■Let me go3■ 「サガ、大丈夫?」 儀式が終わり、放心状態で教皇の間へと続く回廊を歩くサガに、アイオロスは声を掛けた。 「あ…ああ……。少し、大きいんだ。ちょっと擦れて、それが気になって……」 サガは金襴の襟元を引っ張って、首との間に少しでも隙間を作ろうとしながら言った。金襴は襟元と、前を留める部分を覆って足元まで続いていた。それ以外の部分は無地の布が使用されていたが、こんなものまで織り込めるのかと思うほど、精緻な紋様が布地に織り込まれている。 「ちがうよ」 アイオロスは笑いながら言った。 「今日の古歌は強烈だっただろ?ふらふらしてない?」 「ああ…、そっちのことか……まぁ…、何とか……」 サガは青い顔をして答えた。虚勢を張っているのは明らかだった。 「ちょっと話そう。少し風に当たった方がいい」 そう言うと、アイオロスは回廊の窓辺へと歩み寄り、サガを呼んだ。窓からは遥かに地中海が見えた。沈み行く太陽は全てをオレンジ色に染めて、海はキラキラと光を弾いていた。 「………」 サガは絶句してその光景を見つめた。 「ね?ここ、絶景ポイントなんだ」 水平線にかかった雲の渕が、黄金に輝いている。二人はしばし、その美しい光景を黙って見つめた。 「躱す方法が書いてある古書があったなぁ…。どれだったかなぁ?俺には全然関係ないと思って全然覚えてないや。なんてタイトルだったっけ。こんなことならもっとしっかり勉強しておくんだったなぁ」 「大丈夫だよ、この間よりはずいぶんマシだ。方法は自分で見つけるから気にしないで欲しい。それより」 「ん?」 「こんな儀式があるなら、ちゃんと教えておいてくれ。今朝、迎えが来たとき、顔合わせなんて済んだって危うく言ってしまうところだった」 今日行われたのは、黄金聖闘士同志の「御顔合わせの儀」である。 二人は恐るべき力を備えた黄金聖闘士なのだ。行き違いがあって、反目し合うことになったら大変なことになる。それを避けるため、このような儀式を行うのだ。当然、二人が仲たがいすることのないよう、このときに歌われる古歌は強い言霊が籠められたものになる。 「こんな高格の儀式が行われるなんて、夢にも思わなかったんだぞ」 「ははは。待てなかったんだよ」 アイオロスはサガのきつい視線をものともせず、明るく笑いながら言ったかと思うと、すぐに神妙な顔になって続けた。 「そういうことは、きちんと説明しておかないとダメだよな」 「真面目に言ってるのか、他人事のように思っているのか」 「真面目に言ってるに決まってる!あのとききちんと言わなきゃいけなかった。でも……」 「でも?」 アイオロスはサガの目をまっすぐ見て、笑顔で言った。 「君と話すのがあんまり楽しくて、つい忘れてしまったんだ」 アイオロスの目は、深い緑だった。彼をとても暖かく感じるのは、この瞳のせいなのだろうか。 「一を聞いて、十を知るというのかな。サガは、すごく察しが良くて、余計な説明をしなくてもすぐに理解してくれるから、すごく話しやすいんだ。あれも、これも聞いてもらおうという気分になる。そうしているうちに、肝心なことを話すのをすっかり忘れてしまった」 そして、ごめん!とアイオロスは潔く頭を下げた。 「もう、いいよ」 夕闇が、世界をゆっくり包み始めた。もうすぐ、片手に油壷を、片手に松明を持った雑兵が、灯りを点しに回ってくるだろう。 「でも、聖衣を着ないんだな」 またしても、サガは襟元を気にしながら言った。 「ああ。聖衣っていうのは、軍装なんだ。余程の非常時じゃないとまず着ない。通常の儀式は法衣だよ」 永らく平和が続いたこの時代、聖衣を着用するのは聖闘士に選ばれたときと着任式のときくらいのものだった。だから、聖衣姿を見たことがある者は、ほとんどいなかった。 「そろそろ行こっか。腹減った」 アイオロスは黄金聖闘士らしく、聖域の慣例について精通していた。だが、アイオロスはそれを特に誇りとは思っていないらしく、笠に着るそぶりを見せることは全くなかった。その気さくさが、聖域の多くの者からの敬愛を集めていた。 サガは、ふと気になって今まで居た回廊を振り返った。 数年後、アイオロスはこの回廊から赤子の女神を抱いて逃走することとなる。そんな日が来ることを、このとき二人は想像だにしなかった。 ヨランドが泣いている。オルコスがヨランドをなだめている。でも、オルコスも目を赤く充血させて、その目に水の幕を張っていた。 「どうしたんだよ、なんで泣いてるんだ」 カノンが問うと、オルコスが慌てて腕で目を擦りながら答えた。 