平行プロローグ
=前=

戻る/

 椀に盛った味噌汁を一口すする。
 氏子さんからもらった手作り味噌は市販品に出せぬ素朴な味わいを醸しだし、ネギに油揚げというきわめてシンプルな具材の魅力を十分に引き出している。
 は舌で十分に風味を味わうとほっと吐息を零した。
 いまだ気怠さの残る寝起きの体が、腹の底から覚醒する。
 ちらりと横目で見た時計の針はまだ六時をさしていた。
 これから朝食を食べ、後片付けをし、さらにちょっとした洗濯をしても学校には十分間に合うだろう。
 父も祖父も、もう朝食を終えお勤めに出ていた。
 つまり今、食卓にはしかついていないはずなのだが――――。



。おかわり」
「……なぜ君がここにいるんだ」
 さも当然のような顔をして飯茶碗を差し出す跡部に、は頬を引きつらせた。





「――――君、たしかテニス部で部長さんやってたよな?」
 差し出された茶碗に白いご飯をほっこり盛ってやりながらは問う。
「朝練大丈夫なのか? と、言うか朝ご飯くらい家で食べてくればいいだろう」
「いつものように家で食べてからここに寄ったらそれこそ朝練に間に合わなくなる。お前もとっとと食え。六時半には家を出るぞ」
「君の予定に私が組み込まれていることに対して、大いに疑問を呈したいところだな」
 目の前の相手を手本に、皮肉たっぷり片頬を歪めれば、相手はしれっとした顔して曰く。
「転校初日で不安がっているだろうお前への配慮だ。ありがたく思え」
 尊大な物言いの端にこの少年なりの優しさが見え隠れする。
 ――――そんなことを言われてはなにも言えなくなるではないか。
 は亀のように首を縮めると、視線をそらしながら口の中でぽつんと礼を言った。






 が母の元から幼なじみ達の元へ戻ってきてから、約半月になる。
 引っ越し準備やら転入試験やらで中途半端な時期の転校となり、跡部の言うとおりさすがに慣れたでも少々不安を感じていた。
 さらに転校先は、これまでのなら選択肢にもいれなかったような名門校――――目の前の跡部景吾が通う私立・氷帝学園である。



 もはじめは通う気どころか受ける気すらなかった。
 帰ってくると決まった時、は当然のようにもう一人の幼なじみが通う私立・青春学園を選ぶつもりだったのだ。
 ところがここで突然横車を押される。
 横車とはそれ、他ならぬ目の前の少年である。



 跡部はが、幼なじみでもありテニスを通じてライバルの関係にもある手塚と同じところへ行くのが甚だご不満らしい。
 やいのやいのと覚えてもいられないような文句を言われ続けられるのに辟易し、とりあえず転入試験を受けるだけ受けてみると口を滑らせたのがマズかった。
 そもそも受けてみる、とはその場の勢いから言っただけで自身受かるなんてこれっぽっちも思っていなかったのだ。



 世の中には、偏差値という壁がある。
 あいにく氷帝学園は今までが通っていた学校よりもレベルが高く、の学力ではとうてい受かるはずもなかろう――――と、思っていたがいったいどんな悪魔の好意か、天神様の気まぐれか。
 見事に合格したものだからさぁ大変。
 しかも受けたのが特待生制度込みのものだったから学費が云々という逃げ道も塞がれてしまった。
 正直、この先十年分の運を使い切ったのではなかろうか。
 かくして、何故か勝ち誇る跡部を背に、季節は初夏を迎えようという頃、十三才――――今日から未知の世界へ足を踏み入れることとなった。






 後片付けをして、境内の父達に一声かけてと跡部は揃って家を出た。
 の家から氷帝までバスに乗って数十分。
 まだ朝早い為か乗客はなく、苦もなく席に着くことが出来た。
 二人並んで話し込んでいればやはり運動部系の生徒達だろうか、次々と氷帝の制服を着た人々が乗り込んでくる。



 友人と思しき少年と話しながら、あるいは耳に差し込んだイヤホンの具合を直しながら、あるいは欠伸をこぼしながら、あっという間にバスの中は氷帝の生徒"のみ"で埋まってしまう。
 ここまでは平均的な朝の登校風景と言えるものだが、おかしな事になぜかそのいずれも、跡部の顔を見るなりぎょっと立ちすくみ、慌てて礼の姿勢をとった。
 跡部の方はと言えばそれに対しておざなりに返事をするか、あるいはまったく気づかないか。
 人が増えてくる度にバスの空気も変わってゆく。
(――――なんだ、これ)
 妙に尻が落ち着かないのは、四方八方から好奇とも何ともつかない意識を送られているためだろう。
 そのくせこちらからちょっとでも視線を返せば途端に何でもないことのように皆振る舞う。
 たしかに跡部の尊大不遜極まりない態度は人の注目を浴びやすいだろうが、これほど量の注視はいささか不自然な気もする。
(なんなんだ、いったい――――)
 ちりちり焦げるような緊張感に包まれながら気づいた様子もなく普段通り話を続ける跡部に、は引きつった顔をむける。
 もう少しの辛抱だ。バスが学校に着くまでの辛抱だと己に言い聞かせながら、はひたすら跡部の話に相づちやツッコミをいれ続けた。




