そっと包んでゴミ箱へ。浄化する気もないのです。


その日も何の変哲もない夏の日だった。
変わったのは夏になってもそうそう外に出なくなったため白いままのオレの肌。

「梓君、久し振りに帰ってきてるみたいよ」
テレビを見てるときに言われた一言に一瞬固まる。
数年ぶりに聞いた名前に何でその名前が、とうろたえかけてすぐに納得する。
あぁそっか。お母さん、花井のおばさんとは現在進行形で仲良かったんだった。
でもだからって「あんた達も卒業してからしばらく仲良かったんだし連絡とってみれば?」なんて急に言い出さないで欲しい。
卒業してからしばらく仲良さげだったあんたの息子とその同級生は不純同性交友なんてもんに勤しんでたんだよ、って言い返してやろうか。
しかもグダグダなまんま別れて数年経って、未だ連絡一つできないまんまだって。
今更何をどう連絡すればいいのか、知っているんなら教えて欲しいもんだ。

そんな事をウダウダ考えていたせいか、記憶の底から浮かび上がるあいつとの思い出。
最後の電話、最後の会話、あれは何月何日だったか取り合えずは夜だった。


それまでの付き合いでも殆ど掛けた事のなかったオレからの電話。
何ヶ月間か連絡のなかったあいつの声が聞きたくて、寂しくて、そんな自分を情けないと思いながら押した短縮ダイヤル。

「花井?あの、オレ…」
「あぁ。何?オレやっと仕事終わって疲れてんだけど」
「あ、いや。ごめ…ん。…もう、いい」

それだけ言うのが精一杯で。
勝手に涙が溢れてどうしようもなくて電話を切った。
切ったのはこっちだったのに、あいつからまた電話がかかってくるんじゃないかって。
そう思ったら寝るのも怖くなって、布団の中で一睡もせずに待ってた。
電話はかからなかった。こっちからも、もうかけなかった。

あんな風に終わるつもりなんてなかったんだけど、あの頃はもう全てがいっぱいいっぱいだった。
今思えば、たかだか数ヶ月そこいら何の連絡もなかっただけなのに、何をあんなにも悲劇ぶっていたんだろう。
マメな連絡寄越したりそういう「恋人っぽい」のが好きなあいつがあんまり連絡しなくなっていって、最終的に何の音沙汰もなくなって。
黙って浮気なんて器用な事も出来ない男だったんだから、そしたら今仕事忙しいんだろうな、なんて分かりそうなもんだったのに。
堪え性もなく電話して、何かを勝手に期待して、苛ついた声を聞いて勝手にへこんで、勝手に泣き出して。
そんなんで泣いた自分がすごく惨めで声を聞きたくなくて聞かれたくなくて。

そういう諸々を、感慨深く思い出す。
あの頃は若かったな〜なんて、親父くさいこと思いながら。
あれから何年経ったんだっけ。そんな事ももう思い出せない。思いだす必要性さえ感じない。
もう過去だ。大分前から胸の疼きは「辛さ」から「感傷」へと名前を変えている。
未練なんてない。

そうはっきりと言い切れるのに、それでもまだこんなにも。
あの時の声を、会話にすらならなかった会話を、鮮明に思い出せるのは何故だろうか。

ふと気付けば「そういえば高校の頃はあんた達も」とお母さんが話し出していた。
残念ながらオレは長話の類が苦手だ。しかもあいつ絡みの話となるとどう返せば良いか迷うものも出てくるだろう。
逃げるなら今の内、と長くなりそうな話の腰を折るように軽く伸びをしてから立ち上がった。
「お母さん、オレバナナミルク買ってくる」
「ちょっと!何年も言ってるけどあんたアレをバナナミルクって言うの止めなさいよ。バナナミルクに失礼よ」
「いいじゃん、バナナミルクだって混ざってるんだから」
「他に混ざってる物が凶悪すぎるのよ。大体あんな変なの飲んでたらそのうち舌馬鹿になるって…」
「いってきます」
「はい、いってら…ちょっとタカ!…もう、いい年して」
いい年してても仕方ない。これは習慣だ。
近所の自販機に、納豆黒酢バナナミルクを買いに行く。
高校の、そうだ。あいつと付き合いだして直ぐの頃。
ゲテモノが必ず一つは交じるので有名な自販機で見つけた飲み物。
不味くて飲めたものじゃないと思いつつ、それでも飲み続けているうちに不味さにハマった。
最近はそんなオレのためか知らないが、不味さに磨きがかかってきている。
ちなみに進化したこいつの正式名称は「帰ってきた!納豆黒酢バナナミルクVer.4」というらしい。

そういえば、これの初期バージョンだけだったな。
ゲテモノ好きな俺が、不味い飲物なんて飲む気もなかったろうあいつに、無理やり押し付けて飲ませたジュースは。


魔のジュースだ何だと騒ぎながら、それでもあいつは最後まで飲んだ。
「残せないもんな、お前」と笑ったオレに「お前だってオレ居なきゃ残さず飲むくせに」と悔しそうに言い返して、あいつはむせながらゆっくりと最後まで飲んでった。
オレはといえば、確かにオレも残さず最後まで飲むんだろうな、とそう思いながらも笑い続けて、そして。
不味いジュース飲みながらオレの隣を歩くヤツが花井でよかったと、何故だか少し泣きそうになった。

そう、あれは。
刺すような夏の日差しの中でも柔らかく、確かに幸せという名にふさわしい時間だった。


今更こんなことを思い出すのは、母親に不意打ちで聞かされたあいつの名前のせいだろうか。
オレはまだあいつの幻影に振り回されてんのか、と軽く舌打ちしたくなりながら、硬貨を投入口へ入れる。
いつものようにガシャンと落ちてきたバナナミルクを、これまたいつもの慣れた動作で取り出し口から取り出す。
そのまま立ち上がろうとした時、ふと缶専用ゴミ箱が目に入った。
その丸く開いた穴から覗く「帰ってきた!納豆黒酢バナナミルクVer.4」の缶。
(…めずらしい。誰か飲んだのかコレ)
足元やその周りを見回しても中身を捨てたような跡はない。
とするとコレを買ったやつは飲み切ったのか。このジュースを?
…どんな物好きなヤツだよそれ。
自分の事は棚に上げて、物珍しさにプッと吹き出す。
(それにしても、コレ飲んだやつの顔見てみたかったな)
なんて興味本位で思った後、今度はそんな考えが浮かんだ自分に思わず笑った。
わざわざ見も知らぬ他人の顔を拝んでどうするってんだ。
やっぱり今日のオレはちょっとおかしい。

これ以上おかしいことを考えたり思い出したりしないうちに、さっさと家に帰ってしまおう。
きびすを返して歩き出す。いつものように真っ直ぐに背筋伸ばして少しだけ早足で。

一歩を踏み出そうとして、ふと振り返る。
オレを呼ぶあいつの声が聞こえた気がした。

高校生の、まだ若いからちょっとだけ硬めで、だけど聞いてるだけで熔けてしまいそうな。
遠慮がちに、でもしっかりと掴んで離さないような強さで「阿部」と呼んだ、あいつの声。
あの頃、一番幸せになれて一番好きだったあの呼び声。

振り返ってもそこには自販機があるだけだった。
今度こそ振り向かず、歩き出す。

少しだけ迷っていたあいつへの連絡は、取らない事に決めた。
あの頃のオレとあいつ二人には、胸の中で密やかに埋もれて生きて欲しいと思った。
先刻のゴミ箱の中の空き缶のように。


これの阿部視点
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