■29話■


 カノンは、鏡の前にいた。

 やっぱ、目立つよなぁ。

 長過ぎるのだ。男でこんなに髪を長くしている人間など、街にはいない。
最後に切ったのはいつだったろう。もう、はっきりと覚えてはいなかった。

 カノンは、用意しておいたナイフをおもむろに掴んだ。もう片方の手では無造作に髪を握る。一房にまとまった髪の根元辺りに、ナイフを当てた。

 気にすることなんかない。
別に、あいつと同じ髪型にしてなきゃいけない理由なんかない。
俺は、俺だ。あいつになりすますために生きてるわけじゃない。

 ナイフを持った手に力を込め、ほんの少し動かせばそれですぐに終わりだ。

 俺は、俺だ。
あいつと髪型が違ったからって、困ることなんかあるものか。
 カノンは、ナイフを握った手に力を込めた。ナイフを握った手が、小刻みに震えていた。

 ほんの少し、動かせばそれで終わるのだ。
ほんの、少し。

 そのときだった。
窓の下で、車のドアが閉まる音がした。

 バシーヨだ。


「……くっ」

 カノンは、ナイフを握っていた手をそのまま下ろした。

「くそっ」

 バシーヨが来てしまっただけだ。切れなかったわけじゃない。
サガと、容姿が違ってしまうことが恐ろしかったわけじゃない。
バシーヨが来るのがもう少し遅ければ、髪なんて簡単に切れていたのだ。

 カノンは目深に帽子をかぶると、部屋を後にした。

 階下に下りると、バシーヨが待っていた。

「ごめん、待たせて」
「ああ、気にすることはない。俺が少し早かったんだ」

 二人は車に乗り込んだ。
ハンドルを握るバシーヨの横顔は、緊張しているようにカノンには見えた。

 滑るように、街の景色が流れて行く。

 カノンは、聖域のことを思った。

 大した距離があるわけでもないのに、全くの別世界だ。
 人々は、そんな世界がすぐそばに存在していることなどまるで知らずに日常を送っている。
 行き交う車、隙間を走り抜けるバイク、色とりどりの看板を掲げ、店には豊富な商品が並べられている。洒落た服を着て、得意気に街を闊歩する少女、売り出し中と大きく垂れ幕が架けられた白い壁の広い家、クロムメッキのパーツが陽光を反射して輝いているアメリカンスタイルの大きなバイク。街には人々の欲望が渦巻いていた。

 それに比べ、あそこと来たら。
 何もかも不便で、貧しく、何をするにも我慢を強いられるあの小さな世界。聖域に住む誰もが、食事も、入浴も、洗濯も、全てに渡って、少しずつ我慢をしなければならない。しかもそれに不満を持つことを恥とする文化が聖域にはあった。軍隊によくある根性論である。快適な生活に憧れるなど、低俗だ。生活などというくだらない物にこだわるなど、女子供のすることだ。そういう考え方が、聖域の者たちには染み付いていた。

 何のために生きているんだ。

 何度となく、カノンは聖域の者たちにそう尋ねてみたい衝動に駆られた。

 馬鹿じゃないのか。あんな薄汚い格好をして。あれだけ訓練させられたにも関わらず、毎日風呂に入ることさえ出来ない。あいつらがこの光景を見たらどう思うだろう。
 自分たちは世界を救うために生きているのだ、豊かで快適な生活にあこがれるなど、女々しい者のやることだと、この光景を目の当たりにしても言えるのだろうか。

 カノンは、次々と聖域の人々の顔を思い出した。名も知らぬ雑兵たち、悪趣味な仮面を決してはずさない教皇、俗物の極みであるリウテス、体術を自分に教えたロヨル、青銅聖闘士になることが出来たオルコス、その友人にして同志であるヨランド、そして、そして――――。

 そして最後に、カノンの思考は自分と同じ顔をした、双子の兄の顔を紡ぎ出した。

 お前は。
お前はどうなんだ、サガ。

 お前は、この光景を目の当たりにして、それでも聖域の崇高な生き方を選ぶことが出来るのか。
俺たちはもう、あの頃のガキじゃないんだぜ?
 お前が聖域から脱出しないのは、生活の面倒を見てくれたからだろう?
からっぽになった腹を抱えて、いつ戻って来るか分からない母親をもう待たなくて済む。
それだけの理由なんだろう?

 俺たち二人が力を合わせれば、たぶん、この町をまるごと手に入れることだって出来るはずだ。なぜなら、俺はこれっぽっちの本気も出していないのに、こんなにもみんなに畏れられ、こんなにも重宝されてる。

 あそこから脱出すれば、上から抑え付けられることも、辛い我慢を強いられることもなくなる。

 それでも、お前は人々の幸せのために生きるって言えるのか?

