■30話■


 なぜこうも自分は要領が悪いのだろう。
 昨日、ここまでは進めておこうと思っていたのに、違う調べものに気を取られ、こっちの用事をすっかり忘れてしまっていた。

 サガは、膨大な帳簿を収めた書庫の中で、一人ため息をついた。
それでも、ここにあるのはここ3年乃至は5年以内のものだけだ。それよりも古い帳簿は別のところに仕舞われている。

 この帳簿には、聖域の財産――聖域内は元より、外部に所有する土地、建物、そして組織に関する金銭的なもの全て――が記載されていた。
 各項目に、或いは各組織にごとに分けられ、様々な角度からの数字が記載されているから、これだけ膨大な数に上るというわけだ。

 聖域の管理者の一人として、おおまかな数字の流れを掴むことを主な目的として、監査とはいかないまでも、帳簿の点検をするよう、サガは教皇に申し付けられていた。

 サガは、どの帳簿から見るべきか、皆目検討がつかなかった。
 慣れている者にとっては簡単な作業なのだろうが、初めて見るサガにしてみたら、どの帳簿がどの組織について書かれているのか、そしてどのようなルールに則って書架に並べられているのか、全く分からない。

 この重要な書類を見ることが出来る人間は限られており、誰に尋ねれば良いかも分からなかったから、サガは仕方なく端から順に見て行くことにした。

 聖域の金銭的な数字の流れ。
 外部にこんなに組織を持っているとは、夢にも思わなかった。
そして、こんなに多額の外貨を聖域が持っているとは。

 まだわずか数冊を見ただけだが、そこここにリウテスの名前が出てくる。

 のさばっていると悪口を叩く者は多いが、リウテスがいなければ、聖域はここまでの発展を見ることはなかっただろうとサガは思う。リウテスが道を拓いた外交が、そして外貨の獲得の手段があればこそ、聖域はここまでの人数を養うことが出来るのだし、聖闘士を育てるプログラムも展開することが出来るのではないか。
 あの嫌味ったらしい口調や、自分を遥かに見下した物言いをサガはとても嫌悪していたが、リウテスの功績は、自分のプライドにかけて認めなければならないとサガは思っていた。
 自分は、例えその人物が好きになれなかったとしても、その人物の能力や功績はそれとは別に評価出来る人間でありたいと、自分の置かれた地位から考えれば、それが出来る人間でなければならないとサガは考えていた。

 そのときだった。
入り口から、サガを呼ぶ声がしたのは。

「おーいサガー。どこにいるの?」

 屈託のない、朗らかな声が書庫に響いた。
湿気とカビの臭いの充満する書庫に、アイオロスの声はひどく不似合いだった。

 アイオロス。
 そうだ、彼に聞けば良かったのだ。この帳簿の見方、どのように並べられているのか、そして、重点的に見るべきポイント。

 でも。

 サガの本心は即座にその考えを否定した。

 アイオロスに聞いたところで、自分の得たい回答は得られないだろう。

 サガはそう確信した。

 アイオロスは教えてくれるだろう。とても丁寧に、サガが納得するまで。

 だが、そうではないのだ。
うまく言葉で表現することはとても難しかった。

 なんと言おうか、そう、温度差が有りすぎる、と言えば良いのか。

 アイオロスは、幼少時よりここで過ごしている。
こういうことに携わることになった当初はサガと同じように戸惑ったのかもしれないが、もうすっかり馴染んで、当時、自分が分からなかった気持ちなど、もう持ち合わせてはいない。答えてはくれるだろうが、いささか的のはずれた、サガとは明らかに温度差のある、だが、分からない、とは答えられない回答をしてくるに違いない。

「えらいなぁ。やっぱ真面目だよなぁサガは。俺も前やったけど、テキトーに見ただけで終わりにしちゃったよ!」
「適当に見て把握出来るからすごいよ、わたしは必死になって見ているが、さっぱり分からない」

