:秋空に思い流るる:
風祭・桔梗
「俺は一人で行く! てめぇは勝手にどこへなと行きやがれ!」 高らかに宣言して、風祭は駆けだした。 制止をかけ、伸びた手はむなしく空を切る。 小さな背中は、たちまち雑踏の中に消えていった。 「かざまつっ!」 「しょうのない坊やだねぇ……」 追いかけようと走り出す龍斗の肩を掴み、桔梗は首を振る。 風祭の消えた方角を見据える瞳が、呆れたように笑っていた。 「よしなよ。今追いついたってあの子の曲がったへそは治らないよ」 ここは一つ、放っておくのが良策さね。 言うと、桔梗は三味線を抱え直し悠々と歩き出した。 龍斗はしばし風祭が消えた方を見つめていたが、やがてそうしていてもどうしようもないことに気がついて桔梗の後を追った。 天候というのは、やはり少なからず人の気持ちに影響を与えるものらしい。 武家屋敷の多い場所に入ったのも悪かったのだろう。 人の姿はまばらで、しかも道行く彼らの表情にはどこかしら覇気が無く、足取りも何者かに追われているかのごとく忙しない。 それにならい、龍斗の足も心持ちも自然と落ち着きをなくす。 まだ直接的な被害がないにもかかわらず、柳生の脅威は日々を安寧に過ごしている市井の人々を脅かし始めている。 人の言葉に耳を傾ける余裕もないのか、龍斗の話に立ち止まってくれる者は少ない。 このままではいけない……と思いながらも何もできないという苛立ちからさらに速まる足。 もはや小走りと言っていいそれを、止める者がいた。 「――――さん、ちょいとまちなよ、龍さん!」 あんた、人の歩幅も考えてくれないかい? 強く袖を引かれ思わず振り返った先に、息を荒げた桔梗がいる。 綺麗な富士額に滲む汗を拭う様に、龍斗はすっかり桔梗を忘れ先走っていたことに気がついた。 「すまんッ、姐さん」 「ほんにもぅ……。そんなにあたしと連れだって歩くのはイヤなのかねぇ……」 唇をとがらせ外方を向く桔梗に、龍斗は必死に弁解する。 だが口にすればするほど、謝罪は単なる言い訳へと変わってゆく。 最終的には詫びの言葉も弾切れを起こし、龍斗は項垂れ黙りこくった。 こういう時ほど、自分の口べたを恨まぬことはない。 気持ちに口が追いつかないのだ。 上方の人間と言えば、誰も彼もおしゃべりだと思われがちだが、龍斗自身は無口な質で、どちらかと言えば口で語るよりも拳で語る方が得意だ。 さらに言うなら、拳を握らずとも空気で察して欲しい、むしろ災いの種になるくらいなら何もせぬ方がマシだと思うほどの臆病者である。 今もそうだ。 先ほどまでの上滑りな弁明を早後悔しはじめている。 これが天狗や俳諧師ならもっとうまくやれるだろうに……と唇を噛む龍斗の耳に、密やかな含み笑いが届く。 間近に聞こえる声に、顔を上げる龍斗。 「およしな。大の男がそんなしょぼくれた顔するなんて……」 おかしくってへそで茶がわくよ、と先ほどまでの不機嫌面などどこへやら。 にんまり頬をつり上げる桔梗がいる。 笑いと言うよりは嗤いの色が濃い。 龍斗はからかわれていることよりも、桔梗の機嫌が直ったことにほっと安堵の息を零した。 その様が、またおかしかったのだろうか。 桔梗はコロコロ笑いながら、細めた目から視線を覗かせた。 「そんなに坊やが心配かい?」 問う声に、龍斗はきょとんと目を見張る。 桔梗曰く、さっきからの弁解には、いくつも風祭の名が含まれていた。 そんなに風祭を一人にさせたのが不安か、との問い掛けに、当然だと龍斗は頷いた。 風祭がいかに実力者といえど、相手はあの柳生なのだ。 