:ズルイ人:
後編

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「えー……なにそれー……」


 虎徹もまた、頭を抱えて唸っていた。
 抱えた手の中で帽子が潰れている。
 うんうんと唸る様は、頭痛を訴えているようにも見えた。
 実際、頭が痛くて仕方ないのだろう。
 苦しそうな唸りの隙間から、虎徹が声を絞り出す。
「あのさぁ……どの辺を見て俺とアント……ロックバイソンがつきあってるように思ったの?」
「え、だって……いつも一緒に飲みに行ってるし……」
「ロックバイソンだけじゃなく、ファイアーエムブレムとも結構行ってるけどなぁ……」
 情けなさそうな声に、イワンはぎょっとして叫びを返した。



「えっ!? タイガーさん、実はファイアーエムブレムさんとつきあってるんですか!?」
「――――俺、いっぺんお前の頭の中身見てみたい」
 それとも最近の若者は空耳が必須なの?
 虎徹が肩を落として呟いた。



 イワンはそんな虎徹に声をかけられずにいる。
 はっきり言って虎徹の反応は予想外だった。
 想像していたような怒気ではなく、脱力感が虎徹を包んでいる。
 どう接すればいいのか分からないという戸惑いが、イワンから先ほどまでの覇気を奪い去った。
 後に残ったのはいつもの弱気な自分。
「あー、そっか。俺、そんなこと想像させるほど追い詰めてたのかー」
「あ、あの、タイガーさん……?」
 一人で言って一人で何か納得している虎徹に、やっとそれだけイワンは声を掛ける。
 虎徹は肩を落としたまま、声を返した。
「あのさー、折紙−?」
「な、なんですか、タイガーさん……」




「折紙は俺に抱かれたいの。それとも俺を抱きたいの?」




 ――――またしても静寂が世界を侵す。

 ぽつん、と呟かれた小さな言葉がイワンに混乱を生み付けた。
 驚愕がイワンの体を刺し貫き、その場に凍結させた。
 真っ白になった頭の中で、先ほどの台詞が好き勝手に暴れまくる。
 冗談で濁したものならば聞いたこともある。
 だが、こんなにはっきりと虎徹の口から性的な言葉を聞くのは初めてだった。


「――――どうしたんだ」
 視界の中で虎徹が面を上げた。
 その表情には一切の戸惑いがなく、どこかおもしろがっている風ですらある。
 瞳には、まるで獲物を前にしたネコ科の肉食獣のように貪欲な光が宿っていた。
「あ、の、タイガー、さ……」
「つきあうってそう言うこったろ。まさかおてて繋いでその辺お散歩――――で満足するような歳じゃねぇよな……?」

 なぁ、イワン。

 囁かれた言葉に、背筋がぞくりと震えた。
 艶を含んだ声が自分の名を呼ぶ。
 その光景を何度も妄想したことがある。それこそ何度も、何度も布団の中で。
 ああ、それならば今見ている光景は夢なのか。
 目覚めてみれば布団の中で、下腹部に張り付く下着を前にまた落胆と未練を味わうのか。
 だが広がる光景に夢は覚める気配もなく、かえってこれは現実だとイワンに突きつける。
 先ほどとは逆に、今度は虎徹が足を踏み出した。イワンは固まって動けない。
 空気が動く度に、虎徹の周りから甘い匂いが立つ。
 虎徹がいつもつけている香水とは違う、例えるならば腐り落ちる寸前の果実のような甘い薫り。
 哀れな虫を誘う、罠の匂い。


「あのさ、イワン」
 虎徹の顔が間近に迫る。
 視界に広がる東洋人特有のキメの細かい肌。コーヒーに大量のミルクを注いだようなその肌色は、きっと舐めれば甘いことだろう。
 伏し目がちな眼差しが、たまらなく色っぽい。


「お前、俺にキスできる?」


 吐息で頬を撫でられ、イワンは産毛を逆立たせた。
 返事ができなかった。
 イワンの口はさっきから短い息を零すばかり。虎徹の問いには答えられそうもない。
 だが視線ばかりは虎徹の薄く開いた唇に釘付けだった。
 ぽってりとした唇がスポーツ飲料の入ったボトルのストローを加える度、打ち消してきた卑猥な妄想がここで蘇る。
 イワンはなにも言えず、ただ乾いた喉に水分を送る。
 有るか無しののど仏が上下する。
 それを見た虎徹の唇から赤い舌が覗く。
 男を誘う艶冶なその様に、ずくりと腹の底で熱く重いモノが疼いた。


「お前ができないんなら、俺から仕掛けていい?」
 問いかけという形を持っているが、それは宣告だった。
 逃れられぬようにと、虎徹がイワンの頬を掴む。
 そっと羽が触れるかのごとく柔らかな抱擁だったが、イワンは逃げられなかった。
 虎徹が瞳を伏せる。唇が近づく。
 観念したイワンはかたく目を閉じ、その時をまった。
 溢れる吐息が唇をなぞる。
 だが――――。




 それ以上、熱が近づいてこない。
 間近に虎徹の気配を感じる。頬に手を当てられている。
 しかし、唇が重なる気配は一向にない。
 イワンは恐る恐るまぶたを震わせ、目を開けた。


