平行プロローグ
=後=
「で。あれ誰なんだよ!」 レギュラーによるミーティングが終わった、放課後の氷帝テニス部。 榊顧問がクラブハウスを出るのと同時にイスから身を乗り出し、向日は跡部に詰め寄る。 好奇心からか、その目は獲物を見つけた猫のように爛々と輝いていた。 対して額がぶつかりそうなほど詰め寄られた跡部の方はと言えばいたって冷静なもの。 榊顧問から渡された資料を樺地に預けながら、 「何がだ」 「今朝お前が連れてきた子ォや」 朝っぱらから泣かしたりして、どういう関係や? 向日の隣でダブルスのパートナーたる忍足がにやり笑って問う。 眼鏡の奥の瞳は、向日ほどではないが好奇の色を宿し跡部を見据えている。 そのまた隣で資料を纏めながら鳳はほぅっ、と息を吐き、 「それにしても俺はじめて見ましたよ。跡部部長に手を出す女の子」 首を振り振り感心する。 鳳のいう「手を出す」とは比喩ではない。 正真正銘文字通り、跡部は今朝さる少女に「突然頭をはたかれた」 その場にいた正準レギュラー、その他取り混ぜ二百数名が一瞬にして皆同じようにムンクの叫び状態となったのは、たぶん後にも先にもこれっきりだろう。 ――――氷帝テニス部において、と言うか氷帝学園において、跡部の存在は絶対にして不可侵――――とまではいかないが、まぁそれでも気軽に声をかけられるような相手ではない。 全国にその名を轟かす名門テニス部の頂点に君臨しているからだとか、教師から一目置かれるほど聡明な生徒会長として学園で采配を振っているからだとか、そもそも全身に高貴というか何とも言えぬオーラを纏っているからだとか人によって理由は様々だが、とにかく一介の生徒がおいそれと話しかけられるような、そんな人物でないことは確かだ。 故に、今朝跡部が伴いやってきた少女の行動は周囲の人間の度肝を抜くに相応しいものばかりだった。 漏れ聞こえた会話の端々から察するに、おそらく跡部とはそれなりに親しい間柄なのだろう。 少なくとも今日昨日の仲ではない。 いったい「どういう方向で」親しいのか。 周囲の人間の興味が行き着くところは、結局そこだった。 「そーいや、跡部。今朝はバスだったんだってねー」 あの子といっしょに。 眠そうに目をこすりながらの芥川の発言を引き継いだのは宍戸。 「いつもは自分ちの車なのになぁ。バス通学の連中が朝騒いでたのはそのせいか」 「で。で! 何なんだ、あの子!?」 お前とはどういう関係だッ、と返される答えへの期待に向日の語尾も自然弾む。 向日ほどではないが、周りのレギュラー陣も多かれ少なかれ興味と期待を持って跡部の返答を待っている。 跡部はそんな周囲の人間をぐるり見渡すと、ぽつんと小さく、 「――――彼女」 「えっ!」 「……っていうのがお前らのご希望なんだろうが、そんなんじゃねぇ」 ことさら強く輝いた向日の瞳が、続く言葉に一瞬で落胆に変わる。 「えー、なんだ違うんですかぁ……」 他の人間も多種多様、それぞれに予想が外れてがっかりしたり興味を無くしたり。 そんな周囲の様子など吾関せずと当事者たる跡部は、ずっと背後に控えていた樺地を伴い部屋を出る。 その背に向かい、ずっと傍観者然としていた滝が、初めて口を開いた。 「で、本当のところは?」 誰も気にとめないほど小さな呼びかけに、一瞬跡部と滝の視線が絡む。 見下ろす目と、見透かすような目。 視線の交錯は数拍の後跡部の方から解かれた。 視線は滝を向いたまま、しかし意識はドアの向こうに向けて。 「強いて言うなら―――― にやりと、見たこともないほど楽しげで意地の悪い笑みを残し、跡部はクラブハウスを後にした。 目指す後ろ姿は校門の近く、ちょうど木の陰にまるで隠れるようにしていた。 もうこの時間帯になると学校に残っている生徒もほとんどおらず、気が抜けているのだろうか。 