直接対峙したときに感じた殺気と闘気は、自分達を遙かに凌駕していた。 それに配下の蜻蛉、黒蠅翁も得体の知れぬ恐ろしさがあって予備知識無しに相対したい相手ではない。 風祭はどうも無鉄砲というか向こう見ずなところがあって、敵を見つけたが最後、相手との力の差も分からず吶喊される恐れがある。 同じ龍閃組の蓬莱寺も浅慮には浅慮だが、まだ年をとっているだけ、分別があるのだが……と愚痴り半分思いのまま吐き出せば、さらに桔梗は笑って、 「過保護さねぇ……。それは、坊やが"【陰】の龍の技"とやらを継いでるせいかい?」 口元を手で覆い、瞳だけがこちらに向いている。 その目は、こちらの思惑だけでなく過去未来すべてを見透かすような不思議な深みがあった。 龍斗もまた、桔梗に視線を合わせ――――そして頭を振る。 風祭が"【陰】の龍"の伝承者であると知ったのは、ここ最近のことだ。 と、言うか江戸に出てくるまで風祭の存在はおろか自分の学んでいた武術がそんなご大層なものであるなど知りもしなかった。 江戸に出てくるまでの龍斗はただの半百姓で、今でもそのつもりでいる。 だからそんなのどうでも良い。"裏"だの"表"だの、博奕の世界だけで十分だ。 誤魔化しても無駄と正直に打ち明けた答えに、桔梗が返したのは奇妙にねじ歪んだ表情だった。 桔梗が疲れたように首を振る。 「分からないねェ。それじゃあ、龍さんが坊やを心配する理由がないじゃないか」 昔からの知り合いというわけでもなければ、表裏の技の継承者だからという理由でもない。 しかも、つい最近まで――――場合によっては今後、再び敵になるかもしれぬ相手なのだ。 そこまで心配する理由が見あたらない。むしろ、今のうちに始末されておけば儲け物ではないのか。 表情も変えずしらっと恐ろしいことを言う桔梗に、色をなくしたのは龍斗の方だった。 仮にも仲間をそんな風に言えるとは――――敵に回したくない人間がまた増えた。 「まったく……あたしにゃ龍さんの考えがさっぱり読めないよ」 龍斗にも桔梗の考えはさっぱり分からない。 だがそれを正直に言ってまた機嫌を損ねられたら困るので、龍斗はさっきの桔梗の言を聞かなかったことにした。 「まぁ、心配する理由やったら普通にあるけどな」 「へぇ、たとえばどんな?」 つぶやきに、桔梗が食いつく。龍斗は答える。 たとえば、一時的とはいえ手を組んでいる相手だからだとか、風祭の無鉄砲振りが龍閃組の誰かさんを思わせるからだとか、あるいはあの突っかかり具合が故郷の弟妹を思い出させるからだとか、それこそ枚挙に遑が無い。 第一、さっきから桔梗は龍斗が風祭ばかり心配しているように言ってるが、それは過ちだ。 「俺は、桔梗姐さんらも心配や」 呟いた言葉に、桔梗は目を見張る。瞳孔が開ききった、黒い瞳がこちらを向いた。 「別に心配しとるんは風祭だけやない。桔梗姐さんも九角も九桐もみんな、心配やし、気に掛けとる」 かつて敵だったとはいえ、今は手に手を取り合って柳生討伐を誓う仲間達なのだ。 一人も欠けさせたくないし、怪我も負わせたくない。 かかる災難があるなら、全部自分が引き受けたい。 己でも青いと思う龍斗の言葉に何とも言えぬ、泣き笑いのような表情が返答される。 「――――やっぱり龍さんはよく分からないお人さね」 眉をしかめて桔梗は続けた。 「あたしらは"鬼"だよ? 本気で仲好し小好しやっていけるなんて信じてるのかい。いつなんどき、アンタ達の寝首を掻くか分からない相手をさ……」 「せんよ。桔梗姐さんも九角も九桐も風祭も。