■あの街角■ 細く、折れ曲った道を進むと、その家はあった。何かの倉庫として使われている建物の二階に、幼い彼らは住んでいた。この街は、古くから港町として栄えた。南風が強く吹くと、潮の香が強く漂う、ここは、そんな場所だった。 港町と言っても、数年前に隣町に新しい埠頭が完成し、以来豪華な客船はここへは停泊しなくなった。工場へ運ぶ何かの鉱石やら、原料やら、食糧やら、そういう雑多なものが陸揚げされる。いきおい、この港で働く男たちも船員というよりは水夫という言葉が似合う連中ばかりになった。 ついさっきまで居た男も、そんな中の一人だったのだろう。もう、戻って来ないんだな、とサガは思った。母親が泣いている。部屋は散らかり放題散らかされ、キッチンには割れた皿が散乱していた。母親に殴られた弟も、自分に取り付いて泣いていた。 まったく、なんで毎日毎日こう泣き喚かなきゃならないんだ。 「カノン、外へ出よう、外へ出て、船を見よう」 「ああ出てけ!もう戻って来なくていい!お前らのせいで、お前らがいるせいでいつもあたしは捨てられるんだ!お前らさえ生まれなければ!!」 またそれか。そんなことは体のいい口実だろうに。 サガは母親に対して哀れみすら覚えた。サガの胸に顔をうずめて泣いていたカノンがきっと顔を上げる。 「お前っ…がっ。お…まえっ………かって…にっ……うんだくせにっ!」 「カノン!!」 泣きすぎて、もうまともに息することすらままならなくなっているくせに、どうしてカノンはこうも反抗するんだろう。母親が逆上することくらい分かっているだろうに。 予想通り、罵声とともに小さなガラスの壜が飛んで来た。それはカノンをかばったサガの背中に当たり、床へ落ちると派手な音を立てて砕け散った。ほのかに漂う甘い香りがひどく場違いだった。 「なんだいその目は!」 母親は、空気を引き裂くような金切り声で叫んだ。 「言いたいことがあるなら言えばいいじゃないか!!」 またはじまった、とサガはため息をついた。 「そうやって何か言いたげな目でじっと見て、おおいやだ、お前はほんとうにあの男にそっくり!!」 「行こう、カノン」 サガはいたたまれなくなって外へ出た。気に食わないことがあると、決まって母は自分たちに当り散らした。母の言う「あの男」とは言うまでもなく兄弟の父親のことだ。だが、そっくりなのかどうかは二人には分からなかった。 サガはカノンを抱き抱え、足早に路地裏を歩いた。ここは、早く抜けなくてはならない場所だということを、ずいぶん前から知っていた。ここの住人たちが、どんな目で自分たちを見ているか知っていたからだ。盛大にしゃくりあげる弟と、背中が濡れたまま出てきた自分の姿を見られたら、また何を言われるかわかったものじゃない。 あそこの家の子はいつも同じものを着ている。それも首が伸びきって、擦り切れそうなシャツを。 それに、ちょっと臭う。洗濯しているのかしら。洗濯どころか、入浴させてるのかしらね。 まぁ、あそこの家だから。 そう言われていることを、母は知っているのだろうか。 母を悪く言われるのが耐えられなかったのか、それとも自分がみじめだといわれるのが我慢ならなかったのか、サガは自分でも分からなかった。 物心ついたとき、父はすでにいなかった。母は美しいが、疲れた顔をしていて、ときおり知らない男が家に住むようになってはいつの間にか去って行った。それを一体何回繰り返しただろう。 それでも、母は男に庇護されることを強く望んでいた。男が住み始めるころは良い。暖かい食事が食べられるし、母はよく笑う。笑うと、母は本当に美しかった。 どの男も、はじめのうちは二人に馴染もうと努力してくれた。だが、カノンは激しく拒絶して、決してそれを受け入れようとはしなかった。 カノンが男にもう少し懐いてくれれば、母親が笑顔を見せてくれる回数も増えるだろうに、とサガは思っていた。もちろんサガとてその男性を父親と呼びたくなどない。だが、すさんだ生活から抜け出すにはそれしか方法がないことを、サガは知っていたのだ。 サガは母に愛されたかった。泣いたり喚いたり、叩かれたり、そんな生活はもうたくさんだった。 男が住み始めてしばらくのうちは、二人におもちゃを買って来たり、動物園へ連れて行ったりした(カノンは終日ぶすくれて口ひとつきかなかったが)。