■Let me go1■ 「仮面は、着けなくていいのかよ」 カノンは、深いフードのついた例の黒ずくめのローブを着せられた。 「そこまではしなくていいだろう。十二宮に立ち入れる人間は限られているし、この時間だ」 「十二宮?」 カノンもまた、あの闘技場での闘いのあと、十二の砦のある岩山の頂上へと連れて来られていた。 女神神殿の地下にある、この砦内で最も頑健な地下牢に入れられていたのだった。 カノンは知る由もなかったが、昨日の夜、サガが黄金聖闘士に選ばれたという女神への報告の神事が行われたのは、この地下牢のちょうど真上である。闇の中にひとりうずくまるカノンの頭上で、その神事は執り行われた。 女神神殿を裏口からこっそり出ると、どこまでも続く石段に出た。片側は崖を切り崩したもので、並んで歩くのは三人がやっとだろう。 石段を降りる道すがら、ロヨルはカノンに十二宮の何たるかを話した。 月のない夜だった。深遠な闇の中に、松明の灯りに照らされ、ぼうと石段が浮かび上がる。どこまでも続く石段、その脇に神代の昔から建つ石柱が等間隔で並んでいる。 まるで墓場だ。あの地下牢を出て以来自分にまとわりつくこの異様な雰囲気。どこかから常に誰かが見ているような気配。夜の墓場そのものではないか。黒いローブをまとい、目深にフードを被って歩く自分は、死神か。いや、これから葬られる死人だな。 カノンは自嘲した。 そう、死人だ。 俺は、生きながら葬られる骸(むくろ)だ。双児宮という墓標に。 カノンは、いくつめかの砦に差し掛かったとき、ぴたりとその足を止めた。空気が、今までのそれとは確実に違っていたのだ。先を行くロヨルが振り返る。カノンは、鋭い眼差しで宮の奥をじっと伺っていた。 「さすがだな、カノン」 登り始めた月が、その砦の紋章をうっすらと照らし出した。気付いたか、と前置きをしてからロヨルは話した。ここは、人馬宮。射手座のアイオロスが預かる砦だ、と。 知りたくない。 聞きたくない。 サガとして皆の前に出ることがあるのなら、知っておかなければならないことだろう。 だが、勘弁して欲しかった。 俺があいつと同じ黄金聖衣を手にすると、ずっと思っていた。だが、現実はどうだ。なぜ負けたのかも分からず、それを聞くことも許されず、黄金の鎧どころか死体を包むような真っ黒い布をひっかぶって、人目を避けてこそこそ歩いている。 「無人の宮とはまるで違うだろう?黄金聖闘士というのは、それだけ大きな存在なんだ。その宮の主がいるかどうかで、こんなにも空気を変えてしまう」 ロヨルは、人馬宮の入り口に掘られた紋章からカノンに目を移すと、笑顔になって言った。 「双児宮の存在感は、こんなものじゃなくなるだろうな。黄金聖闘士が、二人も居るんだから」 カノンが胡乱な目でロヨルを見た。 「ここだけの話だが、俺にはカノンとサガの力は同等だとしか思えない。なぜカノンが負けて、サガか勝ちなのか、俺程度にはまったく分からない」 ロヨルは頭を横に振りながら言った。 「その二人が一つの宮に居るんだ。通る者は、驚くだろうね」 ロヨルが励ましてくれているのだということは分かった。だが、ささくれだったカノンの心は、素直にその気持ちを受け取れない。 同等?同等の力があるのに、片や崇め奉られる黄金聖闘士で、片やまるで罪人みたいに隠れて過ごさなきゃならないのか? いくつもの砦を通り過ぎた。どの宮も水を打ったように静まり返っていて、松明が爆ぜる音と、二人の足音以外には何も聞こえなかった。 人馬宮を過ぎて行くつ目の砦だろうか。またひとつ、雰囲気の違う砦があった。歩みを止めたカノンに合わせ、ロヨルも少し先で立ち止まった。 「ここは、天秤宮。ここを守る天秤座の聖闘士は、教皇と同じく前聖戦を戦った方だ。聖戦が終わってからずっと、遥か東方の国で女神の封印を見張っておられる」 「え、聖戦て何百年も前に終わったんじゃ……」 「そうだ。