花壇の縁に腰掛け何かを熱心に読み込んでいるは、近づく跡部達に気づいていないようだ。 いったい何を沈思黙考しているのかと手元を見れば、手にしていたのは数店のスーパーのチラシ。 しかもそのすべてに書込みが入れてある。 中学生としてはいささか不毛というか何というか、とにかく何ともいえぬ気持ちにさせてくれる熱の入れようだ。 「――――なに所帯くさいことしてんだ、あぁん?」 「ひあぁーッ!!」 軽く声をかけたつもりだったのだが、返ってきたのは必要以上のリアクション。 天敵に襲われたネコのように甲高い悲鳴を上げ、は文字通り飛び上がった。 表紙にチラシがひらひらと雪のように舞い落ちる。 は目を白黒させながら震える指で跡部をさし、 「い、い、い、い、い、い、い、」 「"いつの間に"って、今ついさっきだ。背後からならともかく正面から近づいてたんだから気付けよ」 「む、む、む、む、む、」 「まぁヤケに熱心だったしな。気付けっていうのは"無理"か」 「だ、だ、だ、あ、ありがとう」 拾い集められたチラシを樺地から受け取り、はやっと落ち着きを取り戻す。 何度も深呼吸を繰り返してから、大事そうにチラシを鞄にしまうと、むぅっと唇をとがらせ跡部を睨んだ。 「……遅かったな。もうちょっとでタイムセールに間に合わなくなるところだった」 「先に帰りゃよかったじゃねぇか」 「待ってろって言ったのは君だろう」 眉間をしかめ、詰る。 確かに昼休み、一緒に昼食をとったときクラブが終わるまで待っていろと言った。 だが同時に、跡部はこうも言った。 「強制したわけじゃねぇ。"いやなら一人で帰ってもいい"――――俺は確かにそういったよな」 その無駄にいい記憶力を働かせてみろ。 片頬をゆがめて笑えば、は唇を尖らせたままそっぽを向いた。 それを、跡部は愉快な気持ちで見つめる。 実のところ、跡部はが一人で帰るなどとは思っていなかった。 自分が"待っていろ"と言ったのだ。 は絶対に待つ。 この六年、多少の成長はあったらしいが、根本が変化していない事は先の帰郷の一件でよく分かった。 この甘えたがりで、しかし変なところで自立心の強い幼なじみは口であーだこーだ言いながらもきっと言われたとおり跡部を待つだろう。 すべて承知で「帰ってもいい」と言った。そして跡部の考えは当たった。 今こうしているのがその証拠だ。 「ったく」 いつまでもそっぽを向いたままのの頬を摘み、跡部は無理矢理顔をこちらに向ける。 ふにふにと赤ん坊のような摘み心地が気持ちいい。 「いつまでもすねてんじゃねぇよ。ガキか、お前は」 「 振り上げた手で同じく跡部の頬を摘みにかかるがそうは問屋が卸さない。 空いた手で片手を封じ、追いかけてくるもう片手を巧みに避ける。 はますますムキになる。 子供の頃から繰り返されてきた"遊び"に、自然頬が緩む。 その場を一歩も動かぬ手だけの鬼ごっこはどれほど続いたか。 の息が切れたのを見計らって、跡部は手を離した。 途端その場で膝をつく。 ゼイゼイと肩で息をする様に、樺地は気遣うように背を撫でる。 額に流れる汗を拭いながらはぼやいた。 「――――ッそぉ……、精神的だけじゃなく肉体的にも疲れる一日だなぁ……」 「あ? 超合金製の毛が生えたコンニャクみたいに柔軟性のあるお前の心臓が参るなんて珍しいな。明日はカエルでも降るのか?」 「失礼通り越してよく一瞬でそこまで小馬鹿にしたセリフがでるもんだと感心する。――――いや、まぁたいしたこっちゃないんだが……」 膝についた砂埃を払いながら立ち上がると、は今朝からの出来事――視線云々――を語って見せた。 説明の最中、端々に「たぶん気のせいだろうが」だとか「もしかしたら勘違いかも」だとか注釈を入れて自分でもいちいち信じていないのがらしい。 跡部は黙って相づちを打ちながら、しかしその視線の数々がのいうような"気のせい"などではけしてないことを知っていた。 