■frozen dead■


 やはり自分は街の方が好きだ、とカノンは思った。
ごみごみと入り組んでいて、小汚くて、そこここに欲望が渦巻いている。
 けばけばしく光るネオン、所構わず貼り付けられた、美的センスのカケラもない極彩色のチラシ。持っている金と、欲望を交換させようと、そこここでさまざまな人物が目を光らせている。

 だが、これが人の生きる姿なのだろうと思う。
 建前ばかりを声高に叫んで、名誉をこの地上の最高のものだと信じているあの連中が、カノンには気味が悪くてたまらなかった。

 街の中にも、聖域と同じ臭いのする場所があった。教会だ。石で作られた神の家である。
 教会というものを、カノンは知らなかった。
 彼の母は、信心など持ち合わせていなかったから、いや、持っていたがとうに捨ててしまったのかもしれない。とにかく、カノンとその兄は、母から神の存在も、その教えも、そして、石の家も教えられることはなかった。

 街の仲間たちは、教会を知らないカノンを、さすがに驚きの目を持って見た。
仲間たちに教えられて、カノンはすぐに合点が行った。「宗教」ね。ははん、「信じる者は救われる」って奴だろ?よーく知ってるよ。

 自分の心を美しく保つために、週に一度くらいはその存在を思い出すくらいは許してやる。
だが、毎日毎日ことあるごとにその存在を口に出して、いちいちその存在を褒め称え、感謝の言葉を上らせるなんてのはちょっとイカレてやしないか。
 第一、神様なんてものはいるかどうか分からないのだ。なのに、その存在を頭っから信じて、貴重な時間を割いて祈りを捧げるなんて馬鹿みたいだ。
 もし、その「カミサマ」がいなかったらどうするんだよ?ただの、そして本物の馬鹿じゃないか。そんな馬鹿を見るくらいなら、柔らかな羽根布団を頭からかぶって寝ていた方がどれほどマシか知れやしない。
 そうだとも。存在するかどうか分からないというなら、幽霊と同じじゃないか。
信心にかこつけて寄付をせびらない分、幽霊の方が良心的かもしれない。

 金を毟らない分、神様より幽霊の方がマシ。その思いつきに、カノンは思わず自分で噴き出してしまった。

 聖域の教皇だろうが、街の神父だろうが構わない。
神を信じろというのなら、そいつの首根っこ掴んで連れて来いと言うのだ。
まったく、けったくそ悪い。

 だいたい、そんな綺麗事語っててこんなに立派な建物が建つ仕組みを教えてもらいたいものだ。
 清貧を褒め称えるなら、そのきんきらきんの祭壇はなんなんだよ?その矛盾に気付かない愚かな迷える子羊たちを、カノンは心の底から哀れに思った。
「信じる者は泣きを見る」のだ、と。騙されて、僅かばかりの金だけでは飽き足らず、ケツの毛までむしり取られて泣くのがオチなのさ。

 それでも街の教会はまだ良心的なのかもしれない。聖域が毟り取るのは金などという可愛らしい代物ではない。その人間の人生そのものを貪って、食い尽くしてしまうのだ。
 カノンは、哀れな犠牲者となった兄の顔を思い出した。
 大仰な黄金の鎧と引き換えに、兄は人生を聖域に奪われてしまった。

 だが、好きにすれば良い。俺には何の関係もない。
俺は、気が向いたら聖域へ行く。また戻りたくなったら街へと戻る。俺を縛ることなんて、誰にも出来ない。俺は、自由にこの世界を渡って行く。
カノンは、そう心に決めていた。

 いつもの店へ行く。いつもと何の変わりもなく、ネオン管がじじじと低い音を立てていた。

 バシーヨの名前を出せば、特別な入り口から、特別な部屋へと案内される。

「おう、カノンじゃねえか!お前今までどこに居たんだよ?!」
「ちょっとな。自分探しの旅に出てたんだよ」

 その言葉に声を掛けて来た仲間が噴き出す。

「お前、冗談上手いな」
「失礼な。俺はいつでもマジだよ」

 すっかり冷めたピザを持って、背後から一人、少年がしなだれかかって来た。

「かのんはぁ〜、せいんとなんれすよねぇ〜」
「ぶはっ、おっまえ酒くせえ!」

 朝から、いや昨日の夜からずっと飲んでいたに違いない。その息は、酒臭いと言うより、酒の臭いそのものだった。

「せかいをまもらなきゃいけないからぁ〜、せいんとなんれすよねぇ〜」
「お前何言ってんだよ!」

 カノンにしなだれかかって来た少年は、「凍った死体(フローズンデッド)」と呼ばれていた。
 コロンビアだかニカラグアだかの出身で、あまりの貧しさに耐えかねて飛行機の足につかまって自由の国アメリカを目指した。だが、その飛行機の行先はここギリシャだった。
 航空機は上空6000〜8000フィートを飛ぶ。気温は摂氏マイナス50度の世界だ。航空機のタイヤにしがみついたフローズンデッドは、そのことを身を以て知った。なぜ生きていたのか本人にも分からないと言う。その名の通り、半分以上凍りついた状態で上空から落ちてきた。気が付いたら、地上で、頬を叩かれていたのだそうだ。


「もっぱらのうわさだよぉ〜、かのんはせいんとだって。おれ、せいんとってなにかしってるよぉ〜」

 凍った死体の使うギリシャ語は、聞きかじりで覚えただけの、発音も、文法もまるで滅茶苦茶な代物だった。その上、どろどろに酔っている。何を言っているのか聞き取るには大変な苦労を要した。

「何言ってんだよ、俺は聖闘士じゃねえよ。お前の方がよっぽど聖闘士だろうがよ」

 凍った死体の言葉にドキリとしながらも、酔っ払いのたわごととして片づける。まぁ、嘘、ではない。カノンは、聖闘士ではないのだから。

 ギリシャの少年たちは、誰しもその存在に一度は憧れた。
成長するに従って、こどもの夢物語であることに気が付くが、カノンの超人的な力をまざまざと見せつけられて、暗黒街の少年たちは半ば本気でカノンを「聖闘士」だと噂していた。

 せいんととは何かとろれつの回らない口調で熱く語る「凍った死体」を隅に押しやると、一人の大柄な少年がカノンに語りかけた。

「バシーヨが探してたぞ」
「俺を?なんで?」
「なんか大きな仕事でもあるんじゃないか?お前、連絡着くようにしておけよ」

 カノンは肩をすくめた。
 そんなの、まっぴらだ。俺がいないときは違う誰かを用立てすればいいじゃないか。そんな風に、当てにしないでくれ。

「ほんの十日程度留守にしただけじゃないか。そんなに騒ぐことかよ」
「十日も消息不明になれば十分だ。お前を狙ってる連中だって大勢いるんだ。俺はお前は殺されたんだろうと思ってたよ」
「だからぁ〜、かのんはころされたりしませんよぉーだ、だってせいんとらもんねぇー!!」

壁の近くでソファに埋(うず)もれていた「凍った死体」が、尚も叫び声を上げた。

 バシーヨが、こちらへ向かっているという。ほどなく、到着するはずだ。
 カノンは、叫び続ける凍った死体をなだめながら、一体用事とは何なのだろう、と思った。


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