■43話■



「オレの体が海底にひきずりこまれてゆくう―――――ッ!うわああああ―――――――ッ」

 カノンの身体はどこまでも深く沈んで行った。水面が遠くなる。水面から差す月の光が揺れていた。海中からでもこんなにはっきりと見えるものなのか、と遠くなる意識の中でカノンは思った。

 カノンが次に気付いたのは、どこだかまるで分からない世界だった。顔を上げると、白い石灰岩で作られた円柱が数本立っているのが見えた。さらに遠くを見ると半ば崩れた神殿のような建物もある。

 ここは、聖域……?

 建物の様式や、静まり返った雰囲気は聖域周辺に点在する、今は使われていない―――正確には、うち棄てられた―――名も知らぬ神々の神殿によく似ていた。
 よく似てはいるが、空気が違う。知らぬ者は気付かないだろうが、聖域に住む者なら、その違いに誰しもが気付くだろう。

 カノンは一人、廃墟を歩いた。しん、と辺りは静まり返っていて、気配からして人がいないことは明らかだったから、カノンははじめからなんの警戒もせずに歩みを続けた。

 この空間はどれほどの広さがあるのだろう。海底に、果てしなく広がっているのだろうか。
 海底?ここは、海底なのか?

 自分は死んでしまったのかとも思った。が、岩で擦った傷の痛みも、空腹感も、だるくていまにも絡みそうな足元も、あまりにも現実感がありすぎた。死んでしまったあとも、ここまでそのままなはずはない。いくらなんでも、死とは、もう少し違う次元への移行であるはずだ。頭上に目を遣ると、ゆらゆらと水面が揺れている。

 あれな、海面、だよな……。

 海中に引きずり込まれたのだから、あれは海面だろう、とカノンは思うしかなかった。カノンは、なんとも心許ない感覚を味わっていた。ここは、なにもかもがまるで違う。

 どのくらい歩いただろう。カノンはついに開けた場所に出た。ずいぶん前から、屋根の一部だけが見えていた。ずいぶんと大きな神殿だと思っていたが、全容を現した神殿は、その予想を遥かに上回る規模だった。

「うっ、あれは!!」

 神殿の入り口に掲げられている紋章がカノンの目に入った。

「ポセイドンの海底神殿!!」

 その紋章は、そこが海神の住まいであることを告げていた。神殿の両側に建つ円柱の上から訪問者を見下ろすのは、地中海の海底に住むと言われるネーレーウスか。ポセイドンの息子、トリートーンか。

 カノンは神殿の中へ、歩を進めた。

 神殿の中は、静寂に包まれていた。この静寂は、いったいどのくらい昔から続いているのだろう。数百年か、あるいは数千年か。神にとっては、それすら一瞬でしかないのだろう。静かな闇の中、カノンは長い長い廊下を一人歩いた。

 そして、突然目の前に広い空間が現れた。神殿の最も奥にある、祭壇の間に違いない。だが、闇は深い。暗闇の中、カノンはじっと目を凝らす。何があるのか見えるまでに、ずいぶんと時間を要した。小宇宙の力の手助けも必要だった。
 そこでカノンの目に映ったのは、台座の鎮座する八体の鎧だった。

 聖衣…?
 いや、これは……。

 カノンはそのうちの一体にそっと手を触れた。鱗衣、というのか。その場の、この神殿の、広がる謎の空間の記憶が伝わって来る。七つの海……その一つ一つをを護る海将軍……。

「誰だ?!」

 そのとき、誰もいないはずの神殿に、低く、その声は響き渡った。

「わたしの眠りを妨げた者はおまえか!!」 
「あ…ああ……」

 カノンは、小さくうめいた。一際大きな台座の許に、小さな壺が置いてある。威厳のある声は、その壺の中から聞こえて来た。

「こ…この壺にもアテナの封印が……。ま…まさか…まさかこの壺の中には……」
「答えよ!!」

 間違いない。やはりこの壺にはポセイドンがアテナによって封じ込められていたのだ。神の声は、尚もカノンに問うた。

「答えよ!!なにゆえわたしの眠りを妨げた?!」

 何が起こるか分からないとは思っていた。だが、まさかこんなことが起こるとは。もうあとには引けない。カノンは、全身全霊を以て臨むよりほかなかった。

「は…はいポセイドン様……、そ…そろそろお目覚めの時期かと……」
「バカめ!わたしはまだあと二、三百年は眠るつもりでいたのだぞ!!」

 神は厳しくカノンを叱責した。が、カノンは、神は自分を滅することは考えていないように感じた。その声は、叱責する声ではあるが、どこか大様さを感じさせたのだ。

「し…しかしアテナの封印も既に効力を失っておりましたゆえに、このわたしの力でも……」

 カノンは恐る恐る言った。あのスニオンの岩牢で見つけた三叉の鉾もそうだった。アテナの名が記された護符からは、何の力も感じることは出来なかった。そして、それは今目の前にある壺に貼られた護符も同じだった。