そない卑怯もんちゃう」 それは願望というよりも確信だった。 鬼道衆は、確かに幕府に仇なす反逆者である。 で、あるが下衆ではない。 手を組む仲間をこれ幸いにと奸計に陥れることが出来るほど、彼らは"鬼"ではないと思う。 茶化しははいっていない。 正真正銘、掛け値無しに本気の本音だ。 「――――なんともはや……呆れたもんさね」 見事な買いかぶりだ。と、桔梗は鼻で笑い飛ばす。 アンタのようなお人好しはこの先百年たっても現れないだろうと嗤って――――桔梗はふと表情をゆるめた。 それまでの気持ちが推し量れないお面のようなものではなく、慈母のごとき暖かみのある表情だった。 「桔梗姐さん?」 「本当に呆れたもんさ。あぁ、呆れた。呆れ果てた。――――アンタの言葉を信用しはじめてる、自分に呆れた」 言って、桔梗ははじめて微笑った。 「なんだろうねぇ。いつもだったら疑ってかかるような言葉でも、龍さんの口から聞くと本当だと思っちまうよ」 「思ってくれて構へん。全部ほんまやねんからな」 と、いうか信じてもらわないと困る。 これ以上痛くもない腹を探られ通しでは、いつまで経っても信頼関係は築けない。 できれば、柳生の一件が終わった後も鬼哭村の面々とは親しい仲間でいたいと思う。 自分だけじゃなく、きっと美里や醍醐もそう思っていると付け加えたが、桔梗はその時だけ何も言わずただ微笑み頭を振った。 「……ねぇ、龍さん」 するり、と空気が動く。 嗅いだこともない艶めかしい香の匂いが立ち上る。 顔のすぐ下に、桔梗の妖艶な笑みがあった。 ひゅっと香ごと息を呑む。 「頼りにしてるよ。あいにく、今幕府側で信用できるのは龍さんくらいのもんだからね。――――もちろん、これからどう転ぶか分からないけどねぇ」 最後は試すように耳元で囁き、桔梗は離れた。 香が、名残惜しげに鼻先をくすぐる。 龍斗はそこでやっと詰めていた息を解放した。 思わず押さえた耳朶に、まだ熱を持った桔梗の吐息が残っている気がする。 みるみる間に龍斗は顔だけでなく頭の先からつま先まで真っ赤に茹で上がった。 この年になっても女に免疫のない龍斗には、少々どころではないほど刺激的な体験だった。 桔梗はそんな龍斗の様子を、まるで生娘のようだところころ笑っている。 天井知らずにあがってゆく顔の熱に、龍斗はどうして良いものかさっぱり分からずただ俯いた。 「まったく腹芸の出来ないお人さね。他人の心配より先に自分の顔色の読まれ安さをどうにかしたらどうだい――――あんたもそう思うだろぅ?」 ねぇ、坊や――――。 続く言葉と見据える視線に龍斗は赤い顔も忘れて振り向く。 見れば武家屋敷の塀の角から見知った顔が覗いている。 すぐに引っ込んだが、あれは間違いない。 「な、なんしとん、風祭!」 まったく気配を悟られぬよう龍斗の後ろをとれるとは、さすが【陰】の龍とでもいったところか。 今度こそ見失わぬようにと駆け出した龍斗だったが、意気込む必要はなく、風祭は塀のすぐ側で立ち尽くしていた。 「お前、こんなとこでどないしたんな」 一人で行く、と意気込んでいたが、この様子では迷子にでもなったのだろうか。 問うてみても風祭の口は貝の口。 まったく開く様子はなく、しまいには龍斗まで黙り込む始末。 さて、どうしたものか。 二人揃ってかかしのように突っ立っていると、後ろの方で咳払いがした。 音の方を向けば、片眉を器用にそびやかせた桔梗がいる。 「いつまでも追いかけてこないから、痺れ切らして逆に探しに来たのかい、坊や?」 「ばッ、な、なに言ってんだ!?」 