自分でいうのも何だが、跡部は目立つ。 生徒会長でテニス部部長で、ついでに金も才能も持っていて。 それなりにレベルの高い学園内でも飛び抜けて目立ってしまうのは仕方のないことといえた。 そんな自分に平気でため口を叩いたり物理的にツッコミをいれたりする、見ため平々凡々な見慣れぬ少女。 生徒達が興味を引かれるのも無理からぬ話。 視線だけで直接に関係を問うたりする者が出てこないのは、があんまりにも"得体が知れない"ためだろう。 跡部の祟りを恐れている、という見方も出来る。 ある程度の正体が分かるまで、きっとこの注目は続く。 ――――もっとも、跡部にとってそれらはすべて想定の範囲内だったが。 「どうせ季節外れの転校生が物珍しいだけだろ? いちいち気にするようなことかよ」 「生まれたその日からスポットライト浴び続けている君ならともかく、私はアレだぞ? 前世は忍者かダンゴムシかと言われるくらい存在感ないんだぞ? 目立たぬ事カレーにすりいれられたリンゴのごとしだぞ? この状況に不自然感じるのはむしろ仕方のないことじゃないか」 「訳わかんねぇ例え持ち出してんじゃねぇよ。だいたい、そんなに気になるなら自分から聞きに行け」 「……やっとハイハイを覚えた赤ん坊にホノルルフルマラソンへ出場しろと言うほどのムチャ振りだな。――――なんか、そんなの私が自意識過剰みたいじゃないか」 最後の言葉は小さく口の中に消えてゆく。 下を向いてそれっきり、は黙りこくってしまった。 慣れぬ状況と環境に、どうすればいいのか戸惑っているのだろう。 昔のように、素直に「助けてくれ」と言えばいいのにと少しばかり呆れながら、跡部はの頭をぐしゃぐしゃ撫でた。 「けーご?」 「あんまつかわねぇ頭使うな。ショートするぞ。そのうちまわりの連中も飽きてくるだろ。もしなんかあっても、お前のクラスにはコイツがいるだろうが」 心細そうな顔で見上げるに対し、コイツ、の部分で跡部は樺地を顎で指す。 と樺地が同じクラスになれたのは、天恵だと跡部は思っている。 になにかあれば、すぐさま樺地を通じて跡部に情報が入ってくることだろう。 出る杭は打たれるの例え通り、跡部には敵も多い。 跡部の足を引っ張るためを利用しようとする者も出てくるに違いない。 樺地がガードについていればその恐れも半減する。 面倒なことこの上ないが、しかしそれでも跡部にはを側に置いておきたい理由があった。 それは――――。 (やっと帰ってきたんだ。誰が手放すかよ、こんな面白いおもちゃ) ……が聞いたら、それこそ憤死するような理由だった。 「遠慮なく頼って、縋って、当てにしろ。こいつにもそうするように言ってあるしな」 「相も変わらず人の都合も気持ちも手間も清々しいほど無視する奴だな。――――あいにく樺地君に頼るのは最後の手段だ。それまでは、まぁ手前の力だけで何とか切り抜けてみせるさ」 ふてぶてしさの中にやはり若干隠しきれぬ不安を滲ませは笑った。 やっと調子が戻ったかと跡部は肩をすくめ、歩き出す。 後を追うように樺地、が続く。 跡部を挟むような形で、三人はそろって帰路につくこととなった。 バス停へと続く道。オレンジがかった西日がアスファルトに長く影を作る中、他愛ない会話を続けながら、跡部はふっと吐息を零した。 幼い頃の光景と今とが重なる。 隣にがいて、樺地もいるこの光景。 これから始まる日々を思い、跡部はうっすら口角をつり上げた。 |
あとがき
幼なじみならではの距離感を書きたかったのですが玉砕。 会話の端々に合いの手という名のツッコミ(直接攻撃含む)が入る両者。 本人達はごく自然に行っているスキンシップですが、まわりには異質に見えたよう。 あと跡部が氷帝転入を押したのは「お気に入り」を側に置いておきたい、ちょっと子供じみた独占欲から。 だいたいそんな感じ(蛇足説明) |