「なにアテナだと…?たわけ!!たかがアテナの小娘の封印などに関わりなく、わたしが起きるときには自らの意志で起きあがるわ!」
「はっ。さ…されどお言葉ではありますがポセイドン様……」

 さしものカノンも、海皇の威に打たれ、畏まって言った。

「そのアテナが先頃聖域に降臨された由にございます……」
「なにアテナが降臨?まさかわたしが目覚めることを知りこのポセイドンとの闘いに備えてアテナは復活したというのか…?」

 そしてポセイドンは遥かな神話の時代からのアテナとの確執をカノンに語った。

「して、おまえの名は……」

 不意に振られた話題に、カノンは緊張した。まさか女神の聖闘士の双子の弟ですと言うわけにはいかない。鷹揚な海皇も、さすがに見逃してはくれないだろう。だが、誰だと名乗れば良いのだ。ここが最大の山場だ。今度という今度はしくじるわけにはいかない。

「わ…わたしは……」

 カノンは、海皇の鱗衣の座す台座のとなりにちらりと目をやって言った。

「シ…シードラゴンにございます……」
「聞けシードラゴンよ!」

 カノンの名を聞いた海皇は、即座に言った。カノンの正体を確かめようというのではなく、命を下すために聞いたようだった。考えてみれば、こんなところに来られるのは、海皇の配下である海闘士くらいのものだろう。しかもカノンの手には、神々しい光を放つ三叉の鉾が握られている。そして、海の底に、こんな世界が眠っていることを一体誰が知っていると言うのだ。もしも古い伝承を探り当て、この世界の存在を信じたとしても、ここにやってくる手立てがない。ここにこうして居るカノン自身、どうやってここにたどり着けたのかまだ分からずにいる。

「はっ」

 おかしなものだ。こうして役名で呼ばれ、それに応えると、まるで本当に、そしてずっと昔から、主神と仕える海将軍だったような空気がそこに生まれた。

「わたしは復活のたび、地中海の海商王ソロ家の血筋を借りることにしている」

 海皇は思いもよらぬことを語り始めた。

「今はどうやらジュリアンという3歳の跡取り息子がいる様子だ。わたしはこのジュリアン・ソロの体内で今しばらく眠ることにする。ジュリアンが万16歳になるまでわたしを起こすな……」 
「し…しかしアテナが……」
「アテナも降臨したばかりなら今はまだ単なる赤子。あと十数年はなにも出来はしない」

 カノンは瞠目した。ポセイドンが語った、聖戦まではあと十数年の猶予がある、と内容は、サガに伝え聞いたスターヒルで教皇がしてみせたという星見の内容とぴたりと合致していたからだ。

「それに眠りにつくとは言え、アテナの壺から抜け出した今、わたしの大いなる意志はこの神殿に満ち、やがて水のおもてを覆いつくすであろう。その意志を感じた海闘士たちもやがてそれぞれの地から終結してくるはずだ」

 海闘士たちも、やがて終結してくる……?

「女神との戦争はそれからだ。その日まで決して起こすでないぞ、良いなシードラゴンよ!!」

 そう言うと、その巨大な小宇宙はカノンの目の前から姿を消した。彼が語った、ソロ家の嫡男の許へと飛んだのだろうか。しばらくして、ようやくカノンは自身の最大の危機が去ったことに気が付いた。

「ポセイドンよ。起こすなというのなら二度と起こしはしない。あなたの大いなる意志だけを利用させてもらうぞ。あくまでも傀儡としてジュリアン・ソロの体内で永久に眠っておいて頂こう」

 これほど上手く行くとは思わなかった。カノンは、労せずして望むものを手に入れたのだ。

「ポセイドンの名のもと、このカノンがすべての指揮権を握る!そして海闘士たちを操って地上を征服してくれるわ!」

 しかも、聖闘士に対抗出来得る戦士たちも集結してくると言うではないか。カノンは快哉を叫ばずにはいられなかった。

「地上も海界も、すべてこのカノンのものとなるのだ!」

 昨日まで誰もいなかった世界に、カノンの声が響き渡った。

「みていろサガよ。このカノンが大地と海の神となるのだ!!」

 神。そうだ。口に出してみて、カノンは初めて実感した。これほどまでの力を持ちながら、手をこまねいていることはないとカノンは双子の兄に言った。自分も兄と同じ能力を持っているのだ。

「神だ!!このカノンが大地と海の神になるのだ!!」

 持ち駒は待っていればやがて揃う。ポセイドンがそう言ったではないか。カノンはこの不思議な世界に、大いなる野望を叫んだ。

「アテナとポセイドンにとって代わり、すべてを支配するのだ!」




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