 ――――開けた瞬間心臓が止まるのではないかと思った。


 目と鼻の先。それこそ鼻も触れあわんばかりの近さに虎徹がいる。
 その表情には、イタズラが成功した子供のような笑みが浮んでいた。
「ごめんなぁ、折紙」
 苦笑と共に呟かれた言葉に、イワンはからかわれたのだと知る。
 落胆がイワンの体から力を奪った。
 萎えそうになる足を支えているのは、こんな目にあってもなお思い人にみっともない所を見せたくないという男の矜持。
 だが、それに反してじわ、と涙が目の端から溢れそうになる。
 イワンは慌ててそれを拭うと、度の過ぎた虎徹のからかいに抗議しようと、
 
 

 した矢先、額に柔らかな感触。


 
 
 イワンの思考が止まる。
 ゆっくりと離れてゆく虎徹の顔。その一点、唇にイワンの視線は集中した。
 まだ額に残る、暖かくも柔らかな熱の正体。
 

 ――――口づけられた。

 
 気づいた瞬間、全身に火が灯った。
 宿る熱はたちまちのうちに頭部に集中し、イワンの顔を蛸のごとくゆであがらせた。
 イタズラの張本人は、そんなイワンの様子にくつくつと抑えた笑いを零す。
 見下ろす眼は、いつものごとく包み込むように優しい。


「オトナのキスができるようになってから、またおいで」


 今のお前にはこっちがお似合いだ。
 それだけ言って、虎徹はきびすを返した。
 固い靴音を狭い天井に響かせ、背中が遠ざかってゆく。
 虎徹の姿が見えなくなってから、イワンはようやく硬直を解いた。
 とたん、くなくなとその場に崩れ落ちる体。
 落ちた腰から伝わるひんやりとしたコンクリートの感触が、今は現実であると伝える。
 同時に、触れた額に残る熱も先ほどの光景を事実であると証明する。
 へたり込むイワンの手の中にはもはやチャンスの女神の前髪はなく、代わりにぼろぼろに千切れたチケットが握られていた。
 耳の内側で、先ほどの虎徹の声が蘇る。


『オトナのキスができるようになってから、またおいで』


 ――――期待を、持ってもいいのだろうか。
 混沌とする脳内で、そんな都合のいい解釈が生まれる。
 イワンは額に触れていた指を下ろし、そのまま自身の唇をなぞった。
 ――――熱はまだ、引きそうにない。








「わりぃ、遅れた」
 虎徹が馴染みのバーに着いたのは、約束の時間をとうにオーバーした時分だった。
 待っていた友人に軽い謝罪を入れるが、相手はいつものことと笑って受け流してくれた。
 友人の隣に座り、いつものロックを頼む。
 つきだしのナッツをいじっていると、アントニオが伺うように顔をのぞき込んできた。
「……なんだよ」
「いや、お前心なしか機嫌良さそうだと思ってな」
 何かいいことあったのか?
 問う言葉に、虎徹は笑みを返した。
「なんっつーのか、青春ってぇヤツを目の当たりにしてさ……」
 子供は見てるもんだねぇ……。
 全く繋がらない二つの台詞に、アントニオの訝しさは増すばかり。
 だが虎徹はあえて訂正しようとせず、出された焼酎を傾けた。
 
 
 ――――正直、イワンがこちらの思惑――ドラゴンキッドとくっつけようとしている――を見抜いていたとは思わなかった。
 
 
 虎徹は、イワンが自分に想いを寄せていることにもうだいぶ前から気づいていた。
 他の人間を見るのと違う視線の色に気づかぬほど枯れてもいないし鈍くもない。
 彼の性格からして自らアクションを起こすとは思えず、時間が想いを薄れさせるまで放っておくつもりだったのだが――――意外にも、イワンは虎徹の想像より"男"だった。
 多少回りくどくはあったが確実に向けられたアプローチに虎徹がとった処置は"別の相手を見つけさせる"というもの。
 彼女と行動を共にしていれば、こんなオッサンよりパオリンのような可愛い女の子の方がいいとすぐに気づくはず。
 虎徹はなるべく鈍感を装い――もとより周りからそう思われているのでわざわざ装う必要もなかったのだが――二人の橋渡しに努めてきた。


 だが今日、第二の誤算が起きる。
 誤算とはそれ、イワンが直接気持ちをぶつけてきたことである。
 虎徹はイワンの告白する姿を思い返し、小さく笑みをこぼした。
 普段の気弱な態度は形を潜め、代わりに浮かび上がったのは男の顔。
 真摯で、向けた相手の全てを奪い取ろうとする猛々しさの滲む顔だった。
 虎徹にもかつてあったものだ。だからこそ、あんなにも眩しく写ったのだろう。
 もう虎徹には微塵も残っていない。
 からかいで吐いたあの台詞は、別に希望を持たせるわけではない。
 ただ、虎徹の言う「オトナのキス」ができるようになる頃には、きっとあの情熱も別の誰か――願わくば、彼に似合いの優しい女性――に向けられているはずだ。
 虎徹はそこまで考え、ずいぶんと打算的な大人になった自分を思い笑いに喉を震わせた。
 イワンのあの向こう見ずな青い情熱を羨ましくも思う。
 己の身の内で煌々と輝いていたそれは、かつて妻にすべて捧げ尽くした。今は一緒に墓の中だ。


「若いっていいねぇ……」


 振るグラスの中で琥珀が揺れる。
 表面に映る自身の意外に優しい瞳ごと、虎徹は残った酒を飲み干した。

あとがき

酸いも甘いもかみ分けた。
大人なおじさんが書きたかった。ただそれだけなんです!
しかしどう考えても解決になっていないっていうか裏目になっているのがおじさんクオリティ。

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