■Let me go2■




 翌朝、カノンは朝陽の中で目覚めた。 夏の、鋭い、だが清々しい太陽の光が、大きな窓から差し込んでいる。

 昨日はすぐに眠ってしまったから分からなかったが、カノンに与えられた部屋はとても開放的なものだった。東向きに天井まで届く大きな窓があり、そのまま裏庭へ出られる。窓を開けてみると、空の高みからひばりのさえずりが聞こえて来た。
 存在を知られてはならない人物が居住するのだ。もっと目立たない、屋根裏とか、地下牢とか、そういう隠し部屋でなくて良いのか、と閉じ込められる側のカノンが心配になるほどだった。

 ずき、と頭が痛んだ。心持ち胸が苦しい。昨日からだ。あの石段で感じた、纏わりつくような気配、じっと見られているような感覚。あれがまだ続いていた。

そのとき、ドアがノックされた。

「カノン、起きてるか?」

 扉の向こうから自分と同じ声が訪ねた。

「ああ」

 カノンは素っ気ない返事をした。

「入っても良いか?」

 どうしてこう気に障る言い方をするのだ。

「良いも悪いも、ここの主はあんただろうが」

 サガはそれには取り合わず、では入るぞ、と言って扉を開けた。

「どうだ?気分は治ったか?」
「最悪だ」

 気分も、機嫌もな。

「昨日の夜から、ずっと何かに纏わりつかれてるような気がする。頭が痛いのが治らない」
「カノン……それは………」

 サガが驚いたようにカノンに言った。サガは直感した。カノンも、あの声を感じているのだ。

「じっと心を落ち着かせて聞いてみるんだ」
「はぁ?」

 カノンは露骨に怪訝な表情を作り、サガを見た。

「それは、ここを守っている者たちの声だ」

 サガは、自分が体験したことをカノンに話した。あの仮面劇のこと、リウテスから聞いた聖域の歴史、そしてアイオロスから聞いた数々の伝説。

「お前さぁ……」

 カノンはほとほと呆れたという顔をして、サガを見た。

「さっそくかぶれちゃったわけ?」
「かぶれただと?失礼なことを。お前も見れば分かる。お前もわたしと同じように感じるはずだ」

 カノンはサガの言葉に違和感を感じた。

「お前はわたしの代役を務めることになると聞いた。わたしの体験を、共有して欲しい」

 ああ、わたしって言うのが気になったのか。なんだよ、呼び方までかっこつけることにしたのかよ。

「見たいって言えば古典劇が見れんのかよ?」
「…………」
「双子座のサガ様はそんなにわがままが言える立場なんだ?」
「わがままではない、これは必要なことだし、お前にとっても……」
「俺は好き好んでお前のフリしてえわけじゃねーんだよ!お前にそんな権限があるなら、代役なんかやらせない方向でお願いしますよ」

 叩きつけんばかりの悪意に辟易としながらも、サガは思いを巡らせた。カノンの気分が悪いのは、聖域への不審、不満を結界が察知しているからではないか、と。昨日のアイオロスの話をサガは思い出していた。

「ここの結界は、敵に対してはものすごい重圧として働くんだ。ある程度の力を持った奴じゃないと、足を踏み入れた途端に失神する。中には発狂する奴もいるよ」

 冥王軍のような強大な勢力ではないが、これまでに何回か、聖域に敵対する組織が戦闘員を送り込んだことがあったのだと言う。だが、アイオロスどころか、雑兵が出動するまでもなく彼らはその重圧に倒れた。「十重二十重の結界に守られている」というのは誇張でもなんでもないのだ。
 あの“声”たちは、カノンの不満を敵意と感じているのかもしれない。

「それに、俺をこんな部屋に住ませていいのかよ。もっと見つかり辛い隠し部屋に入れろよ。別に地下牢だってかまわないぜ?」

 さすがにその言葉にサガは気色ばんだ。

「そんなことはしない。私室への立ち入りを禁ずることくらい、簡単なことだ。ここの砦の主はわたしだ。そのくらいの権限ならばある。私室へ立ち入ることが出来なければ、お前の姿を見ることは誰にも出来ない」
「…………」
「カノン、どうか心を開いてほしい。あの声に耳を傾けてみてくれないか。きっとお前にも分かるはずだ」

 ふん、とカノンは横を向いた。サガを呼ぶ声がしたのは、ちょうどそのときだった。

「今行く」

 サガは振り返り、通る声でそう答え、再びカノンの方へ向き直った。

「また後で話そう」

 カノンは聞えよがしに大きなため息をついて、頭から布団を被ってベッドに潜り込んでしまった。
 サガはそれを出来るだけ視界に入れないように気を使いながら、扉の方へと体を向けた。

 一歩外へ出れば、いや、私室を出た瞬間から、わたしは双子座の黄金聖闘士なのだ。私事に囚われるようなことがあってはならない。いますぐには無理でも、少しずつ、立派な聖闘士として振る舞えるようにならなければ。