 カノンの記憶の中で、サガは悲しげな深い色をした瞳で、じっとカノンを見詰めた。
それは、怒りを湛えているようにも、悲しみをこらえているようにも見えた。

 サガ、お前は……。
サガ――――。


「……った」
「―――!」

 バシーヨの声が、カノンを現実に引き戻した。

「ごめん、聞いてなかった」
「緊張してるのか?」
「いや、違うよ。ちょっと考え事をしてて……。悪い、もう一度頼む」

 バシーヨは鼻で笑って―――その笑いの意味は分からなかったが―――、カノンの頼みに応えた。

「やっぱり奴らの出所は全く分からなかった、って言ったんだ」
「え、調べたの?」
「もちろんだ」
「詮索しないってのが条件じゃなかったのか」
「ああ、そうだ。それはそうだが、はいわかりましたと飲めるものでもないしな。あれだけの量を捌ける組織が、突然湧いて出るはずはない。俺たちの同業者と、必ず何らかの繋がりがあるはずだ」

 バシーヨのその言葉を聞いて、カノンは少し嫌な気分になった。

 詮索しないでくれ、というのは、カノンがバシーヨたちに提示した条件でもあった。自分も同じように色々と探られたのか。そう思うと、カノンはたまらなく嫌な気分になった。

「それが、どこをどう当たっても―――アフリカまで手を拡げたんだぞ?」

 バシーヨはそこで言葉を切り、首を振った。

「ま、当初の予定どおり、ぶっつけ本番、出たとこ勝負で行くしかないというわけだ」

 車はビジネス街へと差し掛かっていた。

「もうすぐだ。頼むぞ、カノン」

 カノンは無言で頷いた。

 それからものの三分も立たないうちに、車は目的地へと辿り着いた。
大きな木が、門の上から被さるように繁っていた。

 バシーヨは車を門の中へと進めた。赤いペンキで塗られた大きな扉の前で車を止めると、降りるぞ、と言った。

 カノンもバシーヨに続いて車を降りた。
怪訝な目をして、建物を見上げた。

 ここは、教会?

 大きな礼拝堂が、建物の後ろに見えた。どうやら、ここは教会の裏口のようだった。
 教会で、こんなものの取引?

 意外な場所を利用するのは常套手段ではあったが、あまりにもそぐわない。
カノンは不愉快さを隠すことなく顔に浮かべ、辺りの気配を探った。

 そのときだった。

 赤く塗られた扉が、耳がむず痒くなるような音を立てて開いた。

 中から、男が一人現れた。
初老の男で、ひどく太っている。

 誰だ?確かに、見覚えがある。

 そう思うと同時に、カノンは激しい違和感を抱いた。そんなはずはない、と本能がカノンに告げていた。

 こいつは――――。

 次の瞬間、カノンの記憶の焦点が合った。

 ――――!

 聖域で最も長い在任歴を誇る、エリダヌス座の青銅聖闘士のリウテスだった。


 カノンは慌てて顔を伏せた。リウテスから顔が見えないように、髪で顔を隠し、帽子を目深にかぶった。帽子を被って来て、本当に良かった。

 だが、なぜ。なぜ奴が、こんなところに!

 カノンは顔を見られることのないよう、髪で顔を覆ったまま、バシーヨの後ろに俯いて立っていた。

 まずい。見られただろうか。
リウテスとて聖闘士なのだ。カノンの小宇宙を感じていないはずはない。

「ようこそ、我らが家へ。お忙しいところ、ご足労をおかけして申し訳ありませんな」

 リウテスは大きく手を広げ、芝居がかった素振りで歓迎の意向を示した。さあ、と中へ入るよう促す。リウテスがカノンに気付いているのか、いないのか、全く分からなかった。声の調子だけ聞けば、気付いていないように思えた。

 だが、それは自分に都合の良いように捉えているだけなのかもしれない。
リウテスには、カノンとは比べ物にならないほどの経験がある。気付いていないはずはないだろうと思うし、素知らぬ振りをすることも造作もないだろう。だが、声の調子はあまりにも頓着がないのだ。本当に気付いていないのかもしれない。

 カノンは、リウテスの一言一句に耳を傾けた。ほんの些細な言葉や声の調子から、自分に気付いているのかを探ろうとそれだけに集中した。リウテスは、あの聞き覚えのある低い少しかすれた声で、バシーヨに条件を伝えた。

 「商品」の量と、価格。価格は以前伝えたとおりの金額であること。支払い方法は現金で、納品前にまず半額を支払うこと。「商品」を渡した後、残りの全額を支払うこと。全くもって、「お約束」通りの内容だった。そして、何か質問はあるか、と尋ねた。

 わからない。

 カノンは全身全霊を持ってリウテスの言葉に耳を傾けていた。だが、力を入れすぎるとカノンの身体からは小宇宙が漏れ出てしまう。だから、カノンは集中しすぎないことにも注意を払わなければならなかった。これは、カノンにとって、全くはじめての経験だった。集中力とは、高めれば高めるほど良いものだと思っていた。このときカノンは知らなかったが、黄金聖闘士はある一定のレベルに達すると、集中力を―――小宇宙を高めすぎない訓練を集中して行うこととなる。
 強すぎる小宇宙は、簡単に察知されてしまう。集中しつつ、完全に気配を消し去ることは容易なことではない。黄金聖闘士たちも、この訓練を最も苦手とする者が多い。

