■44話■



「サ…サガおまえはいったい……」

 シオンは目の前で起こっている光景が信じられなかった。サガの髪が、毛先からみるみる黒く染まって行く。

「死ね教皇!!」
「うっ!」

 次の瞬間、サガの拳がシオンの心臓を貫いた。油断したとは言え、サガの拳はあまりに強力だった。シオンは己の愚行を呪った。

「ぐ…うう…、や…やはりわたしの目に狂いはなかった……」

 星々が語っていた凶兆とは、こまさにのことだったのだ。シオンはそれを察していながら、何の手を打つことも出来なかった。

「お…、おまえは神などではない……」

 老いぼれたものだ。若い頃のわたしなら、何も迷うことなく決断していただろうに。

「じ…邪悪の化…身……」

 わたしは、こんなところで死ぬわけには行かぬ。どうしても伝えねばならぬことがまだ残っている。女神よ!

 シオンは声にならぬ祈りを上げた。

 女神よ!我に力を!!どうか女神よ……!

 だが、シオンに神の恩寵が与えられることはなかった。シオンは、力なくそこに崩れ落ちた。黒い髪の男は、何の感情も持たぬ目で、シオンを見下ろしながら言った。

「フッ、老いぼれめ。なまじわたしの正体を見抜くからこんなことになるのだ」

 サガは何の迷いもなく、崩れたシオンのマスクへと手を伸ばした。

「幸いなことに、教皇の素顔は常にこのマスクに覆われていた。恐らく顔を見たことのある者は五老峰の老師以外おるまい」

 サガはその見事な翼竜の飾りのついたマスクを被りながら、悠然と言った。

「こうなった以上、わたしがこのまま教皇になりすまして聖域を掌握する。そうすればまだ赤子にすぎぬ女神などくびり殺すのはわけもないこと」

 サガは低く笑った。

「そうだ このサガ自身が女神にかわり大地を支配するのだ!!この世の神そのものになるのだ!!」

 サガの笑い声は、やがて高くなって行った。


 サガは、その足で女神神殿へと向かった。こういうことは、流れというものがある。勢いにのって、全てを成し遂げてしまわなければならない。少しでも間を置いたり、様子を見ていたりすると、ひょんなことでその流れは変えられてしまう。いつ、どこで、誰がその流れを変えてしまうのか見当もつかない。まさか、という者が、いくらなんでも、という瞬間に流れを変えてしまうのだ。勝負事に通じた者なら、誰もが知っているだろう。

 サガはそれを教皇の豪奢な法衣の下に隠し、女神神殿へと急いだ。教皇庁に立ち寄った際、雑兵や神官数名に行き違った。だが、誰もサガのことを教皇と信じて疑わなかった。サガは合点した。聖闘士以外は問題ない。小宇宙を感じ得る聖闘士たちは、何かの理由をつけて遠ざけておけば良い。なに、どうしてもまずくなったら(そんなことは起こらないだろうが)、それこそ教皇以外の立ち入りが禁じられているスターヒルへ逃げ込めば良いのだ。これほど都合の良い立場があるだろうか。なんという皮肉!教皇を神のごとく奉るシステムを作り上げた歴代の教皇のおかげで、サガは大いなる野望をこんなにも簡単に成し遂げられるのだ。

 サガは、法衣の下で黄金のそれを握りしめた。教皇の玉座の下に、それは大切に仕舞われてあった。次代教皇の指名を受けたアイオロスとともに、ついこの間シオンに教わったものだ。聖域の最高機密の一つである、女神の黄金の短剣である。
 廊下の両側では、篝火が燃えていた。もうすぐだ。その帷幕の向こうに、女神が眠っている。
 サガの鼓動が、ひときわ大きくなった。息が苦しい。こんなことを、して良いのか。何を言う、この機を逃す法があるものか。短剣を握る手の震えが止まらない。これは、武者震いだ。怖いものか。神とは言え、たかが赤子ではないか。

 重々しい帷幕をめくると、そこには女神が安らかな寝息を立てて眠っていた。これが、世界を救う、戦と知恵の女神アテナなのか。とてもそうは思えない。赤子は、か弱く、柔らかく、ほのかに乳の香りを漂わせていた。これは、罪悪感だ。わたしが守るべき、か弱き小さき者を害することに対する罪の意識だ。自分よりもはるかに弱い者に短剣を突き立てる日が来ようとは夢にも思わなかった。だが。ここで仕留めねばならぬ。このわたしが、聖戦を終わらせるのだ。ひとの未来を、なにゆえ神の手に委ねねばならぬのか。このわたしの力を以てすれば、神の手なぞ借りることなくひとの未来を勝ち取ることが出来る。このわたしでなければ成し得ない。神から、ひとり立ちするために、このわたしが今、女神を弑するのだ!  サガは、短剣を振り上げた。

