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     「…ノン、カノン」

 カノンは浅い眠りの中で、自分を呼ぶ声を聞いた。墨を流したような、いやもっと濃く、どろりとした完全な闇の世界。そこには音も何一つ無かった。ときおり自分はもう生きてはいないのではないかという錯覚にとらわれる。そんな中に突如として聞こえた人の声は、カノンの意識を夢から覚ますには充分だった。

「聞こえるか?聞こえるなら返事してくれ」

 声の主は二人の体術教師のロヨルだった。

「ロヨル!」

 ここに閉じ込められて以来、初めて聞く人間の声だった。

「カノン、聞いてくれ。時間がないから手短に話す。これからお前に命が下される。お前には納得が行かないものだろう。だが、決して逆らうな。謹んで、お享け致します。それだけ言うんだ」
「え」
「逆らえば、反逆とみなされる。決して承諾の言葉以外を言ってはいけない」
「な…なにを……ちょっと待てよ、突然来て何言ってんだ」
「カノン、時間がないんだ。どんなに納得の行かないことを言われても、お享けいたします、とだけ言え。絶対に守るんだ。わかったな?」

 聞きたいことは山のようにあった。ここはどこなのか。いつ自分は出してもらえるのか。出されたあと、自分はいったいどのように処遇されるのか。そして、なぜ自分が負けなのか。カノンはロヨルの勢いに圧倒され、言い出す機を完全に逸してしまった。

「わ…わかった……」

 ロヨルが頷く気配がした。そして、思い石の扉が床を重い音を立てて擦る音が聞こえた。ほんの少しだけ動いた空気がまた完全に止まる。何もかも動くことのない完全な沈黙の世界が再びそこに鎮座した。

 頷いてしまったものの、一体命の内容とはどんなものだろう。納得が行かないもの、とはどういうことだ。どんなに納得が行かなくても、とはどの程度のことを言うのだ。程度によっては承服しかねることだってあるかもしれないではないか。
 はらはらする。いらいらする。それを知るにはその命の内容を聞くしかないのに、それを教えてもらえないまま頷いてしまった。質問することも許されないのか。ロヨルのあの口ぶりからすれば、許されないと解すべきだろう。
 カノンはためいきをついた。ここに来て、納得の行かないことばかりだったというのに、それが終わるどころか、もっと酷くなると宣告されたようだ。

 ほどなくして、再び扉が重い音を立てて動いた。

 扉が開くと、そこには黒い長衣を来たでっぷりとした男が立っていた。目の下はだらしなく弛み、顎は二重三重の肉がだぶついて首と顔の境目などとうに分からなくなっている。
 闘技場で見た時はこれほど近くはなかったからよく判らなかったが、長年のだらしない生活がその肉体に顕れているようだった。ヨランドが言っていたように、誰がこいつを聖闘士だと思うだろう。そう。彼は聖域一の権勢を誇るエリダヌス座のリウテスだった。

 リウテスは両脇に松明を抱えた雑兵を従えていた。初めてカノンは自分の入れられていた部屋を見た。切り出しの石ですべて覆われ、かみそりの刃すらその石の隙間に入れることは不可能ではないかと思えるほど、石は緻密に組み上げられている。

「教皇猊下の代理として、このエリダヌス座のリウテス、お前に命を下す。だがその前に」

 リウテスのその言葉を受けて、二人の雑兵が入って来た。黄金の槍を手にしている。
武人らしいきびきびとした動きで、リウテスの前へ立ち、そして二人は両脇へと幅を取ると、その手の黄金の槍を交差させた。
 後続は何人いただろう、先の二人と全く同じ動作で立ち、脇へ避けると黄金の槍を交差させる。
 こうしてリウテスとカノンの間は、交差された黄金の槍で幾重にも隔てられた。そして最後に、ロヨルが入ってきた。ロヨルもその手に、黄金の槍を持っていた。リウテスの前に立ち、一礼をするとカノンの方へと向きを変え跪いた。そして、その手に持った黄金の槍を、祝詞を上げながら恭しく掲げ、そしてその交差しているところへと槍先を合わせた。