小宇宙を極めれば、そのくらいわけもないことなのかもしれない。カノンもがんばれよ」 「やだよ。そんな何百年もサガのふりしてすごすなんて。俺、聖戦が始まったら、一番に雑兵と一緒に特攻して死んでやる」 「死ぬのは特攻された方だろ。カノンに特攻された敵に同情する」 ロヨルは肩をすくめ、おどけて言った。そして、すっと表情を引き締めて続けた。 「老師のように、世界中で聖闘士や、それに準ずる人たちがさまざまな役割を担っている。そうやって、聖域は聖戦に備えてるんだ。役割の無い人間なんていない。カノン、お前の役割がなんなのか、教皇がお前にどんな役を課そうとしているのかは俺には分からないが、お前にはきっと大きな役割があるはずだ」 「もういいよ、その話は」 ロヨルの優しさは、今のカノンには残酷なだけだった。優しくされればされるほど、みじめになって行く気がした。 双児宮に着くころには、月は上り、中天に差し掛かっていた。美しい満月だった。明るくて、松明も必要ないほどだった。この光が、太陽の光を反射したものだとは思えない。 後の聖戦の折り、カノンはこのときの光景をまざまざと思い出すことになる。あの日、初めて十二宮を見たときも、美しい満月だった、と。 「カノン、本当に大丈夫か?何なら、別室を用意させるが……」 「大丈夫だよ。遅かれ早かれ、俺は双児宮に入らなきゃいけないんだろ?」 そう言うと、吹っ切るようにカノンは足早に歩いた。歩みを止めることなく、双児宮に入ると、サガのいる私室の扉を叩いた。 中はずいぶんと広いようだ。足音が近づいてくる音が聞こえ、静かに金具が動く音が聞こえた。扉は重厚で、金具も相当な腕前の工匠が作ったものだろう、見事な細工が施されていた。室内にいる部屋の主が開けるためにそれを握ると、ちゃ、とほんのわずかな音を立て、扉はそっと動いた。 扉の向こうに、サガが立っていた。サガに会わなかったのは、ここほんの数日のことなのに、もう何年も会っていなかった気がする。部屋の中の方が明るいため、逆光になる。サガの表情は見えなかった。だが、カノンは察した。どこが、と言われると困るが、サガは確実に以前とは違っていた。 「カノン……」 「ロヨル、ありがとな、送ってくれて」 カノンはサガの声を無視して振り返り、ロヨルに簡単な礼を言った。ああ、とロヨルが答えた。 不安げな瞳で、サガがロヨルに目を遣った。ロヨルは黙って、だが笑顔で頷いた。カノンは、背後で、ロヨルが去って行く気配を感じた。カノンは、振り返らなかった。ロヨルの気配が双児宮を出るのを待って、サガがカノンに語りかけた。 「カノン、今までどこに?体は大丈夫か?」 「今日は疲れてる。もう休みたい」 カノンはサガを遮るように言った。用意させてある、というサガの言葉がひっかかった。使用人を扱えるご身分てことかよ。 「食事は?あたためれば、すぐ食べられる」 カノンは黙って首を振った。 「もし、良ければ、少し話さないか?」 「疲れてる。気分も悪いんだ。もう寝たい」 カノンは、フードをなお深く被った。サガの顔を、見たくなかった。自分の顔を、見られたくなかった。 「そうか……」 サガはもうそれ以上言わなかった。廊下を歩き、黙って部屋へカノンを案内した。部屋は綺麗に整えられていた。換気も行き届いていた。あの地下牢に長いこと閉じ込められていたカノンには新鮮な空気だとすぐに分かった。サガがここに来たのもそんなに前ではないはずだ。いろいろと忙しく、時間もなかったろうに。 だが、カノンは、みじめになって行く自分を止められなかった。何もかもが、自分を押し潰そうとしている気がする。サガも、ロヨルも、リウテスも、自分の力を誇示して、カノンのみじめさを嘲けている気がしてならなかった。 カノンは、消えてしまいたいと思った。誰も、自分のことを知らない世界へ、行きたいと思った。 |