■秘密■


 カノンが出て行ってしまってから、三日が過ぎた。三日前のあのとき、アイオロスがサガのために持って来てくれた、古い何冊もの本を受け取り、詳しく説明しようとするアイオロスを、具合が悪いのだと嘘をついて、サガは早々に追い返しそうとした。また日を改めて、ゆっくり、詳しく聞かせて欲しい、と。
 サガは、カノンのことが心配でたまらなかった。アイオロスに早く、早く帰ってくれ、とサガは胸の底で必死に願った。早く、どうか間に合ううちに。
 アイオロスは、サガのことが余程心配だったのだろう。大丈夫だと強硬に主張するサガを無視して、しつこく食い下がった。
 古歌に対して起こす感応は特別なものである。知ってしまえば、このときアイオロスが大人しく引き下がらなかったのは当然のことと分かる。的確な対処をしなければ、精神を崩壊まで追い込んでしまうこともあるからだ。だが、このときのサガにはそんな知識はなかった。アイオロスの行為は鬱陶しく、迷惑としか思えなかった。
 二人の、運命的とも言えるすれ違いは、このときから始まったのだった。

 サガは、仕舞いには語気を荒らげた。アイオロスは説明の途中だったが、なにかあったら、使いを寄越して、とそれだけ言って仕方なく引き下がり、自分の宮へと戻って行った。

 サガは、扉を閉めるが早いか、振り返ると慌てて廊下を駆けた。

 どうか、間に合ってくれ……!
 カノン!カノン!!
 わたしは、約束を守っただろう?扉を開けはしたが、入口で対応して、私室へ入れることはしなかっただろう?わたしは、お前を蔑ろになどするつもりはない。聖域の命だから、仕方なくお前の存在を隠しているだけなのだ。

 廊下の突き当たりにある、大きな樫の木の扉を破らんばかりに開ける。

「カノン!!」

 ふう、と風が吹き抜けた。

 裏庭へ出られる、大きな窓は開け放たれたままだった。薄い布地を垂らした外からの目隠しを、風がゆうらりと揺らしていた。

 サガは、ああ、と小さく声を上げた。

 間に合わなかった。カノンは、行ってしまった。

 いや、裏庭にいるのかもしれない。サガは自分を必死で励ますと、裏庭へカノンを探しに出た。何の小宇宙も、二人にしかわからない二人だけの気配も感じられなかったのに、サガはそれに気付かぬふりをした。カノンは、裏庭のどこかで夜風に当たっているのだと、必死で自分にそう思い込ませて、夜が明けるまで、裏庭を歩き回ったのだった。




 翌日、サガはいつものとおり、教皇庁へと登庁した。一睡もせずにカノンを待ったが、結局カノンは戻らなかった。前にも、こんなことがあった。サガは、まだ聖闘士になる前、カノンがあの小屋を飛び出して行ったときのことを思った。あのとき、カノンは聖域へと潜り込んでいたのだった。
 結局、一つの聖衣を二人で共有することが可能なのかを掴むことは出来なかったが、カノンはさまざまな情報を得て戻って来た。今にして思えば、恐るべきことである。
 ひとつの聖衣に二人の聖闘士の存在が許されるか、そういった前例があったのかは、サガが黄金聖闘士となり、重要な古い史料を見ることが可能となった今でさえ、まだ見つけられていない。

 あのときのように、しばらくしたらカノンは帰って来てくれるはずだ。
 あのときのように、わたしはカノンの帰りを待つしかない。

 サガは物思いに耽りながら、白い石の階段を上った。

「おはよう!大丈夫かい?」

 その声に、サガは顔を上げた。

「具合がまだ悪いなら、今日は休めば?言っておくよ?」

 声の主はアイオロスだった。昨日の非礼を詫びるサガに、ああ、そんなこと気にしないで、と軽くアイオロスは返し、続けてこう言った。

「サガ、一つだけ聞いて欲しい。こういう能力を持った人は、秘密を持ってはいけない。たとえ、どんなにまずいことであっても、誰かと共有するんだ。そういう誰かを、女神は必ず用意してくださっているはずだから、決して一人で背負いこまないで」

 その誰かとは、君のことだと?