 最も効果的な訓練とは、やらざるを得ない状況に追い込まれることである。ありていに言えば、「ぶっつけ本番」ということだ。失敗を許されない、「本番」にいきなり放り込まれるほど効果のある訓練はないだろう。

 この後に起こる、冥界との最後の聖戦で、カノンは歴史上類例を見ない活躍をしたのは、聖域で、或いは街で、この「ぶっつけ本番」を数多く経験したことが大きい。

 ともかく、このときカノンは「失敗が許されない状況」に放り込まれていたことは間違いない。相手に気取られることがないよう集中しつつ、相手が自分のことをどれだけ見抜いているかを察知しなければならない。自分のことがバレているかどうかで、今後どうしたら良いかが全く変わってしまう。情報こそが命綱だった。息も詰まるような緊張感の中で、カノンは綱渡りを繰り返した。

 一方バシーヨは、そんなカノンに一向に構うことなく、率直な疑問をリウテスにぶつけていた。バシーヨはバシーヨなりに、腹を決めていたらしい。今後の付き合いを決める上でも、相手がどう答えるのかは、その答えの内容も、そしてそれをどのような態度で答えるのかも含め、必要不可欠な情報だった。

「不躾な質問で大変恐縮だが、なぜこの値段で出せるのかをお伺いしたい」

 この値段に相応の、粗悪な「商品」であるのかもしれない。相手は、それをどう答えるのか。正直に答えるのか。粗悪な物であった場合、バシーヨたちは大きな損失を受けることになる。が、もしもそうでなかった場合、通常の価格に比べ、倍の収益を得ることが出来る。掛ける価値は、大いにある。

 リウテスはのうのうと言ってのけた。

「我々は、特殊な組織に属しておりましてな。ゆえに、人件費がかからないのです」

 カノンは、曰く言い難い気持ちになった。

 ま、そりゃそうだ。
 訓練、或いは女神への奉仕と称して、聖域は人々に様々な作業を強いた。聖域内の建物の修復であったり、農作物の栽培であったり、それをもとにしたワインの醸造やオリーブオイルの精製などなど。

 それらを外界で裁き、外貨を獲得するのがリウテスの役目だった。彼の持つ権力は、この役目に基づいたものだった。聖域は自給自足を原則としているが、完全に完結しているわけではない。どうしても聖域内では作り出せず、外界から手にいれなければならないものもあったし、また、ある程度の外貨も必要だった。

 厳しい実線訓練を終えたその足で、オルコスたち訓練生も農作業へと駆り出されていたことをカノンは思い出した。じりじりと肌を焼くきつい日射しの下で、数十人の訓練生だちは黙々と農作業をこなす。その姿は奴隷さながらだった。

「粗悪な品でも、混ぜもので水増しするわけでもありませんぞ?」

 リウテスは、バシーヨの胸のうちなどお見通しだと言わんばかりににやりと笑いながら言った。
 バシーヨに、断る理由はなかった。
もしも今回掴まされたとしても、試してみるだけの価値はあった。もしも本当に真っ当な「品物」が納品されれば、通常の倍は確実に儲けられるのだ。今後も定期的に取引をしたいと言う。
 バシーヨはリウテスの提示した条件を承諾した。
こんなものの取引だから、契約書などは無い。半額分の現金の受け渡し場所と時間を確認し、この会談はお開きとなった。

「拍子抜けだな」

 殺されるどころか、もう少し値段を下げられるとまで言われた。条件は、受け取り前に料金の半額を現金で支払うこと、そして詮索をしないことの二つだけだった。

「田舎の坊さんが、悪い金儲けに味をしめたってとこか」
「……」

 当たらずとも遠からずのバシーヨの見解に、カノンは答えに窮した。

「ま、人件費の件が本当なら、だが」

 バシーヨは、暑いな、と一言言うと、車の窓を閉め、小さなボタンを押した。
車に何箇所か設置された、黒い小さな吹き出し口から冷たい空気が勢いよく流れ出て来た。ひんやりとした乾いた風は、とても心地よかった。

「本当だと思うか?」

 バシーヨはカノンに問うた。

「ああ。俺は嘘じゃないと思う」

 間違いなく嘘ではない。カノンはそれを知っていた。だが、それを言うわけにはいかない。隠し事は、隠し事を次々と呼び込んでしまう。そして。リウテスは、自分に気付いただろうか。それとも、気付いていない?もしも気づかれていたら、自分はどうなってしまうのだろう。
そして……、そしてサガは。
 車内はすっかり冷えたというのに、カノンは気味の悪い汗をじっとりと手に握っていた。





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