 サガは、あの夜の決意を思い返しながら、使者の待つ扉を開けた。




 サガが行ってしまってから、カノンはしばらく頭から布団を被って丸くなっていたが、頭の痛さが気になって、もう眠りに落ちることは出来なかった。しょうがないから、湯を使った。あたたまれば、少しは頭痛がマシになるかもしれない。湯は心地良かった。傷に多少しみたが、暖かく、柔らかな感触に包まれるのはとても気持ちがよかった。

 思えば、何日ぶりの入浴だろう。

   カノンの体を、幾筋もの湯が伝って落ちた。冷え切っていた身体に、ぽっと火が入るような感覚だった。

 浴室から出て、手近にあった厚手で大きな布で体を拭いた。布は真新しく、とても柔らかかった。サガがこの砦に入ることになって、用意されたものだろう。着替えなどどこにあるか知らなかったから、入る前はもう一度、今まで着ていた服を着ようと思っていた。
 だが風呂から出て、改めて見てみると、今まで着ていた服はとても汚れていて、もう一度袖を通す気にはなれなかった。
 身体を拭いた布を巻きつけたままで居ようかとも思ったが、ともすればすぐに外れてしまって使い勝手が悪い。まさか夜までこの格好で居るわけにもいかない。自分の部屋を探してみたが、カノンは着替えを見つけることが出来なかった。仕方なく、サガの服を借りることにした。

 あいつ、聖闘士になったんだよな?

 引っ張り出したサガの服を広げてカノンは思った。まるで神官だ。ぞろぞろしてて、女が着るドレスみたいだ。訓練着もあるはずなのだが、どうにも見つけられなかった。

 非常に気が進まなかった。毒づきながら着た。だが着てみると、それは意外にも快適だった。とても上質な布なのだろう。肌触りが快かった。もっと邪魔になるかと思ったが、裾捌きもそれほど気にならなかった。

 腹が減った。

 カノンがキッチンへ向かおうとした時だった。私室の扉が、再度叩かれた。

 カノンは、一瞬とまどったが、無視することにした。

   ここには自分はいないのだ。

 ここにいるのはサガ一人。サガは今出かけている。よって、今この砦には誰もいないのである。サガが出ているのはたぶん、すごく公式な行事だ。それなのにここにもう一人サガが居たとあっては、尚まずい。
 サガのアリバイが二重にあるなど、破綻した推理小説みたいだ。そう言えば、推理小説のオチとして最も許されないのが、犯人は双子だったというものだそうだ。ほんとに双子の犯人に失礼だろ、とカノンは思った。

 足音に気付かれないように、カノンがそっと歩き出したとき、カノンはぎょっとした。扉を叩く音とともに、自分の名が呼ばれたからだ。

 声には聞き覚えがあった。ち、とカノンは舌打ちした。

「カノン、わたしだ。ここを開けよ」

 るっせーんだよ、ヒキガエル。

 声の主は、リウテスだった。

 なんか食って、寝ようと思ったのに。

 がちゃり、とカノンは扉を開けた。

「カノン?リウテスどの、そのような者は、ここにはおりませぬ」

 すました声で、カノンは言った。

「な……、なんと。サガ様でおいでか。カノンはいずこに?」

 リウテスは見事なまでに狼狽しながらそう言った。カノンは込み上げる笑いを必死で噛み殺さなくてならなかった。

「カノンなどという者、わたくしは存じませぬ」
「何をおっしゃいますや。あなた様の弟御ではありませぬか……む、今日は確か……、サガ様は御顔合わせの儀に出席のはずでは………」

 その言葉を聞くや、カノンはにやりと笑った。

「お……お前!カノンか!」

 カノンは笑みをすっと消し、愛想のかけらもない表情になって言った。

「何の用だよ」

 カノンと知るや、態度をころりと変えてリウテスは言った。

「おま…お前……!このわたしをたばかるとはどういうつもりだ!」
「お前が言ったんだろ、俺っていう人間がここにいるって、誰にも知られるなって。ここに居るのは、サガ一人だって。俺はそれを忠実に守っただけだ」
「おのれ………!」

 リウテスは怒りで赤くなった。

「何の用だよ。さっさと済ませて帰って欲しいんだけど」
「お前は聖域のなんたるかを何も知らぬ。それでサガの代役が務まると思うてか」
「…………」
「先に申したとおり、お前は秘される存在ゆえ、代わりの者を遣わすわけにも行かぬ。よってわたしが直々に参った次第」

 リウテスはひれ伏して感謝せよと言わんばかりだった。

「分かれば部屋へ通せ。命であるぞ」

 カノンはリウテスが持って来た何冊もの分厚い史料を見て絶望した。これからいったい何時間講義を行うつもりなのだ。

 カノンの部屋へ通した途端、予想通りリウテスは言った。秘された存在たるカノンに、このような部屋を与えたのか、と。

 サガ様にもよくお分かりいただかねばならぬ。カノンの存在の何たるかを、誤解されては困る。いくら弟御とは言え、贔屓が過ぎよう。まさか客人と間違えておいでではあるまいな。

 えんえんと続くリウテスの文句に、カノンはため息をつくしかなかった。



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