■最終話■



 七つの柱は折れた。聖闘士たちに海闘士たちは破れたのだ。天井のそこここが破れ、この世界に大量の海水が流れ込んでいた。世界を清めるための洪水は、今やこの海の底の世界に起ころうとしていた。

 カノンはその胸にポセイドンの鉾を受け、最早動けない状態だった。

 出血がひどい。よく即死しなかったものだ。このまま海水に飲まれ、自分は死ぬのだ。そしてその死体は深海に棲む気味の悪い魚に啄(ついば)まれ、闇の中で目を失った蟹に切り刻まれて、骨だけが海底深くに埋もれて行くだろう。

 薄れ行く意識の中で、カノンは女神を探した。

 女神は、女神は無事なのか。ここから女神は脱出できるのか。

 カノンは視界の隅に、女神に駆け寄るペガサスの姿を見た。この混乱の中にあって、女神はジュリアン・ソロの救助を星矢に必死に命じていた。

 どこにそんな余裕があるというのだ。世界のために、人類のために、まずは自分が助からなくてはならないのに、なぜ自分を窮地に陥れた敵将を助けようというのだ。一顧だにせず、うち捨てて行くのが当然ではないか。まったく、この女神と来たら。
 聖域の伝承に聞いた女神は、その神として崇め奉るべき逸話のみが伝えられ、こうした生身の姿やその人となりは一切伝えられていなかった。こんな風だとはな。命ぜられるまでもなく、守らずにはいられない。女神だからなのか、女だからなのか知らないが、自分と異なる性を持つ生き物は、こんなにもかわいらしいものなのか。

 カノンは押し寄せる海水に為すすべなく飲み込まれた。

 もうだめだ。アテナを頼む。そして願わくは、我が主神たる海皇の宿主も。

 激しい水流は、カノンをもみくちゃにした。カノンの身体のすぐ脇を大きな瓦礫が掠めて行く。小さな瓦礫がいくつか鱗衣に当たって音を立てた。今はまだ鱗衣がカノンを守ってくれているが、それもいつまでもつか分からない。海皇が封印された今、いつ鱗衣がはずれてもおかしくない。いくら鍛えているとはいえ、あんな巨大な瓦礫がぶつかればひとたまりもない。第一、鱗衣がはずれれば呼吸が出来なくなる。いや、窒息する前に水圧に潰されるか。

 後悔、とはよく言ったものだ。この期に及んで、ようやく自分の本心が知れるとは。女神に向けて海皇が鉾を放ったとき、アテナを庇わずにはいられなかった。自分が欲しかったのは世界などではない。本当は、神に成り代わりたいわけでも、世界を支配したかったわけでもなかった。二人の神を本気にさせるつもりなど微塵もなかったことに、やっとカノンは気付いた。なぜこんな愚かなことに囚われ、なぜこんなにも彷徨ったのだろう。

 俺は、お前とは違う。

 まだ少年だったころ、カノンはさかんにサガに反発した。

 あんなやつと双子だなんて勘弁してくれ。俺は違う。あんな奴と全然違う。

 幼かった自分。そのままいつまで経っても大人になれなかった。

 別に、兄と同じだって構わなかったのだ。俺は、俺なのだから。結果、兄と同じだったとしてそれが何だと言うのだ。兄を意識して、わざと兄と違う自分を演じていた遠い日の自分に、カノンは顔から火が出る思いだった。

 小宇宙というものを操りはじめるようになった頃、その正体不明のエネルギーを制御しきれなかったカノンは、とあることに気付いた。遥かな距離を、随所に張り巡らされた聖域の結界を越えて届く、母の想いだ。血というものは争えない。

 サガ。カノン。どこにいるの。

 母は家の周りを、うらぶれた通りを、今やすっかりさびれた港を半狂乱になって探し回った。

 ふたりともいなくなってしまった。海に落ちてしまったのか。車に轢かれてしまったのか。サガ。カノン。どこにいるの。戻って来ておくれ。母は、お前たちのいない暮らしなど耐えられない。サガ。カノン。元気な姿を見せておくれ。ふたりとも、どうか、どうか戻っておくれ。

 悲痛な母の叫びは、カノンにまとわりついて離れなかった。カノンは、どうしたら良いか分からなかった。とにかくその想いから逃れたかった。

 その手には乗らねえぞ。何をいまさら。おまえなんか。おまえなんか。

 カノンは、母を罵ることで、なんとかその想いを振り払おうとした。そうしているうち、いつしか母の想いは届かなくなった。カノンが、小宇宙を自在に操れるようになったからなのか。それとも……。
 異次元の扉を自在に開けられるようになり、暗黒街の仲間たちに馴染んだ頃、カノンは思い切って母と住んだあの家を密かに訪ねてみた。