 それは、偽らざるサガの本心だった。

 アイオロスはいつもサガを優秀だと讃えるが、いざとなるとアイオロスの方が優秀な成績を収める。

「そりゃあ、俺はもう長いから。サガも慣れれば簡単に分かるようになるさ!」

 だから、慣れようと、今必死でやっているのではないか。

 のどまでせり上がったその言葉を、サガは寸でのところで飲み込んだ。

 同僚との良好な関係を保つことは、恐らく教皇からの評価の上でも重要なポイントに違いない。
 カノンの複雑な境遇を思えば、サガは出来るだけ高い評価を得たかった。
 アイオロスを凌ぐ高い地位に就ければ、もしかしたら何とか出来るかもしれない。
少なくとも、アイオロスの下に居るよりは遥かに可能性は高くなるはずだ。

「すぐに慣れれば良いのだが、なかなか慣れなくて……。こんなに時間がかかってしまって申し訳ない心境だ」
「焦ることないさ。そういうのは、人それぞれだから!早く慣れるヤツもいるし、時間がかかるヤツもいる!そうそう、そんなことより、これから新米聖闘士たちに実戦型トレーニングをやるんだ!サガも一緒に来てくれよ!」

 サガの心境を察することなく、屈託なくアイオロスはそう続けた。

「いや、わたしは今日のところはここで勉強させてもらうよ。それこそ、早く慣れなければならないから」

 アイオロスは少しの間黙って、気を取り直したように続けた。

「そっか……。分かった。……うん、じゃあ…がんばれよ!」

 片手を上げ、入って来たときと同じ笑みを浮かべて、アイオロスは去って行った。
足音が、次第に小さくなって行く。

 自分の物言いは、まずかっただろうか。偽らざる本心ではあったが、去り際のアイオロスの顔は、少し傷ついたように見えた。もっと違う言い方は無かったか。いや、こんなことを気にするなんて、自分は少しおかしいのかもしれない。気を遣いすぎているのかもしれない。神経質に過ぎる気がする。

 サガが自問自答の迷路に迷いこんだそのときだった。

「なんだよ、あの言い方」

 不意に聞こえた声に、サガは飛び上がらんばかりに驚いた。
アイオロスが出て行った今、この書庫には誰もいないはずだ。そもそも、この部屋を始め、重要書類が多く収められているこの建物に出入りが許されている人間はごく僅かだ。この時間に現れる人間はいないはずだった。

「はん!なにが人それぞれだから!だ。あれじゃサガのペースが遅いって言ってるようなもんじゃねえかよ。馬鹿にしやがって」

 棚の後ろから、その人物は姿を現した。

「お前、いつ戻ったのだ」
 サガは、自分の動揺を隠しながら言った。

 まるで鏡を差し出したようだった。
サガの姿を、そのまま映しとった姿で、その人物はにやりと笑った。
表情だけが違うことが、とても不思議に思えた。

 サガは、カノンの気配の消し方の上達ぶりに驚きを禁じ得なかった。
 おそらく、訓練など一回たりともしていないだろうに、サガですらカノンの気配に全く気付かなかったのだ。あれほどまで完璧に、気配を消せる聖闘士がこの聖域にいるだろうか。カノンの出現は、本当に、忽然と湧いて現れたかのようだった。サガは、カノンのその完璧なまでの気配の消しように、恐怖すら感じていた。

「あいつ、自分がどれだけ無神経な言動してるかって、これっぽっちも気づいてねーんだな。どこまでも馬鹿なヤツ」

 カノンは、サガの質問には答えず、そう続けた。
 サガは、カノンの先ほどの物言いに、少なからず驚いていた。

 そうだ。その通りなのだ。
自分が、アイオロスに対して抱いた不信感の正体は、アイオロスが無神経にも(悪気なく?)サガを馬鹿にしているようにも取れる言動をすることに対してのものだった。

 確かに何年もの経験を積み、自分が初心者のころどうだったのかを忘れ去って――忘れ去ってしまったことも思い出せなくなって―――しまっては、仕方がないのだろうとは思う。
 かく言うサガも、数年過ぎれば後輩にアイオロスと全く同じことをしないとは言い切れない。

 とはいえ、それを言われた方にしてみればたまらない。
 遅いなど、覚えが悪いなど、そんなことは決してない。
 そう言ってもらえなければ、自分が発した「物覚えが悪い、飲み込みが遅い、自分のものにすることに他人より(この場合はアイオロスより)時間がかかってしまう」ということは肯定されたことになってしまうではないか。