 ――――だが話はバスの中だけでは終わらない。




 妙に苦行じみたバスでの一件を終えたを待っていたのは、登校時とさして変わらぬ……むしろ逆にひどくなった状況であった。
 例によって例のごとく、跡部の命により甚だ不本意かつ無意味に(なにせはルールすら満足に知らない)朝練を見学させられている間も、はあのなんともいえぬ居心地の悪い視線に晒され続けた。
 どうやらバスの中で感じた視線も、朝練を見学中晒され続けた視線も、向けられていたのは跡部ではなく、側にいただったようだ。
 はっきり言ってこれまでの十四年間これほど注目を浴びたのは初めての経験である。
 六年前の初転校以来、「害なく罪なく存在感なく。ここにいるのは人間ではありませんナナフシです」をモットーに生きてきたにとって、突き刺さる視線の雨あられはとんでもなく神経を削るものであった。
 いかにザイル並に頑丈な神経であろうと、四方八方からあれほどの量、あれほどのしつこさの視線を送られ続けていたのでは参ってしまう。
 気のせいにするにはあまりに露骨で、しかしいちいち問いただすにはちょっと数が多すぎる。
 額に滲む脂汗を拭ったのも、一度や二度ではない。
 まさか部長としての務め真っ最中の跡部を頼るわけにも行かないから、朝練中はずっと堪え続けるしかなかった。



 グラウンドを出れば解放されるであろうと思っていた見通しの甘さを嘲笑うかのように、視線の洪水は朝練が終わった後もを容赦なく襲った。
 HR、休み時間、はては授業中に至るまで一体これは何の修行だと天に向かって問いただしたくなるほどの注視に、気分はもうピーラーでちょっとずつ皮を剥かれる野菜だ。
 しかしこれほど視線を送り続けているのだから休み時間ともなれば誰かしら話しかけてくると思ったのだが、さすが氷帝、天下の金持ち校。
 皆様妙なところでお上品なのか、誰一人としてに話しかけてこようという者はいない。
 ただし視線だけは遠慮もへったくれもなく――――と、いうか少しくらいは謹んで欲しいほどに一点集中。
 こんなに静かで緊張感に溢れ、あげく神経の削がれる転校初日は初めてである。
 視線の訳を問おうにも数が多すぎるは、にじみ出る典雅なオーラに気後れするやらではて誰からあたってゆけばいいものやら……。
 挙句の果てには教師諸氏にまでじろじろ見られ(こちらはさすがに分別ある範囲であったが)、の心境はさながら雨に晒された塩柱のごとく。
 今更ながら身に沁みる場違い感を味わいながら、しかし表面上は淡々とは授業(ノルマ)をこなしていった。






 ――――スピーカーから流れ出すは救いの鐘の音。




 昼休みを告げるチャイムに、クラスメイト達は銘々散っていったり、お弁当を用意したり。
 どうにか視線から解放され、安堵のあまりぐでーと打ち上げられたクラゲのごとくべったり机に懐きたおすを影が覆う。
 のろのろと顔を上げると、そこには無に少しばかりの心配を振りかけたような表情の樺地崇弘がいた。
 今回の転校において"嬉しい誤算"という奴があるとするなら、それは樺地の存在だろう。






 跡部にとって幼稚園からの友人(一部従僕の声もあり)である樺地とは、よく跡部のおまけという形で遊んでもらっていた。
 跡部の友人にしては物静かで思慮深い彼のことを、とても好ましく思っていたことを覚えている。
 あれから月日がたち、樺地の存在もわずかながら思い出の影に隠れかけていた。
 だが縁の糸というのは当人が思っている以上に頑丈らしい。
 朝練が始まる前、跡部によって引き合わされた瞬間自分が口を開くより先に名を呼ばれたのが、嬉しかった。



 とても嬉しかった。


 声にならないくらい、言葉に出来ないくらい嬉しかった。



 再会の、そして覚えていてくれた事への感動からの涙腺は決壊。
 さんざん泣いて泣きわめいて、彼を困らせてしまった(なお幼なじみは隣でずっとにやにや笑っていた)
 六年ぶりにしてはずいぶんみっともない形での再会だったが、樺地は昔と同じように何も言わずハンカチを差し出し慰めてくれた。
 こんな所まで変わっていないのかと再び感涙してしまったほどだ。
 最初は迷惑に思っていた跡部の横車および同行の強制も、彼に出会わせてくれたのだからチャラ。むしろかえって感謝したい。
 今こうして、六年の不在に対するわだかまりなど一切ないかのように接してもらえるのが、には嬉しくてありがたかった。




「あ……、うん。そうしてもらえるとありがたい」
 小さい、しかし耳に心地いい低音で告げられた昼食の誘い。
 異分子としてまったく学校になじめないを気遣ってくれたのだろう。
 今朝からの出来事にささくれだった心へ樺地の優しさがしみいり、また鼻の奥がつんとなる。
 あまり心配させるのもいけないと、はことさら明るく笑って、
「よし! じゃあけーごも誘おう。どこか一が少なくて、ゆっくり出来るところを探してさ」
 たくさん話したいことがある。
 これからのことや、これまでのことや、とにかく時間が許す限り話し合いたい。
 鞄から弁当を取り出し足取りも軽やかに教室を出る。
 後を追いかけてくる視線も、前から突き刺さる興味も、隣に並ぶ樺地の姿にどうでもよくなっていた。

あとがき

If「もしも氷帝に転入していたら?」
後編は跡部視点です。

戻る/