 こんなところだったのか。

 カノンは愕然とした。綺麗なところではないと知っていた。子どもが育つ環境ではないことも。だがこんなにひどかったか。ゴミは道にぶちまけられ、人の住む部屋から倉庫に至るまで、窓という窓に鉄格子がはめられている。

 あの角を曲がって、そこにある倉庫の二階だ。

 その倉庫はペンキが剥がれ落ち、だいぶくたびれてはいたが、あの頃のままそこに佇んでいた。カノンは足音を忍ばせて階段を上った。二階の部屋は、もうずいぶん前から誰も住んでいないようだった。鉄格子の向こうのガラスは隅が割れ、応急処置すらされていない。ガラスの割れ目から見える部屋の中は、散らかり放題散らかって、埃をかぶっていた。

「誰だいあんた、ここで何してんのさ」

 不意にカノンは背後から声を掛けられた。振り向くと、いつの間に上って来たものか、買い物袋を下げた、一目で商売女と分かる疲れた女が立っていた。

「なんだい、こんな若いのまで連れ込んでたのかい」

 女は酒に焼けた声で無遠慮に言った。カノンは無言のまま女を睨め付けた。

「あの女ならいないよ。気が触れて連れてかれちまったからね」
「連れて……?どこに?」
「知らないよ。病院だろ。連れてかれたのはもうずいぶん前さ。戻って来ないってことは死んじまったんじゃないのかい」
「……」

 カノンの脳裏に、悲痛な母のあの叫びが甦った。

 じっと押し黙ってしまったカノンを、女は怪訝な目でしばらく見ていたが、やがて呆れたように言った。

「あんた、あの年増がそんなに好きだったのかい。まったく、物好きなのもいたもんだよ」

 女はそう言うと、自分を睨みつけるカノンに目をやった。カノンの顔をじっと覗き込んだ女は、急に声色を変えて言った。

「あら、よく見ればあんたずいぶんと佳い男じゃないか。あたしがあの女の変わりになってあげようか?」

 女はしなをつくり、腕を組もうと手を伸ばして来た。

「触るな!」

 カノンは女の手を振り払うと、踵を返した。

「なんだい!せっかく相手してやろうってのに!」

 カノンは罵る女に構うことなく、足早にその場を去った。階段を下りる頃には駆け足になっていた。

 あの母の声は、救いを求める声でもあったのか。意地など張らず、駆け付けるべきだったのか。いや、だがあんな厄病神には近寄らぬに限る。変な情にほだされて戻ったら、どうせひどい目に合わされるに決まっている。だが、母は男に見捨てられ、自分たち二人を心の支えにするしかなかったのではないか。もし、サガに話して、二人で戻っていれば、或いは……。

 聖域で暮らしていた頃も、海の世界にやって来てからもカノンはずっと答えを出せずに居た。

 こんな風に、こんなところで死ぬのだったら、やはり母の許へ戻るべきだったのだろうか。だが、今となっては、全てが遅すぎる――――――。

 次にカノンが意識を取り戻したのは、激しい雨の中だった。空には稲妻が走り、雷鳴が轟いている。こんな黒い、こんなに分厚い雲は見たことがない。

 雨は止んだのではなかったか。洪水は回避されたのではなかったか。ポセイドンはアテナに封じられ、再び永い眠りについたのではなかったか。一体どういうことなのだ。

 カノンはしばし恐慌に陥った。

 そして、茫然とその様子をしばらく見てから、ああ、とカノンは思った。これは、神話の時代よりもはるかな昔だ。なんとも説明しかねるが、何もかもが混沌としていて、今とは空気が全く違う。これは、この惑星(ほし)が生まれ、ようやく固まる頃の世界だ。

 神もなかなか粋な計らいをするではないか。この俺の今際(いまわ)の際(きわ)に、創世記を見せてくれようというのか。

 雨はいつまでも降り続けた。空は分厚い雲に覆われ、陽の光は地表へは届かない。そこには、まだ大地すら生まれていなかった。
 解けた金属と、水という二つの液体が、いつまでも戦争を繰り広げていた。いくら雨が降っても、すぐにそれは蒸発して雲を成した。次々と雲は沸き起こり、嵐となって流れる溶岩に大粒の雨を叩きつけた。一つの嵐が去ったかと思うと、すぐまた次の嵐が生まれてはやって来た。 来る日も来る日も、風は唸り、雨は降り続け、何万年という時間が過ぎて行った。
 熱かった大地は徐々に冷やされ、どろどろに溶けて流れていた溶岩は黒い岩となって固まり始めた。降ったそばから蒸発し、雲となっていた水も、そのまま地表を流れるようになった。音を立てて叩きつけていた大粒の雨はやがて小さくなり、しとしとと静かに降る時間が長くなっていった。
 ようやく分厚い雲に隙間が生まれる。いよいよ雨が止むのだ。初めての陽光が雲間から差し込む。一筋のひかりが地表へとついに到達したそのとき、そこには光を受けて、海が煌めいていた――――――。