芙蓉のような笑顔を浮かべた、母親も一緒に。 だが、そんな時期はすぐに終わってしまう。男が酔って帰ってくるようになり、自分たちを邪魔者扱いするようになると、慎ましやかな幸せは終わりを告げる。金食い虫と呼ばれ、気に障ると言っては蹴られるようになる。母親はそれを見ぬふりをし、食事は出してもらえなくなる。 それは、そんな時期に起きた事件だった。 「このガキャあ!」 男の手が、サガの首を締め上げた。 なんで、なんで僕が。僕は言うことを聞いていたじゃないか。 「いちいちそんな目で睨むんじゃねえ!」 それはカノンだ、とサガは叫びたかった。自分は、必死で我慢して、自分の気持ちを押し殺して来た。父さん、と呼ぶことは流石に出来なかったが、本当はいやなところを我慢して、岬の近くにある小さな水族館では手もつないだし、映画館では一緒にポップコーンも食べたじゃないか。なのに、この男は二人を見分けることも出来ないのか。 大人はいつも自分たちを一まとめにしか見てくれない。僕は、サガだ。僕は、カノンじゃない! それを言うことすらできず、ただただサガは足掻いた。 息が出来ない。気道を詰められ、通常では決して有り得ない感覚がサガの精神をも締め上げる。目の前が暗くなる。生命の危機を本能が告げていた。 やめろ! 自分と同じ声で、カノンが叫ぶのが聞こえた。男の背中にかじりついて、さんざん暴れている姿が霞む視界の中に見えた。 カノン、やめるんだ、そんなことしたら、また殴られる――――。 サガの喉がいよいよきつく締め上げられた。 やめろ――――!! サガは、頭の中で白い光が炸裂するのを感じた。男はまるで人形のように、後ろの壁へと叩きつけられた。 「な……なに…?」 信じられない、といった目で男はサガを見た。 「何を……お前何をした!!」 有り得ないことだった。サガは床に首を絞められる格好で床に縫い付けられ、身じろぎひとつ出来ずにいたのだ。まともに組み合ったとしても、まだ10歳にもならない子供が、大人の男を投げ飛ばすことなど出来るはずがない。 それを見た母親が、慌てて駆け寄った。サガにではなく、サガの首を絞めた男に。 「大丈夫かい?!」 男に取り縋ると、きっと母親はサガを睨んだ。 「出て行け!この化け物!!お前らは生まれたときから気味が悪かったんだ!何故いつも25番埠頭へ行くんだ!あそこは……、あそこはあいつの船が着く埠頭だったんだよ!」 母親は半狂乱になって叫んだ。 あいつ……?父さんのこと………? サガはむせる喉を押さえながら母を見やった。 「なんでお前たちは…生まれる前のことを知ってるんだ!もうたくさんだ!こんな化け物が二人もいるだなんて、あたしには耐えられないんだよ!!どこかへ行って!もう二度と…戻ってこないで!頼むからもう二度と戻ってなんかこないで!!」 母の、長い黒髪は乱れて散らばり、赤く、泣き腫らした目が二人を見ていた。 「サガ!!」 カノンがサガをかばうように抱きついて来た。 「出てこうぜ!俺もう嫌だ!!おれ…もう……」 二人がぼろぼろになって外へ出ると、黒い布を頭からすっぽり被った男が立っていた。 「お前たちを迎えに来た」 「誰だお前!」 「わたしは聖域から参った者」 男は低い声でそういった。 「お前たちは強大な小宇宙を持っている」 「こ……す…も………?」 「お前の母親が、化け物と呼んだ能力のことだ」 「な、なんで……なんで知ってんだ!」 「わたしもまた小宇宙に目覚めているからだ。意識を集中させれば、壁一枚隔てた人間の声を聞くなどわけのないこと」 男はすっと跪くと、サガの首に手をかざした。サガはびくりと身を硬くする。だが男はサガに触れることはせず、そのままの姿勢で話を続けた。 「あの男がお前の秘められた能力をこじ開けてしまったのだ。もはやお前は普通の人間としては生きていくことは出来ぬ。お前の……お前たちの小宇宙は強すぎる」 男のかざした掌から柔らかな光が溢れた。ひんやりと心地よく感じる。癒しだ、とサガは直感した。男が掌を下ろすと、サガの首についていた、締められた痕はすっかり消えていた。あれほど赤く、くっきりとついていたのに。 男はゆっくり立ち上がり、言った。 「さあ。来るが良い、聖域へ」 潮の香りが立ち込める風の強い日、こうして二人は旅立ったのだった。 |