「メナスが………仲間が怪我して…もう聖闘士になるのは無理だろうって」 「利き腕のっ」 ヨランドがしゃくり上げながらその後を続ける。 「神け…っ、切っちゃってっ」 「うん」 「もうずっとっ…、腕上がらっっ……なっ。感覚もっっ戻ら……っ、ないってっ」 堪えきれずにヨランドは再び泣き出した。オルコスは背中をさすりつつも、ヨランドが泣くに任せていた。 「メナスって、左利きでさ……、重い嫌なパンチ出すヤツでさ………、仲間うちでは白銀候補じゃないかって言われてたんだ」 将来を嘱望されていたメナス。それが突然断たれた。神経を切ってしまったら、もうどうやっても回復は見込めない。完全に切れてしまったら、神経は再びは繋がらないからだ。感覚がない部分を囲んで、その周囲がぴりぴりと痺れたままとなる。恐らくは腋下をざっくり切ったのだろう。腕は肩より上に上げられない。日常生活は何とかこなせるだろう。だが、聖闘士になることは叶わない。 二人にとってメナスは好敵手だったが、それ以上に今までつらい訓練を共にしてきた仲間だ。将来、戦友になるはずだった仲間だ。カノンは二人の深い悲しみに共感した。オルコスがヨランドの背中をさすりながら話し始めた。 「あいつ、外に行くって」 「外?」 「外界に……聖域を出て、外の世界な、そっちへ行くって決めてさ」 「外の世界なんて行けるのか?」 猥雑な、自分が育ったあの街をカノンは思い出した。 「うん。行けるには行けるけど、記憶を消されるんだ。ここに居た間の記憶全部」 聖域は、特殊な世界だ。聖域の人間を狙う他勢力も多い。情報漏洩を防ぐためにも、本人の身の安全を確保するためにも、一般人への加害を完全に防ぐためにも記憶は無い方が良い。 メナスは健気にも強がって見せた。 お前らみたいなウザイやつら、忘れてせいせいするぜ。 俺、広い世界を見たかったし。 ほんとはお前ら羨ましいんだろ、俺は自由になるんだぜ? そう言って、メナスは振り返ることなく、聖域を去って行った。記憶を消す係であろう神官一人と、聖闘士一人に付き添われ、結界の向こうへと消えて行ったのだという。 そこまで話すと、オルコスは腕に自分の顔を埋(うず)めてしまった。オルコスの肩がかすかに震えていた。 メナス…メナス……。 ヨランドが泣きじゃくる声が、カノンの耳朶に何度も蘇った。 「カノン!聞いておるのか!」 リウテスのその声に、カノンははっと我に返った。 「あ……」 「あ、ではない!お前、己が役割を何と心得ておる!聖域の何たるかを知り、サガ様の代役を立派にこなせるよう………」 「……い」 カノンは、もうリウテスの説明を聞いていなかった。カノンの言葉を聞き取れなかったリウテスが声を荒げる。 「なに?!」 「外へ、行きたい」 カノンは、ぽつりと言った。 「なんだと?!」 「俺は、外界へ行きたい」 もう堪えられなかった。カノンは思いの丈をリウテスにぶつけた。 「記憶を消せば、外界へ行けるんだろう?俺は、ふつうの人間として外界で暮らしたい。もう、ここには居たくない。俺は、もともと外界の人間だ。外界へ、帰りたい。外界へ、帰してくれ」 もう、どうでもよかった。 負けた理由も。 黄金聖闘士となったサガのことも。 「思った通りではないか。だからわたしは反対したのだ。聖なる十二宮に置くには相応しくないと」 唾棄するかの如く、リウテスが言う。 「…………」 カノンはリウテスのその言葉に何も答えず、じっと黙っていた。 「ふん。前々より追い出したいと思うておったわ。わたしのクリスタル・ウォールを破ったときから、お前は聖闘士になる資質に欠くと考えていた」 「ならば……!」 悔しさと聖域から出れる期待をないまぜにして、カノンは言った。 「言うたであろう。お前をここへ置くは教皇猊下の特別のご配慮だと。わたしは何度も申し上げたが断固としてお聞き入れくださらなんだ」 時はすでに夕刻だった。あれほどじりじりと照りつけていた太陽もすっかり勢いをひそめ、西の空を、そして、ここに座る二人の横顔を茜色に染めていた。 「すでに聖闘士である。こう教皇猊下は申された」 「聖闘士?何言ってんだ、俺の負けを判定したのが教皇じゃないか!」 「そうだ。だが、猊下はただ一言そう申されたのだ」 サガが双児宮に帰り着いたのは、とっぷりと日が暮れてからだった。空には雲一つなく、夏の星座が輝いていた。 私室の扉を開けて、サガはカノンを呼んだ。答はなく、部屋はどこも真っ暗だった。 隠された存在だから、灯りも点けてはならないと思っているのだろうか?この宮がどのように建っているのか、一度カノンに見せなくては。