 瞬間、その場の空気が全く別のものとなる。強力な結界が出現したことはすぐに知れた。黄金の槍は、何か特別な祈りか、小宇宙が籠められたものであるのだろう。

「お前が変な気を起こしても無駄だと言っておく。お前にとり、この交わされた十三本の槍は特別な意味を持っている。それだけではない。この槍はアテナの加護を受けておる。そしてこの部屋も特別な部屋だ。もしもお前が小宇宙を発動すれば、それは数倍ともなり撥ね返って、お前を潰すだろう。ゆめゆめ変な気を起こさぬよう。わかったな?カノン」
「…は」

カノンは小さく返答した。

 変な気を起こす気も失せるというものだ。黄金聖闘士候補だったとは言え、相手は子供一人ではないか。仰々しすぎて滑稽だ。しかも、俺が「変な気」を起こした場合、黄金の槍を持っている雑兵は間違いなく死ぬことになるだろう。正面に跪く、ロヨルは間違いなく即死だ。まがりなりにもリウテスは聖闘士だろうに。自分の部下を、しかもカノンの教師役であったロヨルを己の盾に使おうとは聞いて呆れる。これが聖域ナンバー2のすることか。

 カノンの心の中までを見抜くことの出来ないリウテスは、とりもあえず満足したようだ。小さく頷くと、尊大な口調で語り始めた。

「良い。では申す。心して聞くが良いカノン。このエリダヌス座のリウテス、教皇代理として話して聞かせる」

リウテスはたっぷりと間を開けて続けた。

「お前に双児宮を住まう栄誉を与える」

 それは、まるで舞台に立つ役者のような振る舞いだった。

「お前の兄、サガとともに守護せよ」

 カノンはひどく混乱した。ロヨルが言った、納得が行く、行かないのレベルではない。何がどういうことなのか、全く理解出来ない。自分は、兄サガとの戦いに敗れ、雑兵となるのではないのか。

「ただし、双児宮にお前が居ること、悟られること決して許さぬ。お前は居らぬか、サガとして振舞うことを命とする。アテナの思し召しと心得、能く(よく)務めよ。良いか」

 良いか、と言われても、カノンは当惑するばかりだった。

 一体どういうことなのだ。自分は雑兵となり、オルコスやヨランドが住むあの地区で生活し、聖域の警護や雑用にあたるのではないのか。サガとして振舞え?俺はいないものとして振舞え?

「良いかと問うておる!」

 カノンは自分を射抜く、ロヨルの眼差しに気付いた。

「何があっても、謹んでお享けします、とだけ答えろ、いいな?」

 ロヨルは、そう言ったあのときのままの視線で、カノンをじっと見据えていた。

「つ…謹んで……お享け………いたします……」

 怖れていた反抗をされることもなく下命が済み、リウテスは明らかな安堵の表情を見せた。そして、のさばるような態度でカノンにこう言った。

「教皇猊下の特別なご配慮を賜りこのような命となったこと、決して忘るるでないぞ」

 そう言うとリウテスは松明を掲げた雑兵を一人、そしてとロヨルを残すと、残り全員を従えて通路の奥へと消えた。

 リウテスの気配が完全に消えるのを待ってから、ロヨルは立ち上がった。

「よく守ってくれた。ほんとうに良かった」

ロヨルはほんとうにほっとしたようだった。

「納得行くもなにも、どういうことなのかさっぱり分からなかった。なんだ?双児宮って。それにサガのふりしてろってどういうことだ?いつまでそうしてればいい?」
「双児宮っていうのは、アテナ神殿を守るために配された12の宮のうちの一つだ。一つ一つを、その星座を拝する黄金聖闘士が守る。双児宮というのは、双子座が守る宮のことだ。サガは、双子座の黄金聖闘士だ。だから、双児宮はサガが守る宮ということだ。お前はそこにサガと一緒に住み、必要なときはサガとして振舞ってもらう」
「必要なとき?え?じゃあそうじゃないときは?」