 サガは、アイオロスをじっと見つめた。そして、目を伏せ、こう言った。

「ありがとう、君が居てくれて、たすかる」

 共有すべき誰かとは、君のことじゃない。わたしが全てを共有すべきは、カノンなのだ。
わたしの最大の秘密を、最も隠さなければならないのが、君だ、アイオロス。

「もし良かったら、今日終わったら教えてもらえないだろうか。君の知っているさまざまなことを」

 サガのその言葉に、アイオロスは嬉しそうに頷いた。



 今まで知らなかったことを、知っていくことはサガを大いに興奮させた。その日の予定が全て終わった後、アイオロスは若い神官たちにサガを引き合わせた。

 彼らは聖域に伝わる伝説や、今までの聖闘士たちが使って来た技、十二宮の成り立ちや人間社会との繋がりなど、さまざまことを研究していた。
 カノンのことは常に気にはなっていたが、そうした新しい世界が開けて行くことに、サガは徐々に夢中になって行った。
 新しく知り合った神官たちは、サガが全く知らない人種だった。彼らはとても怜悧で、全く違う価値観、そして広い視野を彼らは持っていた。サガは、アイオロス、彼らと毎晩遅くまで語り合った。

 彼らのことを、アイオロスはこう言った。

「素晴らしい人たちだろう?聖域は、こういう素晴らしい人たちが支えてくれているんだ」

 サガは、アイオロスのその物言いが少し引っ掛かった。支えて“くれている”とは、まるで自分のために彼らが存在しているようではないか。
 アイオロスは、やがては自分が教皇となり、この聖域は自分のものになると思っているのだろうか?
 もしもアイオロスが教皇となったとしても、聖域は教皇のために存在しているわけではない。突き詰めて言えば、女神のためですらないだろう。聖域が存在するのは、地上の生きとし生けるもののためだ。女神や教皇は、その根本たる目標のために、誰よりも己の持てる全てを捧げなければならない存在であるはずだ。
 いや、こんなことを思ってはいけない。そこまで思って、サガは自分を窘めた。わたしが神経質すぎるのだ。言葉じりを捕らえ、揚げ足を取ってばかりいると、カノンにも散々指摘されてきた。こんな風に考えるのはわたしだけなのだ。こんなふうに、思ってはならない。サガは、自分にそう言い聞かせた。

 そう思っていたところに、アイオロスが唐突に質問をした。

「サガ、大丈夫?」
「え?」
「いや、ここのところ、ずっと小宇宙が弱いから……」
「わたしの、小宇宙がか?」
「そう。いつもは、双児宮は恐ろしく強大な小宇宙に守られている。まるで、君が二人いるみたいに」
「!」

 アイオロスのその言葉はサガを戦慄させた。

「いや、それは素晴らしいことなんだ。聖衣と相性があるように、宮とも相性がある。きっと君は双児宮ともぴったりなんだろう。双児宮は君の小宇宙を増幅させてる」

 サガは、背中を冷たい汗が伝うのを感じた。アイオロスが言いたいことは……。

「それが、ここのところ感じられない。君一人分の小宇宙しか感じないんだ。三日くらい前からね」

 やはり。それは、まさしくカノンが出て行ったあの日のことを差していた。

「君は、自分のことは二の次にして、周りのために動いてしまうから、今日も無理して参加してるんじゃないかって心配だったんだ」

 サガの瞳を、じっと覗き込みながらアイオロスが言った。深い深い翠の目は、何もかもを見透かしてしまいそうで、サガはとても恐ろしかった。

 どうしよう、何と答えれば良い?

 サガは窮地に立たされた。狼狽している気配すら、察せられてはまずいのだ。早く、早く答えなければ。

「た…たぶん、小宇宙の制御をしているからだろう。君が持って来てくれた本を読んで、ちょっといろいろと試してみている」

 それは、本当のことだった。サガを感応させる「気」を遮蔽するためには、自分の小宇宙を「閉じる」必要がある。また、自分の小宇宙を開放して、「気」を受け流すことも出来るようになる必要があった。サガは、ここのところ、それらをさまざまに試していた。
 アイオロスが指摘した、小宇宙の半減はもちろんカノンがいなくなったことが原因だ。「まるで二人いるようだ」とは炯眼だった。さすが黄金聖闘士である。事実を誤魔化すには別の事実を持って充てるしかない。サガは、自分が今行っている実験が、双児宮の小宇宙の半減の原因だと説明して難を逃れようとした。

「そうだったのか。俺の本を、試してくれていたの」

 サガの説明を受けたアイオロスは、嬉しそうにそう言った。どうやら、信じてもらえたらしい。

「サガなら、すぐ出来るようになるよ。俺には分かる」

 アイオロスは明るい瞳をして、大きく頷くと、サガの方を向いてこう言った。

「ほんと、隠し事はするなよ?俺に、何でも話して。俺も、君に相談させてもらうから」

 サガは、頷くしかなかった。曖昧な笑みが浮かぶのを、抑えることは出来なかった。



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