の音と拍手だ。整えられた髪を崩した永居が、すっと口を開く。
そして開いた口から出た『音』に、司狼は今までの短い人生の中で一番の衝撃を与えられた。
You must take the "A" train
To go to Sugar Hill way up in Harlem
それは全身を何かが走り抜けていくようだった。
寒くもないのに鳥肌が立ち、ぐらりとめまいさえするようだ。
耳から入り込んできた歌声が脳どころか全身を駆け巡って、支配されていくようだと思う。
(……なにこれ)
第一印象は、溶けたチョコレートだった。
その歌声は、強烈に濃くて、ついでに酒入りのホットチョコレートを飲まされたみたいだ。
そして最初の衝撃はひどいくせに、後味はあっさりとしているからもっと聞いていたくなる。
ついでに言うと、歌う永居はなんだか別人のようで、何と言うか、いちいちなんだかエロくさい。
If you miss the "A" train
You`ll find you missed the quickest way to Harlem
Hurry, get on, now it`s coming
Listen to those rails a-thrumming
All aboard, get on the "A" train
Soon you will be on Sugar Hill in Harlem
司狼がごくりと生唾を呑み込んでその歌声を聞き終えたあと、エンディングを終えて拍手が鳴り響いた。
口笛やら声援やらを受けながら永居は楽しそうに深く一礼して、司狼の元へと戻ってくる。
「俺からの歓迎のご挨拶でした。どう?」
戻ってきた時には、もう司狼と会話をしたことのある永居に戻っていて、だが崩された髪型だとか、途中で調子に乗って外されたネクタイだとかボタンだとか。
まだ大人になりきるには早いと自覚している司狼には多少刺激が強すぎた。
「あれ? 司狼くん?」
ぽかんとしたまま動けなくなった司狼を見て慌てた永居と、その状況を見ていた常連客たちが大笑いしたのと。
そのどちらも理解できないまま、しばらく司狼は動けなかった。