「教皇!!」

 サガが振り上げた手は、何者かによって止められた。振り向くと、黄金色に輝くひかりの塊があった。

「あなたはご自分のなさっていることがわかっているのか!」

 アイオロスは、まっすぐな目をして叫んだ。迷いのない声だった。そうだ、こやつはいつも迷いがない。典型的な武人だ。サガは、それが許せなかった。

「この子は数百年に一度、神がお下しになる女神の化身。それを……」

 教養がなく、粗野で、遠慮がない。女神の聖闘士たるもの、もう少し思慮深くあるべきだ。なにをやらせても直感的で、検討することをしない。なのに、いつもうまくやる。愚か者のくせに、いつも運に助けられる。

「邪魔するなアイオロス!」

 そうだ。今日という今日は、目にもの見せてくれる。お前と決着をつけてやる。

 サガは、アイオロスと出会ってから今日までの日々を思った。人好きのする、あたたかな緑色の目をして、アイオロスはいつもサガをまっすぐ見つめた。会ったそのときから、友と呼んでくれた。アイオロスはまだ聖域に慣れないサガに、いつもやさしく手ほどきをしてくれた。まるで、兄が弟の面倒を見るように。

「おやめなさい!」

 アイオロスがサガの手から短剣をはたき落そうと手を伸ばした。小宇宙を燃やし、技を繰り出したわけではないのに、そのエネルギーの余波は、サガが目深にかぶっていた翼竜の兜を遥か後ろへ飛ばした。その一瞬の隙をついて、アイオロスは女神をその胸に抱いた。命に代えても守る、とその背中は雄弁に語っていた。

「なにい?!」

 おやめなさい、だと?それは、こちらの台詞だ、アイオロス。

「き…教皇あなたは……?!」

 サガは怨嗟に満ちた目でアイオロスを見た。

「う…うう……。見たなアイオロス……。わたしの素顔を見た者は生かしておくことはできん!」

 当たり前のことをさもえらそうに語り、関わって欲しくないときでもずかずかと心の中に踏み込んでくる。人には語れない事情というものがあるということをまるで察しない。そのくせ、わたし以外の誰からも好かれ、尊敬を集め、あまつさえ次代の教皇の指名を受けるとは。積年の恨み、今ここで晴らしてくれる!

「お前も女神と共に死ねえっ!!」

 アイオロス、お前はどこまで愚かなのだ。なぜ、お前は聖衣を纏ってこなかった。シオンは言ったではないか。神をも倒せる武具はこの聖域に二つ。黄金の短剣と、射手座の黄金の矢。それを知りながら、なぜお前は聖衣を纏って来なかったのだ。勝機は我にあり。サガは小宇宙を爆発させた。

 その強大な小宇宙は、女神神殿の、最も堅固に作られた女神の寝室の壁を吹き飛ばした。だが、辛くもアイオロスは瞬時に小宇宙で幕を、いや壁を作り、致命傷を負うことを逃れた。

「だれかであえ――――――っ」

 サガは有らん限りの声で叫んだ。

「アイオロスが反逆を試みたあ――――――っ!!」

 すぐさま雑兵が駆け付けて来た。まだ聖域に数名しかいない聖闘士の姿もあった。

「アイオロスが女神を殺害しようとしたのだ!早そうに追っ手をかけろ。生かしておいてはならん!」

 雑兵たちはいまだかつて経験のない緊急事態に顔を緊張させていた。

「かならずとどめを刺せ!!」

 教皇の命を受け、雑兵たちは一斉に散った。神官たちは女神の無事を祈る儀式を即座に始めた。平和ボケとシオンは嘆いていたが、そんなことはまるでない。いざ事が起これば、彼らは厳しい訓練の成果を如何なく発揮するではないか。この統率の取れた軍団を見ろ。ここに小宇宙の力を自在に操れる聖闘士が加われば、どれほどの威力を発揮するだろう。サガは仮面の下で不敵な笑みを浮かべた。

 わたしの勝ちだ、アイオロス。

 サガは、アイオロスが雑兵たちを殺せないことを知っていた。

 東の空が白み始めるころ、教皇は年若い山羊座の黄金聖闘士より、反逆者討伐が完了した旨の報告を受けた。黄金聖闘士射手座のアイオロスは瀕死の重傷を負い、女神アテナと射手座の黄金聖衣とともに深い谷底へ落下、生存の可能性はないとの報告だった。夜明けとともに捜索を開始するよう、サガは命を下した。二つの遺体と一つの聖衣はほどなく回収されるだろう。そう、遺体は二体なのだ。間違いなく。女神アテナが生還することはない。アテナがこの先、聖域に君臨することは決してないのだ。
 サガは、教皇のマスクの下でほくそえんだ。

 二人の闇に包まれた13年間は、こうして始まったのだった。



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