 揚げ足を取るなと怒られるかと思ったのに、ロヨルはその質問には答えなかった。カノンは訝しがりながら続けた。

「必要じゃないときは誰にも見つからないように、そっと屋敷の奥に潜んでろって?」

 カノンは半分おどけて聞いた。そんな馬鹿げたこと、冗談に決まっている。 だが、ロヨルは答えない。

「まっさか冗談だろ?そっと息を潜めて、誰にも見つからないようにこそこそ隠れてろなんて。俺っていう人間はどうなっちまうんだよ?」

 ロヨルは沈鬱な表情のまま、尚も押し黙ったままだった。重苦しい間がその場を支配した。ロヨルは、カノンの問いを否定しない。

 うそだろ、そんな…まさか……そんな馬鹿なこと………。

 カノンは耐え切れずに叫んだ。

「誰だそんなこと思いついた馬鹿は!そりゃ同じ顔だからそんなの簡単だろうと思うだろうよ。だけど冗談じゃねえぞ!俺はサガじゃない!俺はサガとは違う!あんなヤツと俺は全然違う!!」

 カノンの怒りは、一旦爆発すると治まらなかった。ずっとこらえていたのだ。どうしても知りたくてたまらなかった疑問だ。

「だいたいあの試合だって、どうして俺が負けなんだよ!分かるように説明してくれ!!どうしてなんだ、理由を説明してくれよ!!」
「カノン」

 ロヨルは意を決したように話始めた。

「組織とはそういうものだ。納得が行かなくとも、どんなに理不尽であろうとも、命令とあらばそれを聞かなければならない。確かにこの聖域は強いものが歓迎される。だが、それだけじゃない。聖域の秩序を守るため、ひいては聖戦に臨むために理不尽な命令はいくらでも下る。命令を下すのは、教皇だ。教皇の命令は、この聖域では絶対なんだ。お前もいつまでも子供ではいられない。組織とは――聖域とはどういうものであるか、それを理解しなければならない」
 
 カノンが短気を起こせば、間違いなく死ぬ。そんなことは百も承知だ。カノンの小宇宙がどういった性質で、どのぐらいの破壊力を持っているかを最も間近で見て来たのはロヨルだったのだ。誰よりもそれを知った上で、ロヨルはカノンの正面に立った。リウテスを守るための盾として。そのロヨルが言うのだ。それが、組織だと。

「だけど…だけど……いくらなんでも………」

 自分を自分と認めてもらえない。サガとして振る舞い、サガとして語り、サガとして微笑まなければならない。たまたま双子であったために下された命令は、あまりにも不条理だ。例えカノンがどんなに頑張っても、カノンがどんなに素晴らしい結果を残しても、それは全てサガのやったことなのだ。
 では、自分は一体何のために存在しているのだ。サガのため?聖域のため?たまたま一覧性双生児だったばかりにだ。もし同じ双子でも、サガとカノンが一卵性ではなく、違う姿形をしてさえいればこんなことにはならなかったのか。そう考えると、カノンは体中の血が逆流するかのような怒りを覚えずにはいられなかった。
 だがロヨルはそれが組織だと言った。世界を守るために在る、聖域の秩序なのだと。そう言われてしまえば、カノンは完全に手詰まりだった。

「試合の結果については、教皇が必要とご判断なさればお話くださるだろう。そうご判断いただけるよう、しっかりやるしかない」

 そのとき、外気が流れ込んできた。扉が開け放たれたのだろう。松明の炎がゆうらりと揺れた。
カノンは己の気持ちを松明の炎の中に見た。揺れる不安か、燃える怒りか、どちらなのかはわからなかった。



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