 こんなにも壮大な叙事詩があろうとは。
 何億年という時間をかけ、海はいのちをはぐくむ。海で生まれたいのちは、やがて陸へと上がり、そして今へとつながっている。
 俺など、なんとちっぽけな存在なのだ。俺一人の生き死になど小さすぎて笑えてくる。母なる海に抱かれ、俺は永遠に眠り続ける。

 カノンの身体はやがて分解され、海に、魚に、海藻になる。連綿と続く命。輪廻とはそういうものなのかもしれない。今のカノンの身体も、かつて生きていたものたちによって作られていたのだから。

 眠り、続ける……?

 そこでカノンは意識を取り戻した。カノンは浅瀬へと流れ着いていた。岸は、すぐそこだった。もう少しだけ泳げば、すぐに足が着くだろう。海水はあたたかかった。少しも冷たくない。
 雨が上がっている。ということは、海皇は無事に元の世界に戻れたということなのだろうか。風は凪いで、海は油を流したように穏やかだった。雲が切れ、辺りは仄暗く、水平線には日暮れの赤みがまだほんのり残っている。それは、生と死のはざまで見た、天地創世の情景によく似ていた。

 俺は、生きているのか……?

 カノンは傷を受けた左胸に手を当てた。激しい痛みと生々しい傷は残っていたが、大方の血は止まり、身体も自由に動かせる。命の危機を既に脱していることは明らかだった。

 俺は、生きているのか。

 カノンは海面を力無く漂った。この海は、このあたたかな水は、母の胎内を想起させる。水はどこまでも澄んで、どこまでも優しかった。

 もう、全てが遅すぎる―――。何もかもを失ってしまった。

 カノンは、あのまま死んでしまわなかったことが不思議でならなかった。

 生き残って何になる。もう自分には生きる価値も、意味もないはずだ。このまま、自死しようか。そう、兄がしたように。

 カノンは己の拳をのろのろと振り上げた。

 何故、神は自分に罰を与えなかったのだろう。罪のない何万という人を殺した。人々が百年、千年もの時をかけて創り上げたいくつもの街を壊した。人間には想像も出来ない罰を、神によって下されて当然なのに。

 カノンは、光の玉となって消えて行った女神アテナの横顔を思い出した。これから聖戦が始まる。アテナは聖闘士たちを率いてハーデスとのたたかいに臨むだろう。だが、聖域に生き残りの聖闘士は何人いるか。半減、いや、それ以上が先の内乱で死亡したという情報をカノンは手にしていた。この聖戦に臨むために、この世に生を受けた黄金聖闘士までが何人も戦死している。
   対するハーデス軍は無傷だ。108の摩星はまだ目覚めてもいない。神の力によって目覚める108人の冥闘士たちを相手に、女神と聖闘士たちは戦わなければならないのだ。
 それでも、女神と聖闘士たちは一歩も退かずに戦うだろう。人々を守るため、この世界を守るために。

 カノンは、振り上げたその手をふと止めて思った。

 自分に出来ることは、もう残されていないのか。

 彼らは決して負けることは許されないのだ。己が、友が戦死することなど怖くはない。そんなことはとうに覚悟の上だ。だが、負けることだけは恐ろしい。彼らが負けてしまえば、この世界は滅んでしまう。

 いや、まだ俺に出来ることはある。俺は、生きているではないか。謙遜するつもりなどない。この俺の力は、相当な戦力になる。

 カノンは振り上げた拳をそのまま下ろした。

 カノンは岸へと泳いだ。こんなにも波の無い日があるのかと思うほど、海は凪いでいた。13年間の時の果てに、やっとカノンは気付いた。本当は自分が何をしたかったのか。

 カノンは、羊水のような海から立ち上がった。

 やっと……、やっと分かった。本当は、自分は女神のために、正義のために闘いたかったのだ。

 その目は、遥か聖域へと向けられていた。

 行こう、聖域へ――――――。

 カノンは、聖域へ向かって歩き始めた。




・おわり・



前へ