「悪気がないフリして、ひでえなぁ」

 カノンが指摘したのは、まさにこの部分だ。

 カノンは、ふらりと聖域に戻って来たかと思えば、戻って来たときと同様に、忽然と姿を消した。サガがどんなに言い含めても、そう、脅しても、なだめても、すかしてもカノンを引き留めることは出来なかった。
 顔を見るのは、どのくらいぶりだろう?
 ひと月は確実に経っている。

 こんなに長いこと離れていてもアイオロスとの短いやりとりを聞いただけで、ズバリとサガの本心を言い当ててしまうことに、サガはカノンとの繋がりがいかに深いかを思い知らされた気がした。

 以前のように仲良く、二人で力を合わせて臨むことが出来たらどんなにか心強いだろう。それだけではない。どれだけの功績を上げられるか。カノンもサガも、小宇宙の強大さはむろんのこと、それ以外の能力も非常に高かった。自分が一目置かれていることは、人々の態度を見れば明らかだった。

「カノン、いつ戻った」
「すぐ出てくから安心してくれよ。確認したらすぐいなくなりますから」

 カノンは、いつもこういう物言いをした。
わざと要点を複数絡めるのだ。

 サガがどちらを先に追及するのかを試しているようだった。

 出て行く、という点を先にすれば、「またその話かよ、しつけえなぁ」と返され、確認とは、何を?と先に尋ねれば「やっぱり俺なんていなくなった方がいいって思ってるんだな」と返された。
 どちらにしても、サガを悪者にするような会話に仕立ててしまうのだ。

 サガはそのことはすっかりお見通しだったから、
「カノン、しつこくて申し訳ないが、ここに居てくれ。街へは行かないで欲しい。それから、確認、とはなんのことだ」
と矢継ぎ早に言った。

 カノンはそれには答えず、
「そんなことよりぃ〜、兄さんはこんなとこで何してるわけ?また大好きなオベンキョウ?」
と言った。

 どこまでも、サガの神経を逆撫でするつもりのようだった。

「カノン、質問に答えろ」

 サガは、殴りつけたい衝動を必死にこらえ、カノンに回答を促した。

「街へ?街へ行くのはやめられないなぁ。兄さん、俺は兄さんに同情するよ。ここがどんなに退屈か、兄さんは知らないんだ。かわいそうに。街を知ったら、こんなとこ、マジでいられないぜ?」

 カノンは向き直ると、サガを正面から見据えて言った。
「なぁ兄さん、一度俺と一緒に街に行こう。アテネなんて、ほんの片田舎だけどさぁ、それでもそれなりには楽しめるもんだぜ?」

 サガは、カノンが自分のことを馬鹿にしているのだと思った。
聖域の外を知らないサガが、アテネが片田舎なのかどうか分かるはずがないではないか。
カノンは、一瞬で自分の心の底まで見抜けるのに、なぜこういうこと言うのだろう。
否。一瞬で心の底まで見抜けるからこそ、敢えてこういう物言いをするのだ。なぜ。何故。
どうすれば、カノンと心を通じ合わせることが出来るのだろう。
どうすれば分かってもらえるのだろう。

「カノン、何度も繰り返すが、わたしの置かれた立場を理解してくれ。聖域は確かに退屈なところなのかもしれないが、わたしたちはここで生きて行かなければならないのだ。カノン、わたしは、黄金聖闘士という立場にあるのだ、どうか、どうか分かってくれ」

 カノンには、サガの言うことが理解出来なかった。なぜここで生きていかなければならないのか。カノンには全く理解出来ない。簡単なことだ。街へ出て、そのまま戻らなければ良いだけの話ではないか。先ほどカノンがサガに言ったことは、カノンの心の底からの提案だった。願いだった。にも関わらず、サガは一顧だにせず、カノンを打ち負かして得た自分の立場をひけらかしたのだ。カノンは、そう思い込んでしまった。

 二人とも、根底では同じ話をしていたのに、二人はどうしてもそれに気付くことが出来なかった。





前へ  /  次へ