私室は完全に死角になっていて、石段のどこからも見えないのだ。とくにカノンの居室は、裏庭に漏れる灯りの気配さえ見ることは出来ない。だから、あの部屋をカノンの居室に選んだのだ。 「カノン…どこに居るんだ?カノン」 サガはカノンの名を呼んでみた。だが応えが戻ることはなかった。サガはカノンの居室の扉をそっと開けた。 カノンは闇の中、一人ベッドに横たわっていた。 「カノン…灯りを点ければいいじゃないか……お前もここの住人なんだ、気兼ねすることはない」 サガはそう言って、机の上にあったカンテラに火を点けた。するとカノンはのっそりと起き上がり、ベッドに腰掛けた。カノンはサガの方へ身体を向ける形となった。 「サガ……俺の質問に…答えてくれるか」 カノンはうつむいたまま、掠れた声でそう言った。 「あ…ああ……」 サガは頷いた。カノンはそれまでうつむいていた顔を上げ、サガを見た。二人の目が合った。こうして、カノンが自分の目を見てくれるのはどのくらいぶりだろう、とサガは思った。 「あのとき……認定試合のとき、お前、俺に技を掛けたか?」 そういうと、カノンはじっとサガの瞳を見つめた。心の底まで見抜いてやろうという瞳だった。 「技?わたしが?」 サガが質問を返すと、カノンは、サガの目から視線を逸らすことなく、覗き込むような瞳のまま頷いた。 「いや、なにも掛けていない」 じり、とカンテラの芯が焦げる音が部屋に響いた。 「わたしは足元に気を取られ、その瞬間にお前が技を掛けようとするのが見えた。避けられない、と思った。そのときだ。教皇が制止の声を上げられたのは」 「ほんとうか」 カノンはなおも穿つような視線のまま、低く、つぶやくように言った。 「ほんとうだ。何が言いたいんだカノン、わたしがそんな嘘をつくと思うのか」 「お前、幻覚を見せたんじゃないか?」 「なに?」 「神経をいじって、俺に幻覚を見せただろうって言ってるんだよ」 「そんなことはしていない。わたしはあんな卑怯な技など使っていない」 「知ってるぞサガ。お前は本当は聖闘士になりたかったんだろ?神官なんかじゃなく」 「何言ってるんだカノン!わたしはお前が聖闘士になるものだとばかり思っていたよ」 「そうやって俺のこと油断させて、隙をついて精神を支配したってわけだ。まったく、俺の完敗だよ!」 「カノン!わたしはそんなことはしていない!わたしはあのとき、何一つ技を出せずにいた、だから何故わたしが聖闘士に選ばれたのか、とても不思議に思っていた。それを、教皇に―――」 「教皇に聞いてみたのかよ!」 「いや…それはまだだが……」 「ほれみろ!やっぱりお前は聖闘士に選ばれて悪い気はしなかったんだろう?!俺を欺けると思うなよ!教皇にそれを聞いて、結果を覆されるのが嫌だった、そうだな?!サガ!」 「ちがう!」 「じゃあなんでまだ聞いてないんだよ!お前は俺と違って教皇とさんざん顔を合わせてるはずだろ?!」 「聞いてくれカノン!ずっと儀式続きだったんだ、教皇と二人きりになれたことはまだ一度として……」 そのときだった。私室の扉が叩かれたのは。二人は息を呑み、扉の方を向いた。 サガ―、まさかもう寝てないよなあ。ちょっと開けてくれよー。 どんどんどん、と勢いよく扉を叩く音とともに、朗らかな声が聞こえた。 あれは……。 サガはさっと顔色を失った。 カノンは、サガを睨めつけた。 帰りしなに話した古書を見つけたんだ、明日も儀式があるから、出来るだけ早く見せようと思って。説明したいこともある、入れてくれー。重いよー。 「私室へは、誰も入れないって言ったよな?」 カノンが低く掠れる声で言った。 「そのくらいの権限ならばある、ここへ誰も入れなければ、俺は絶対に見つからないって、なぁ?」 サガ―。寝ちゃったのー。 「俺が出てけばいいんだろ?あいつが帰るまで、時間潰してくりゃいいんだよなぁ、サガ?」 サガは、震える唇を噛みしめ、言葉なく立っているしかなかった。 「はん、慣れてるよそんなの。母さんが男を連れ込んだときと同じ要領だ」 カノンは音もなく立ち上がると、裏庭へ出る窓を開け、立ち止まることなくそのまま出て行った。 サガはカノンを呼び止めることも出来ず、うつむいてその場に立ち尽くした。握りしめたサガの拳が、小刻みに震えていた。 知るもんか! もう、聖域の掟なんか、知るもんか!殺すなら、殺せばいい! カノンは、外界へ行こうと決意した。サガのことも、自分のことも、誰も知らない場所へ行こう。そう思った。そして、カノンは異次元の扉を開けた。 |