からかうような口調に、突っかかる風祭。 おや、違うのかい? と、余裕綽々手慣れた様子で風祭をあしらう桔梗。 風祭も再び口を開こうとするが、それ以上言葉は出ず、ああううとうなり声を上げるだけに終わる。 拳を握りしめ、耳とうなじを真っ赤に染め上げる姿がとても他人事とは思えない。 龍斗もついさっきまで、こんな風に桔梗にからかわれていたからだ。 同病相憐れむと言うわけではないが、さすがに見かねて龍斗は助け船を出すことにした。 「――――風祭」 「な、なんだよ!?」 なるべく優しく、刺激しないようにそっと声を掛けると、弾かれたように風祭は面を上げた。 桜井をたしなめるときの美里を手本に、うっすら笑顔も浮かべてみる。 「俺らンこと心配して来てくれたんやなぁ。おおきにやぁ」 「……ッ!?」 自分に出来る、めいっぱい、精一杯の優しさだったのだが、しかしどうしたことだろう。 「そんなわけあるか――――ッ!!」 返ってきたのは酔っぱらった八岐大蛇でも目が覚めるほどの大声だった。 「うぬぼれてんじゃねぇ! 何でてめぇなんかの心配しなきゃいけねぇんだよ!!」 あまったれんな! 鼓膜をいまだ震わせる爆音にうずくまる龍斗を置いて、風祭は再び走り出す。 が、龍斗の方はそれどころじゃない。 まだ雷にでも打たれたかのように震える耳を押さえて数分後。 龍斗が立ち直る頃には、もうすでにその姿はどこにもなかった。 「――――なんなんねやぁー」 一体何のために戻ってきたのか。 そして何をしたかったのか。 諸々の疑問を残して消えた風祭に向かって、涙のにじむ目で問うてみても、もうすでに龍斗の声は届かない。 龍斗はまだじんじん痛む耳を押さえながら立ち上がった。 「照れ隠しさね、あれは」 気にしないでおくれよ。 桔梗が懐紙を寄越しながら言う。 視線が、風祭の消えた方を見つめていた。 その慈しむような視線の色に、桔梗も龍斗同様風祭を心配していたのだと知る。 龍斗のことを心配性だとかなんだとか言っていたが、どうしてどうして桔梗も結構なかわいがりようである。 涙と鼻水を拭った懐紙を懐に入れて、龍斗も桔梗同様風祭の去っていった路地を見据えた。 「これ……追わんかったらさっきみたいにへそ曲げるんやろか」 「九分九厘、怒るだろうねぇ……」 あぁ、おっかない。おっかないと肩をすくめて桔梗は歩き出す。行き先は、風祭と同じ方角だ。 桔梗が振り返る。 「ねぇ、龍さん。坊やを回収したら、もっと街道の方にでてみないかい。そこなら情報も集まりやすいだろうさ」 ついでに、天戒様への土産も買って行こう、と提案して先を急ぐ桔梗に、これではさっきと立場が逆だなと思いながら、龍斗も風祭を追い始める。 歩みながら、龍斗は先ほど桔梗が口にした言葉を反芻していた。 "照れ隠しさね、あれは" (――――まだ、諦めんのは早いわな) 少なくとも、龍斗達に対する感情は負ばかりではないことが、今日桔梗のおかげで分かった。 鬼道衆とはわかり合える日が来る。 それがいつになるかまでは分からないが、きっといつかその日は来る。 隣に並んで笑いかけてくれる桔梗の姿に、その思いを強くする。 (まぁ、その為には身近なところからせめてこかー) ――――小柄な背中が項垂れるように縮こまりながら歩いているのを見つけて、龍斗は足を速めた。 |
あとがき
風祭の出番が少ないのは仕様です。
作中、姐さんがえらい薄情に見えますが、一応演技のつもり。
本心を見せない美女が、ある日ぽろっと弱音や本音を出す……っていうシチュエーションが大好きなんです!